紙の本
天を畏れること
2020/03/20 21:22
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投稿者:やっこ - この投稿者のレビュー一覧を見る
小林秀雄は頭で考えたというよりは、腹で考えたのではないか?と思いました。
どこまでも生活する、生きていることの実経験から考えたと思いました。
そして、天という言葉が昔の人には実感としてあったことが今の私にはつかみにくいということを思います。
内村鑑三の『代表的日本人』のなかで、西郷さんが天の声を聞いていますし、内村鑑三自身も天という言葉を遣っています。
この天を畏れることを、今の私たちは忘れかけているように思えてなりません。
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常識は生活経験によって、確実に知っている、人の心は、そのもっとも肝腎なところで暗いのだ
これは、精神の活力のある衰弱を語るものではあるまいか。衰弱が、誇張された言論や、空威張りの行動となって現れるのも、たやすい理ではないか。
歴史家の客観主義は、歴史を振り向くとともに、歴史上の人々にも歴史を振り向かす。それは、歴史のいたるところで、自分と同じように考えている歴史家だけにめぐり合おうと計ることである。
病んだ個性は、個性を主張しながら、画一的な綱領や主義に対し、殆ど抵抗する力がない。自尊心ほど弱いものはない。
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2009/8/31図書館で借りる
2009/9/6返却
批評家として有名な小林秀雄さんの書かれた本です。
考えるヒント2
忠臣蔵?:
忠臣蔵については無知なのでこの部分は読み飛ばす。
忠臣蔵?:
同上
学問:
【キーワード】儒学、朱子学
戦争を止めた武士たちの意識や教養に、言葉を供給したものは儒学であった。武士道の背景には、朱子学があった。
私達は皆、物と物の名とを混同しながら育ってきたのだ。物の名を呼べば、忽ち物は姿を現すと信ずる子供の心は、そのまま怠惰な大人の心でもある。歴史家たちが、歴史を解釈し、説明する為に使用する言葉の陰に、何かがある、その何かがあるという事と、彼等がどんな言葉を便宜上選ぶかという事とは全然関係のないことである。
徂徠(そらい):
弁明:
考えるという事:
ヒューマニズム:
還暦:読了
おもしろい。孔子やソクラテスに関する記述など。
天という言葉:
【感想】
福沢諭吉は、彼の生きた急激な過渡期に際し、恰も「一身にして両頭あるが如」き知識人が必ず氾濫する事を証明している。一身を両分するわけにはいかないが、人格は、精神さえ空白になれば、幾つにでもたやすく分裂するだろう、という事を実に鋭く看破していた。この力は彼の分裂を知らぬ自覚から発していたのだが、この自覚の姿は、彼のいわゆる「実学」の影に隠れたのである。
哲学:
天命を知るとは:
歴史:
常識について
解説 江藤淳:
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前回の「考えるヒント」よりも難しくなった感が否めない。。
小林秀雄が深い共感をもつ近世の学者の思想が、いかに学問を追求したか。
「そこに書かれた事を信ずるのではなく、それが意味するもの・表している現実を信じよ。」当時の日本人が行った事がまさにこれだった。
本質をつかむ、といってしまっては元も子もないが、こういう事なのだろう。
また、読みなおしたい。
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『解説』は、江藤淳さんが、書いておられる。
もう一度ゆっくりと読みたいが、紙面は黄変し、読みづらい。
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時間もたんまりかけて、脳細胞をフル動員してガジガジとかじってみたのだが、全く歯が立たない。さっぱりわからない。アフォリズムの一つすら拾えない。俺は馬鹿なの?
「アンチオイディプス」「ゲーデル・エッシャー・バッハ」も、「カラマーゾフ」の「大審問官」も難しかったが、彼らは、こちらが息を切らして、ボロボロになりながら這い登った高い先の暗闇で待っていてくれて、手を差し伸べてくれたのに。
手を差し伸べないことが、理解されないことが目的なのだろうか?だとすればこの作者が馬鹿なの?
俺の人生には存在しなかったことにしよう。3、と4は短時間で流し読みをしてやろうっと。
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紙背に徹する眼光をいかに得るか、それが肝要と小林秀雄は繰り返し説く。「眼光紙背」とは、紙の裏まで見通すこと、つまり、字句を解釈するばかりではなく、行間に潜む深い意味までよく理解することである。
「読書とは、信頼する人間と交わる楽しみである」(学問)
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私達は皆、物と物の名を混同しながら育って来たのだ。物の名を呼べば、忽ち物は姿を現わすと信ずる子供の心は、そのまま怠惰な大人の心でもある。歴史家達が、歴史を解釈し、説明する為に使用する言葉の蔭に、何かがある、その何かがあるという事と、彼らがどんな言葉を便宜上選ぶかという事とは全然関係のない事である。
出来上がった知を貰う事が、学ぶ事ではなし、出来上がった知を与える事が教える事でもなかろう。質問する意思が、疑う意思が第一なのだ。
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前作が面白かったので「2」を読んだ。前作と比べてしまうと、内容が小林の専門の国文学によったものなので、やはり難しい。しょうじき、宣長、徂徠、蕃山、仁斎などを語られてもすんなり入ってくるものではなかった。ただ、以下の蕃山の一文は収穫。
「天地の間に、おのれ一人生きてあると思うべし」
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読めば読むほど味わい深い。
フロイトの理論を歪めた後継者たち、それを尊ぶ現代知識人の愚かさ、デカルトの方法叙説を私の方法と訳し、敷衍した常識についても目からウロコ。小林秀雄の認識の源泉はどこにあったのか。そこが知りたいところである。
“復讐という言葉の発明は、正義という言葉の発明と同時であった。”
“イデオロギイとは文字通り、観念の形体であって、その中身を空っぽにしなければ得られなないものだ。又、事実、思想は、その中身を失い、社会通念として流通して、はじめてわかり易い、眼につき易い形を取るものだ。”
“素行や仁斎の古学と言い、狙徠の古文辞学と言い、近代的な学問の方法というようなものでは、決してなかった。彼等は、ただ、ひたすら言を学んで、我が心に問うたのであり、紙背に徹する眼光を、いかにして得ようか、と肝胆を砕いたのである”
“理屈はどうでも付くとは、理屈本来の性質なのであり、理は独り歩きして、世界に無レ之ところに行っても、理は理なので理を言い、智を喜ぶより、生きる方が根底的な事だ、知るより行うのが先きである、これが徂徠の基本的な思想であった”
“深い思想ほど滅び易い、と言っても強ち逆説ではなかろう。実際、人が、或る思想を人間的と呼ぶ時は、まさしくそういう事を指している”
“忍耐とは、癇癪持ち向きの一徳目ではない。私達が、抱いて生きて行かねばならぬ一番基本的なものは、時間というものだと言っても差支えはないなら、忍耐とは、この時間というものの扱い方だと言っていい。時間に関する慎重な経験の仕方であろう。忍耐とは、省みて時の絶対的な歩みに敬意を持つ事だ。円熟とは、これに寄せる信頼である。忍耐を追放して了えば、能率や革新を言うプロパガンダやスローガンが残るだけである”
“常に見られる進歩派と保守派との対立は、伝統の問題には、恐らく何んの関係もあるまい。両者が争っている対象は、伝統というよりむしろ怠惰な精神にも自明な習慣というものだ、と言った方がいいだろう。”
“意識が、眼に見えぬ無意識という心的エネルギイに条件付けられたものなら、眼に見えぬという理由にならぬ理由で、神聖視されていたような精神的価値など、もう何処に住んでいいか解らぬ。”
“ニュートンは、いったん世界が成立した後は、世界は力学の原理に従って運動しているが、世界をかくの如く成立させた力を、この原理自体から導く事は出来ない事をはっきり知っていた。この物質的とも非物質的とも決め兼ねる力を、彼は全知全能の神に帰した。”
“ペインという社会革命家は、コンモン・センスという理想をかかげた、と言っても過言ではあるまい。アメリカ独立という理想について、自分は、煽動的言辞も煩瑣な議論も必要としていない、誰の眼にも見えている事実を語り、誰の心にも具っている健全な尋常な理性と感情とに訴えれば足りる、そういう考えから、ペインは、その革命文書に、コンモン・センスという標題を与えたに相違ない”
“古人の書物ばかり有難がっている人々より、誰にも備っている凡��単純な分別だけを働かせている人々の方が、私の意見を正しく判断するだろうと思うからだ」と。そして重ねて言う。「私が、私の審判者と望むものは、常識を学問に結びつける人達だけである」と。”
“「出来る限り」という言葉は、デカルトの著作に、屡々使われているが、この意味は、大変はっきりしたものなので、人間に可能な限りという意味なのだ。そこには、制限された人間という存在に関する彼の鋭い意識が、いつも在るのです。”
“私達が常識という言葉を作った以前、私達は、これに相当するどういう言葉を使っていたかというと、それは、やはり生活の知恵を現す「中庸」という言葉だったろうと思う。”
“人間に出来る事は、天与の知恵を働かせて、生活の為に、実在に正しく問う事だ。実在を解決する事ではない。正しい質問の形でしか、人間にふさわしい解答は得られはしない。”
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このメモページのタイトルそのままである
知識の量を理解しようと時間をかけている端から読み終えた分を忘れていく
たぶんこの1冊を繰り返し読み続けて飽きない自信がある
1冊読み通すまで寝ずにいられる自信はない
今後もこの本を自身に役立てられない確信はある
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小林秀雄 「 考えるヒント 」 荻生徂徠を中心とした江戸思想に関する随筆。考えるヒントとして、江戸思想家の思索、内観を取り上げている。1より 各随筆に共通性があり 面白い
徳川期の儒学、朱子学=思想上の戦国時代
*当時の学問は 学というより芸→邪説を含めて広い読書は不可能→古言の吟味→読みの深さ、自得、内観が重要
山鹿素行〜自分の歴史家としての成熟と開眼
*耳を信じるな=聞こえてくるままの知識に頼るな
*目を信ぜよ=心の目を持て→史眼とは心眼のこと
荻生徂徠
*学問は歴史(伝統)に極まる=学問するとは 歴史を生きること→自己の歴史的経験を明らかにすること
*注に頼り早く会得することは 自己の発見が生まれない
*孔子は 確かな物(仁、徳など)を好み〜これを行うことによって 智を成した→智により物を得たのではない→知るより行うのが先
徂徠「弁名」
*学問は先ず言語の学であるべき=言語の究明
*物あれば名あり→聖人が 道 という名を発見した
*道とは 形のない物、定義できない物全体の統名
*聖という名を弁じて 聖とは 作るという行為を指す名
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一読したが、2割程の内容しかまともに読めなかった。考えるヒントを得る段階まで、しばし補填が必要。十二分に個性的な人物を取り上げているので、一般論として読むことはできない。
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「考える」ことについて、雰囲気では許されない、徹底的に考えることを求められる、のはわかる。ただ、やはり時代背景が違いすぎて、四書五経をもとにされてもなかなか難しいので、ただ、その精神を学ぶ、ややコスプレ的な「考える」になってしまうのが申し訳ない。
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一文一文それぞれに深い意味がある(と思う)。全部は理解できなかったが、勉強になったことはたくさんあった。修行を積んだらまた読みたい。