紙の本
せめてこの本で,日本の右翼に関してだけでももそっとよく知っておこうかな,と
2009/03/10 06:42
12人中、8人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:SnakeHole - この投稿者のレビュー一覧を見る
実を言えば永らく,左翼思想に比べると右翼思想というものをちゃんと理解してないような気がしてた。あ,もちろん左翼の方のヒトに言わせれば「オマエは左翼思想だって全然分かってない」と言われちゃうのかも知れないわけだけど,現在左翼のあらかた(例外もあるのかも知れん)がマルクス路線であるのに対して,右翼って違うぢゃん。
日本の右翼は天皇陛下バンザイだしアメリカの右翼はキリスト教が絶対だこの野郎,なわけでしょ。イスラム原理主義も左右どっちだと言ったら右っぽくて,つまりは昨今のアメリカとイランの対立なんて「右翼の内ゲバ」みたいに感じられる。そこでせめてこの本で,日本の右翼に関してだけでももそっとよく知っておこうかな,と。
著者は橋川文三(って誰だ?と訊かないこと)が1960年代に編んだアンソロジー「超国家主義」を出発点とし,ここに収録されている右翼思想家を時代や思想,その他あれこれの系譜で並べ,近代日本における右翼思想の潮流というものを概括していく。あとがきにその「まとめ」があって,それが実にとってもよくまとまっているので引用しておこう。
近代日本の右翼ってのは「今の日本は気に入らないから変えてしまいたいと思い,正しく変える力は天皇に代表される日本の伝統にあると思い,その天皇は今まさにこの国に現前しているのだからじつはすでに立派な美しい国ではないかと思い,それなら変えるような余計なことは考えないほうがいいのではないかと思い,考えないなら脳は要らないから見てくれだけ美しくしようと思い,それで様を美しくしても死ぬときは死ぬのだと思い,それならば美しい様の国を守るために潔く死のうと思」ったあげくに読み返しても分かるようになにがなんだか分からなくなってにっちもさっちも行かなくなってしまったんぢゃないか,と。個々の人々の思想の深淵はともかくとして,結局にっちもさっちも行かなくなったことはオレにも実によく理解できました。
あ,最後にこれは書いとく。前にもどっかで書いたような気がするが,オレは右翼にも左翼にもさしてシンパシーを感じてない。つうか,世の中のヒトってのは「右翼とか右寄りのヒト」と「左翼とか左寄りのヒト」の2種類に分けて考えるよりも,「右だの左だの自分がどーであるかはっきりさせ,ついでに他人にもそれへの賛同を強いずにはおれないハタ迷惑なヒト」と「そういうことをしないヒト」の2種類に分けて考える方が正解ぢゃないのか。つうか,そういうモノサシを当てると,右翼のヒトと左翼のヒトはまるで一卵性双生児のようにソックリでしょ? 結局にっちもさっちもいかなくなっちゃうところまで,さ。
紙の本
目次に全てが集約されている
2007/10/02 14:06
11人中、8人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:FAT - この投稿者のレビュー一覧を見る
本書については、まず目次を見て欲しいと思う。著者の「近代日本における右翼」の見通し、パースペクティブがここに集約されている。
第1章 右翼と革命
世の中を変えてみようとする、だがうまくゆかない
第2章 右翼と教養主義
どうせうまく変えられないならば、自分で変えようと思わないようにする
第3章 右翼と時間
変えることを諦めれば、現在のあるがままを受け入れたくなってくる
第4章 右翼と身体
すべてを受け入れ頭で考えることがなくなれば、からだだけが残る
その後、まず本書の「まえがき」と「あとがき」を読んで欲しい。
「教義」が体系化され、「教典」を持っている左翼思想の一部としてのマルクス主義に比較し、右翼思想というのは、体系的な思想として見えてこないきらいがある。いわば、右翼には、行動主義と情念はあっても、思想はないということだ。近代日本の右翼思想の源流に日本流の陽明学を措定した小島毅氏の「近代日本の陽明学」にも、同じよう視点があるようにも見受けられる。
しかし、本書の視点からは、少なくとも近代日本における右翼思想は、どうしても思想として一本貫くことのできない宿命のようなものがあり、その結果、鵺のような存在になってしまったのだということがよく分かる。この視点からすれば、右翼思想を思想として存在感のあるものとして、改めて批判的に見ることができるよになる気がする。
なお、本書の「まえがき」における、左翼、保守、右翼の内包の整理は、大鉈過ぎるとも言えるが、これ位の整理からはじめて、更なる精緻化を議論するのが良いと思う。この点も、本書を繙いた成果であった。
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左翼を「急進的な未来の即座の実現を求める」勢力、右翼を「過去に反り返って現在から切り離されたさまざまな過去のイメージを持ち出し現在の変革を叫ぶ」が、「過去に分け入ってその果てに天皇を見いだし、その天皇が相変わらずちゃんといる現在が悪いはずがないと思い直し、ついには天皇がいつも現前している今このときはつねに素晴らしいと感じるようになり、現在ありのままを絶対化して、常識的な漸進主義すら現在を変改しようとするのだから認められなくなり…」という勢力だとまずは大きく分けて、そこから様々な右翼の形態と変遷を整理している本。「時間」(現在への自己充足の日本的表現としての中今)と「天皇」(革命的大カリスマが同時に打倒するべき現秩序の代表者)についての右翼、そして超国家主義者(著者は大正という特殊な時代の産物としている)の取り扱い方を中心にして考察している。最後の「身体」に関する説明もユニークだし、終盤に向かうにつれ著者も意図していないだろうけど笑いをとるようなトンデモ右翼が出てくる。次回に続くーという感じではあったがよく勉強になった。けっこう楽しそうな結社もあり、意外。
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再読。
大正・昭和前期の右翼思想、その思想的な流れを辿った一冊です。
といっても教科書的な羅列ではありません。自らの理想理念に従い世の中を「革命」しようとしていた右翼思想、なぜそれが現状肯定、ついには身体賛美へと変じていったかを解き明かしています。
文章も論理も非常に明晰、引用傍証も充実しており、読み進めるにつれて頭の中身が綺麗に整理されていきます。西田幾多郎から右翼思想への流れなど、目から鱗が落ちるような指摘も満載。読んだ後で誰かに語りたくなること請け合いです。
むろん、著者の議論を頭から信じることは危険でしょう。これ一冊で満足するのではなく、多方面の資料や、それこそ教科書を当たってみる必要があると思われます。
とはいえ、刺激に富む一冊であるのは確か。お勧めします。
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変革の必要を感じながら、正しい変革の力は天皇に代表される日本の伝統にあると思い、その天皇が現在日本に現前しているのだから立派な美しい国だと思い、では変える必要はなく、変な知識などに目を曇らさずありのままの日本を感じることが大切だと、いつの間にか反知性的な流れに陥った戦前の右翼思想をてさばきよく解説していて大変示唆に富んでいた。単に戦前の潮流を批判するのではなく、こうした反知性的な衝動が現代にいたってもいつでも噴出する恐れがあることを鋭く警告している。
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日露戦争後の超国家主義を社会に出現したアノミー状況の変革を目指すある種の革命思想と捉える橋川文三の観点を基本的な軸として、右翼思想とその運動が挫折する過程を追う。過去を理想化し、そこに反り返って動くすなわち反動としての右翼は必然的に日本の「素晴らしい過去」を体現する天皇に行き着く。しかし天皇は肯定すべき過去であると同時に、その過去と連続していながらしかし否定すべき現在を体現してもいる。この矛盾にぶち当たった右翼は自ら変革する道を諦め、すべてを天皇に任せる。この思想を代表するのが安岡正篤だ。天皇を手段として右から革命を起こそうとした北一輝が2.26事件で刑死したのち、彼の思想は政府中枢を中心に一段と訴求力を強めていく。この時代の知識階級の支配的エートスであった教養主義の人格主義に影響を受けた安岡は個々の心の中にある「本当の自分」=真我こそ重要であると説く。この真我は国家や社会などの団体生活においてはすなわち天皇である。人が真我に目覚め最高道徳に支配される社会を作るには天皇に直面しなければならない。これ以外はすべて偽りである。天皇の意向なしに革命を起こすことはあり得ず、革命の主体はただ天皇だけである。こうした論理から、ともかくここに右翼自らが変革の主体となる道は潰える。すべては天皇に任されるのである。次に右翼は現在を至上化する。素晴らしい過去を体現する天皇は現在においても変わらず存在する、だから現在も素晴らしいという理路を通るのである。この時間意識には「歴史」は存在しない。過去も未来もなく、ただ「中今」すなわち「永遠の今」(丸山)がある。今がなしくずし的に連なる時間意識の中で、「歴史的思考」は拒絶される。ただ今をあるがままに受け入れること。今を楽観的に信頼し寄りかかること。理性によって観念された世界は偽りであり、手ざわりのある現在だけが拠り所となる。ここに理性とそれを司る脳が拒絶され、その代わりに身体が持ち出される。『ドクラ・マグラ』の主人公アンポンタン・ポカン君よろしく脳を否定した右翼は身体を美化し始める。だがいくら身体を美うしたところで個々の身体は有限である。すなわち死を免れることはできない。そこでどうせ死ぬのだから国防のために潔く死のうという考えが出てくる。理性を否定した果ての身体論はこうして「死の哲学」に結びつく。
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筆者の博士課程論文などがベース。日本では大正教養主義の玉石混淆の状態から個人主義を克服し社会変革ではなく現状肯定、その為の身体論と特攻精神へと昇華する右翼思想があると分かる。三井甲之、伊福部隆彦は知らなかったので勉強になる。安岡正篤の天皇が言うまで何もしないという錦糸革命が血盟団らと折り合いが悪い理由もわかる。面白い。
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北一輝、蓑田胸喜、
西田幾多郎、長谷川如是閑
阿部次郎、安岡正篤、
井上日召、大岡周明、
その他 そうそうたる人物たち
その中には夢野久作まで…
右翼思想という
文脈でとらえたとき
その人たちの位置づけが
とても興味深い
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近代日本の右翼思想 (講談社選書メチエ)
(和書)2012年07月10日 11:40
2007 講談社 片山 杜秀
柄谷行人さんの書評で『未完のファシズム 「持たざる国」日本に運命』が紹介されていて図書館で検索したら貸し出し中だった。それで代わりにこの本を借りてきました。
右翼というと僕は「他者を軽蔑する方法」というように短絡的に考えてしまう。この本を読んでみて右翼思想の革命というものも面白いなと思えた。
大正教養主義と右翼思想家の関係も面白かった。
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戦前の右翼思想といえば、北一輝とか、大川周明とか、石原莞爾とかが思い浮かぶわけだが、著者は、こうした革命的な右翼思想は挫折し、「変革」を目指すのではなく、「現状」を肯定する方向に理論化が進んでいったとする。
といった着眼点で、
・どうせうまく変えられないならば、自分で変えようとはおもわないようにする
・変えることを諦めれば、現在のあるがままを受け入れたくなってくる
・すべてを受け入れて頭で考えることがなくなれば、からだだけが残る
といった章立てで、安岡正篤や長谷川如是閑などのディスコースが分析されていく。
そして、そうしたディスコースの源流には、阿部次郎やら、西田幾多郎やらの思想があるということで、なるほどというか、とほほなお話し。。。。
戦前の知識人、教養人が、たくさんのことを学んで、深く思索して、一見、深い真理を含むような境地に達しつつも、それが当時の社会との関係では、著者が皮肉にも章立てでまとめたようなとほほな結論になってしまうのだ。。。。
途中まではなんか深いところに到達しそうな思索が、「どうしてそうなる」ということに転換するポイントには、天皇という存在がある。
つまり、戦前の世界のなかで、欧米諸国のなかでの弱小国家が生き延びていくためには、日本は他の国とは違う尊い国なのだという信念がほしいわけだ。そして、それは西洋文明とはことなる、日本文化、東洋文化の独自性と優位性にもとめられ、それを体現しているのが天皇なのだ、という話しに常に回収されていくのだ。
戦前、しかも右翼のディスコースという観点からすれば、それは必然なのだろうが、今、読むと論理の飛躍というか、矛盾は明らか。が、こういうことを真面目に考えていたんだな〜と思うとなんとも言えないものがある。