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白か黒、物事をどちらかに決めることは簡単ですが、そこに白か黒かはっきりしない、所謂”曖昧さ”がもたらす豊潤な感性は入り込めません。
簡便さを求めるあまり、調べ考えるという人間の持つ大切な機能が失われる現代、柳田邦男氏は、人と話し考えることの大切さを問いかけます。
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タイトルに惹かれて手にとってみた本
柳田氏は現代は便利な世の中になったが、便利になるかわりに失うものがあることを忘れないでほしいと主張する。
アメリカの小児科学会では1999年に『子供がテレビを見るのは1日に1〜2時間を越えないように両親に指導するのは小児科医の役割である。特に2歳までの子供にはテレビを見せるべきではないと』という勧告を出した。
昨今、犯罪の年少化が進んでいるが、これも便利になった現代の影の部分であると氏は主張する。(長崎県佐世保市での小学生児童殺害事件の殺害した女児など)
医者が患者ではなくPCしか見ていないというもの医者と患者の交流を経ての信頼関係の構築というものを壊していく。(実際に自分もこんなことあった!!)
その上で、氏は効率よく便利な世の中の生活を少し非効率的にしてみてはと提案する。また土着、愛着など身体を介した関係の重要性を説く。
そしてノーケータイデー、ノーネットデーの日を作ってみてはどうかとも考える。
氏がどういう理由でこのような主張をするのか気になったら読んでみてください。子育てに関心のあり人もぜひおすすめです。
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道具は使うものであって、使われてはいけないのです。似たようなことは2世紀くらい前にソローと言う人が言ってましたが、表層は変わっても人間は繰りかえしを繰り返し続ける。
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3年くらい前に書かれた単行本が文庫化された作品。ケータイやネットの負の側面を強調するエキセントリックなタイトルで、今の時点で読むと、負の側面を補完する技術開発がてきてしまっている部分もあるので、ケータイとか、ネットの話題が少々時代遅れの感は免れませんで、年寄りの繰言とされてしまわれそうな論調も一部にはありましたが。。。
著者いわく、「電気もガスも使わないアメリカのアーミッシュのように、テレビもケータイもインターネットもすべてこの世から消せと言っているのではない。人間が人間らしくゆったりと生き、とりわけ子どもの心の発達を壊さないために、電子メディアに振りまわされずに、それらのいい面を生かす暮らし方をしようと言っているのだ」。。。まったくその通りだと思います。
また、「役所や企業や研究所や商売をいしている人にノーインターネットデーをと言ったら張り倒されるだろう。今やパソコンによるネット利用を抜きにしたら、仕事が進まない時代になっているからだ。そういうネット利用については、ここではとりあえず議論の対象から外すことにする。対象は学校や家庭。。。」とありましたが、ノーインターネットは無理にしても、議論の対象にはして欲しかったというのが正直な感想です。
(2008/1/20)
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現状で携帯・PCを使わない日は無いが、使わない日を作ろうと思った。人とのコミュニケーションのあり方、日本人としての文化の継承についてなど、著者の意見に感銘を受けた。
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アカデミックな本を読んだのは久々。
これは興味深い内容でした。
僕は携帯やネットが当たり前じゃない時期を経験しています。
でも今の子ども達にはある事が当たり前。
僕も「パソコンに向かっている時間を減らせば、どれだけ他の事が出来るか…」なんて思いながらも
こうやって画面とにらめっこして記事を更新しているわけです。
ツールに使われるのではなく、ツールを使う人間になりたいと思うのでした。
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・携帯やネットが普及して一見便利になっているが、その影には負の影響という側面がある事をゆめゆめ忘れるなかれ、という内容。
・しかしどうしても、携帯はともかくネットによる悪影響、という意見には強い抵抗を感じる。否定したくなる。だって無い生活なんて考えられないし、既に依存しまくっているし。
・カーナビについては柳田さんとほぼ同意見。俺も使わない。北が上で表示させないと気が済まない。単なる地図としてだけ使いたい。
・でもこれは個人的なこだわりであって、一般的には便利なのはわかってる。だから声高に否定はしない。ネットもそう。要は使う側にかかっている。
・俺が思う負の影響ってのは、こう。ネットの普及で生活は便利になった。それによって時間が浮いたはず。だけどその時間で他にクリエイティブな事ができているかというとそうではなくて、多分便利さと引き換えに失ったものを取り戻すために使われている。だからトータルの豊かさは便利になっても不変。
・ゲームやアニメを見てると、現実と仮想現実の区別がつかなくなって、殺人などを犯す、という意見は納得いかない。そうじゃなくて、区別なんてついているに決まってる。ただ、実際に行動に移すかどうかの判断、それを容易に下してしまうようにはなるのかもしれない。これは区別ができない、ってことじゃないと思ってる。そこは強く否定したい。
・人間ってもっとすごいですよ。どんだけ便利になって負の影響が出ても絶対折り合えますよ。おじさん、心配するなよ、と言うのが俺の強い感想。
・ダブルバインド、この辺は子育ての上で気をつけないとなーと思いました。
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ラクをすると、何かどこか別のところで苦労することになる。
これがホントだとすると、
ケータイ、ネットを使って、便利・ラクちんな生活をしている
私たちは、一体どこで苦労するのでしょうか・・・。
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ケータイを手離せない最近の日本人を糾弾している本。
ちょっと論理が飛躍している部分があり、老人くさいくだりはあるが、たしかにずっとケータイを電車の中でいじり続けている人が増えていったいどうなっちゃったんだろうと個人的に思うことはしばしばなので、この本には共感できる。
なんで柳田邦男が?という疑問はあるけど。
最近、日本人のスケール感がちっちゃくなったなあと思う。
ゲーム、ネット、ケータイ
どっぷり浸ってこれが世界や生活の大部分だと思っている人は多いと思う。
でもそれらは全部、人間が作った枠組みの中のいわば狭い箱庭の世界に過ぎない。
自然の造形や雨や雪のリアルさ、肺を刺すような空気の冷たさ、世界の不思議さに触れない時間をたくさん過ごしている人達は感受性が丸まっていくのだろう。
元気もどんどんなくなる。
だから柳田邦男の視点はとても大事だ。
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柳田邦男好き!!
ちょっとだけ非効率な生き方。
ケータイ・ネット文化の中をいかに人間らしく生きるか。
5年くらい前に書かれたものだから少し古い議論もあるけど。
(って書いてて、最近の技術の進歩ってめまぐるしいなと思った)
患者さんが死ぬ場面が印象的だった。
家族は死にゆく人でなくて、心拍数のモニターにくぎ付けになる。
心拍数が平らになり、医者が「ご臨終です」と言って初めて、死者のほうを見る。
「現代において死出の旅に出る人は、データの管理下で、何という孤独な最期を迎えなければならないことか」(p46)
あと市立図書館の例。
少しくらい不便でも大事なものを手放さない生き方。
「ちょっとだけ非効率な生き方」
これから先もっともっとヴァーチャルなものデジタルなものが発達してくるだろうけど、
一番大切なのは人と人の心の関わりだってことを忘れてはいけないと思う。
某出版社のひとも言ってた。
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ケータイやネットへの依存に警鐘を鳴らし、
「ちょっとだけ非効率な生き方」を提案する書。
但し提案部分よりも、ケータイ・ネットが子供に与える弊害についての記述部分の方が多かった。
現代のライフスタイルに対するアンチテーゼ、の様なものを期待していたのだけれど。
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柳田邦男と聞いて、国語の問題によく出たひとだったな。というのが最初の印象。
最近、電車の中で電話をする人が少なくなった。マナーが向上したのか?
画面をずっとタップして、スワイプして。。。
メール?ネット?つぶやく?Facebook?ニュース?
著者の”「あいまい文化」を蘇生させよう”は今まさに日本に必要です。
話は展開して、最終的にテレビ、ネットばかりに触れコミュニケーションが取れず昨今の残忍な少年少女による犯行の原因に対する親の再考、社会への疑問を訴えます。
必読です。
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柳田國男と同名のノンフィクション作家です。ゲームやメディアを否定する態度は正しいものです。ほんと、ケータイ・ネットに支配されている人が大量に増加しています。このままでは人類はコンピュータに殺されてしまいます。未来はないのだろう、としみじみ思ってしまいました。依存から離れなければならない。――国よ、規制をかけてくれ!
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「マッハの恐怖」こ頃からちゃんとしたノンフィクションを書いている人だと思っていたのだが。
老人の戯言とも言えないことはない。根拠があいまいな論理展開もないことはない。
全体としては間違ってはいないのだが,書かれたのが平成17年とちょっと古いので,今となっては「似非科学」の「ゲーム脳」とかが正しいとした記述があったりする。
2012/01/28図書館から借用;01/28から読み始め
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昔教科書などでよくみた記憶のある著者の本を久々に読んだ。ネット、ケータイを否定はしないという立場を取りつつも前世代的な偏った表現が端々にみられるが、総じて頷くことのできるとても学術的な内容だと思う。
なんでも白黒はっきりさせる西洋型思考法で解決するのではなく、あいまいな部分も含めてありのままを受け入れ大事にするあいまい文化。少しくらい不便でも大事なものを手放さないちょっと非効率な生き方。
図らずも先日母の実家を訪れた際に、車で駅まで送ると言ってくれた伯父を制して寄り道わき道逸れながら徒歩で村落を歩いたのだが、便利と裏腹に失ったものは大きいんだな、と痛切に感じるとともに数十年の時を経て大変貴重な経験ができたところだった。
五感を使って両手両足を使って、ちょっとだけ非効率な生き方をしてみようと改めて思うことができた一冊です。