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ナチスのユダヤ人虐殺にも勝る残虐非道な行為がつい10数年前まで実施されていたとは驚愕。
それらの証言を読むのは耐え難い。
これらの地域は日本ではなじみが薄いが、もっとしっかり勉強するべきだ。
セルビア人もクロアチア人もボスニア人も先祖代々、この地域で暮らしてきたのだ。
ナチスの人種理論では、クロアチア人はセルビア人と同様に列島人種であるスラブ人である。ばかばかしい。
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まず、評価は別にして是非読んで欲しい、そんな一冊である。本書は、旧ユーゴ地域の紛争でも苛烈を極めたボスニア内戦を、そこで生じた民族浄化やジェノサイドに焦点を当ててみて行くという、極めて重要な問題に切り込んだ画期的研究書である。(なお以下で批評をする際に著者は佐原を指し、評者は私を指す)
民族浄化やジェノサイドの内実について調べる事、またそれを論じる事は、著者自身が「はじめに」で述べているように、気乗りするものではないし、その地域に友人や知人がいれば、彼らの悪夢を呼び覚ます行為を進んでする事は和解の為にもよくないように思えるかもしれない。
他方で、どのような背景や事情、あるいは要因によって歴史に名を残すほどの残虐行為がなされてしまったのか、あるいはその内実はいかなるものであったのかなどという事を丁寧に考察する事なくして、紛争の全体像を理解しようとすれば、それは否応なく表皮的な理解になってしまうのではないかという疑問も生じるし、今後同じような過ちを生じさせない為にも過去の失敗を丁寧に再考する必要がある。
このように非常に重たく、また目を背けたくなる民族浄化について国際司法裁判所の膨大な資料を丁寧に熟読した著者の苦労は、読者である我々が本書を通して提示されている民族浄化の一部を読み進めるだけで不快感や嫌悪感を感じ、そして血の気がひいていくという経験をする事を通して、一体著者はどれほどの忍耐をもってこの研究に取組んで来たのだろうと、その精神力と忍耐力に脱帽さぜる得ない。このような残虐行為が行われていた事を我々が知るべきだという点からも本書は是非読んで欲しい。
さて、本書の特徴は大きく分けて3点ある。第一に、ボスニア内戦を民族紛争という安易なレッテルで見る事への反発である。これだけの残虐行為がなされたのは、それぞれの民族が怨念を抱えていたからだとか、民族性に関わる残虐性があったからだという安易な見方を本書は徹底して批判する。
第二に、民族虐殺は一般に理解されているようにセルビア人だけが行った訳ではなく、クロアチア人もムスリム人も大なり小なり同じような残虐的な民族浄化に加担しており、その意味では全員が加害者であり、犠牲者なのである。
第三に、旧ユーゴ連邦の解体や内戦は、当該地域の民族集団によるナショナリズムが生み出したわけでは必ずしもなく、むしろ国際環境の変化や国際社会の対応の失敗などという外的な要因も強く影響を果たしているという見方である。著者はこれをグローバリゼーションの圧力と述べる。
本書の意義や著者の問題意識は十分に認めつつも、どうしても評者が納得できない点を主に上記3点に沿う形で批評したい。
第一に、著者は旧ユーゴ、あるいはボスニア内戦を民族紛争と捉えられる事に強く反発しているが、ここで主に批判の対象となっている民族紛争の見方は、原初主義、あるいは本質主義者(ある民族は生まれながらにその民族としての特性を規定されているという見方)であると思う。しかし、こうした見方は内戦研究(紛争研究)やナショナリズム研究、あるいは社会学などでも、むしろ圧倒的に少数派となりつつあり、現在は構成主義(民族は種々の要素から構成されており、これら要素は時に変化し、また新たに創造されたり、消滅したりするものであるという見方)が主流派である。こうした見方では、民族紛争とは、民族的特性や要素がレッテルであれ、あるいは想像/創造されたものであれ、また政治指導者によって動員手段や政治的資源や正当性/正統性として利用されたものであれ、現に紛争が表出する際にこれらが重要な役割を果たしているものを指す事が多い。この見方は、当然のように民族の怨念とか、異なった民族がいれば紛争が発生するなどとは見なしていないし、むしろ民族的特性の可変性を重視しており、またそれが道具主義的に用いられる側面にも着目しているのである。このような観点から見ると、著者の主張しているボスニア内戦はまさに著者自身が明らかにしているように民族紛争に当てはまるのではないだろうか。
それと関連して疑問なのは、著者が民族紛争やナショナリズム、民族浄化やジェノサイドについて丁寧な先行研究のサーベイやその批判的な検討を加えた上で自身の議論をきちんと位置づけていない事である。例えば民族紛争という見方を否定しておきながら、民族浄化という言葉は積極的に用いる事にも疑問がある。勿論、民族紛争や民族的暴力という言葉が非常に多義的に用いられている事に対する批判もあるので、そういう観点から距離を置こうというのは分からなくもないが、それならばそれでもう少し丁寧に先行研究の定義や概念を問題視して用語を用いるべきだし、旧ユーゴやボスニア内戦研究に見られる民族紛争という用語の用いられ方と内戦研究における用いられ方が違うのであれば(例えば前者の研究領域では後者と違い、圧倒的に本質主義的な見方が支配的であれば)、そうした事にも触れるべきである。民族主義がカオスを生み出したのではなく、カオスが民族化したという議論も面白いが、これも構成主義的な観点からすれば相互作用なのだから、構成主義者が使う民族紛争という用語を用いてはならないという反論として説得的ではない。
第二に、民族浄化が三民族の間で等しく見られた問題だと、個別の出来事を丁寧に分析して明らかにした意義は非常にあると思うが、早稲田の久保氏が書評論文で指摘しているように、質的に同じような民族浄化が行われた事と量的に同じかという議論は別だし、そもそも著者がボスニアでは紛争の強度は低レヴェルだった(p.192)という認識の妥当性についても再考する必要があると感じた。民族浄化の量的相違は、久保氏が書評にてムスリム人の方が犠牲者に占める割合が多く、しかも民間人の犠牲が多かった事を明らかにしているので、繰り返さない。ここで問題にしたいのは、ボスニア内戦の犠牲者が「センセーショナルにいわれている程大きくない」と評価して問題ないかという事である。著者は、犠牲者の合計を20万人として人口比で犠牲者の割合を導き出すと4.7%となるとして、これを第二次大戦の死者の割合を比較して遥かに少ないと述べる。そもそもこの第二次大戦の死者の割合がボスニアにおける死者の割合なのか、それとも世界レベルの話なのかきちんと明示されておらず、誤解を招くが仮に前者だとすると、これは同地で現代史史上最も犠牲を払った戦争と比較して、「深刻だけどそれほど多くない」と相対的な評価をしているに過ぎない。通常、紛争の犠牲者を問題にする場合、著者がやったように単純に紛争地の人口に占める犠牲者数で導き出すというのが最もてっとりばやい方法だが、問題はそれをどう評価するのかという事である。まず、犠牲者が一般人か軍人かという事は問題となり、前者の割合が多い場合、これは紛争被害が大きかったと捉えられる傾向が強い。次に、相対的に犠牲者の割合をどう評価するかという問題がある。これはあり得る比較としては、紛争があった地域の過去の紛争との比較がまず想定できるが、それ以外にも地域間の比較というものがあり得る。同時代的にセンセーショナルな議論を巻き起こした紛争の犠牲者割合と比較するという方法である。もう一つは内戦研究のおける指標で、例えば1年間に1000名以上の死者が出る紛争は戦争に分類するというものがある。これは絶対的評価として年間1000名以上死者が出るものは大規模な紛争として評価するべきだという考えが背景にあるように、1000人が犠牲が多いか少ないかの一つの分水嶺と考えている。このように紛争の犠牲者が多いとか少ないとか、紛争の強度が強いとか弱いとかという問題は、色々な角度から検討し主張しなければならない問題であって、本質主義や原初主義者が主張するセンセーショナルな民族紛争という色眼鏡で見たような紛争イメージとは違って紛争被害は数的にはあまり多くなかったのだよというような軽い形で言及すべきものではないように思う。
第三に、国際社会にも責任があるという議論はそれはそれで的を得ているし、ある種、欧米諸国が普遍的な価値を語りながらも他方でむき出しの暴力や偏見を用いて地域の問題に介入し、その介入過程でも自国利害を優先し、事態を悪化させているという問題を批判する事には意義があるだろうが、それでもこれが紛争の原因であるかと言えば、必要条件であったかもしれないけど、十分条件ではない事は明らかであると思う。にも関わらず、ちょっとこの側面を過度に強調し過ぎているのではないかという印象を受ける。確かに、こうした欧米の誤った対応や彼らの意図せざる圧力が悪い方向にいった事実を多くの人が丁寧に見ていないのではないかという疑問はあってしかるべきだし、現実にもそうした傾向が強いのだけれども、後ろ表紙のように「市民同士が突然『殺し合う』ようになった真の原因がグローバリゼーションの圧力だった」は明らかに言い過ぎだし、「内戦のカウントダウンは、長引く経済危機の時代に既に始まっていた」というのなら、内戦は不可避であるかのような印象を持たせる。著者は、本当は国際社会や国際環境にもボスニア内戦や旧ユーゴの問題が複雑化したり、悪化させたりした側面があって、ここにもっと注目して欲しいと言う至極真っ当な問題意識からこうした事を主張し始めたのだと思うが、現実にはちょっと強調し過ぎている。おそらく、一部の読者は「国際環境に責任を転嫁しているのでは」とすら著者の意図を誤解しかねないのではないかと評者は危惧する。
著者の問題意識は、ボスニア内戦とそこにおける民族虐殺と言う痛ましい事件をこの地域の民族間だ���らこそ起きたと捉える人がまだまだ多数いる現状において、「いやそうではないのだ、我々の身近でも起こりうる問題なのだ」と警鐘をならしたいという考えがあり、この部分には共感できる側面も多々ある。他方で、それが少し空回りしているような印象を受けるのも事実である。例えば原初主義的、本質主義的な民族概念をあれだけ拒否しているはずの著者が「民族浄化の本質」(pp.303-6)では、三つの集団が同じ文化に育って、これら文化に規定された行動を採ったと本質主義的・原初主義的な見方に答えを見出しているという大いなる矛盾にもこの問題は見出せる。
非常に丁寧な作業を行っており、ボスニア内戦を知る上でも本書の価値は極めて高い事を繰り返し強調し、本書は是非、様々な方に読んで欲しいと確認しながらも、著者の議論にはいくつかの重要な課題が残っている事も確認せずにはいられない。
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ユーゴ内戦に関して歴史的背景から原因分析、民族浄化に至るまで網羅的に分析され、述べられている名著。セルビア・クロアチア・ボスニア。各民族の虐殺について書かれている章は目を覆いたくなるほど詳細に虐殺の様子が書かれている。民族紛争や国際関係に興味がなくとも、人類の犯した歴史を知るために、読まなければならない本であると感じた。
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ボスニア戦争について、通説にとらわれず、さまざまな事実を積み重ねて全体を見通した1冊。ボスニア戦争について扱った本は結構著者の立場が大きく押し出されているような感じを受けますが、この本はどの民族やグループにも与することなく、できるだけ客観的に起こったことをとらえようとする著者の意識が感じられます。
一般的にはセルビアが一方的に悪かった、という認識がいまも広くあると思うのですが、著者はそれぞれの民族やグループが実際に起こした残虐行為をそれぞれあげています。一部のものについては、克明な描写で身の毛のよだつほどです。残虐行為は各民族がそれぞれに行っていることがよくわかります。
ボスニア戦争の原因についても考察がなされています。冷戦の世界構造の中でうまく立ち回ってきたユーゴスラヴィアの経済が、冷戦の終結とグローバリゼーションにより崩壊したことで社会が不安定化。そのことにより、社会に不満が高まり、ごろつきやマフィアのような人たちが民族主義を隠れ蓑に不法行為を働くようになった、また、政治権力奪取を狙う政治家たちが「過去の記憶」を呼び覚まし民族主義をあおったりそういったごろつきたちを利用したことで内戦につながっていく。
また、民族主義的対立意識がもともとボスニア・ヘルツェゴビナ全土にあったものではない、ということも本書を通じてよく分かります。政治家や民族主義者の陣取り合戦を通じて、「こちらから仕掛けないと殺される」とか「協力しないと同じ民族の兵士に殺される」といった恐怖も大きく作用したようです。そして内戦を通じて身内や友人を殺されたり、住居を破壊され街を追われたりといったことが多くの人の心にまだ傷跡を残しています。
現在のボスニア・ヘルツェゴビナの体制は民族ごとのすみわけのような形になっており、民族主義政党が結局各地域ごとに権力を握っているとの指摘が最後にありました。ボスニア内戦を通じて、各民族がさらに「被害者意識」を感じており、このような棲み分け体制では和解も容易ではないことを著者は示唆しています。
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ユーゴスラヴィア紛争について知識の解像度を上げたかったため、本書を手に取った。少し古いこともあり、概要が分かればいいかと思い、流し読みしていたのだが、本書の濃密な分析を見て後悔。最初からちゃんと読めばよかったと思うクオリティの高さであった。
本書は、一般的に認知されているボスニア内戦における、セルビア人が悪でボスニア人が被害者という図式を批判し、セルビア・クロアチア・ボスニアの3者すべてに残虐行為の事実があったことを指摘。その原因に、ユーゴスラヴィア時代の同一文化で育った人々が混乱状態の中で、互いに他者を見出そうとした現象であったと分析している。
当初は「民族紛争」ではなかったボスニア内戦が特定の集団を選択的に抹殺する「ジェノサイドの脅威」により、被害者としての集団の「記憶」・集団への帰属意識が生み出されたという指摘はナショナリズムの視点から興味深い。
また、本書は、ユーゴスラヴィアが冷戦時代に統一を守り、繁栄した理由をチトーの個人的カリスマ性で済ませることを短絡的と批判。同国の統一は、国際政治と国内政治・経済システム(自主管理主義)の微妙なバランスによって維持され、冷戦構造を巧みに利用した結果であるという指摘も大変勉強になった。
以下、備考
・セルビア=正教、農業
・クロアチア=カトリック、ブルジョワ
・ボスニア=ムスリム
・【p.32〜】ユーゴスラヴィア王国はナチス・ドイツにより滅亡。クロアチアには傀儡の極右ウスタシャが誕生。ヤセノヴァツ収容所等でセルビア人虐殺
・【p.50〜】セルビア人抵抗組織がチュトニク。ただし、彼らも虐殺をし、セルビア人からも反発を受け衰退。代わって、抵抗運動の主導権を握ったのは共産党パルチザンのチトー率いる「ユーゴスラヴィア人民解放軍」
・【p.54】共産党が勝利した最大の要因は、民族対立に反対し、多くの民族の支持を得たこと
・【p.109】1980年代後半のユーゴスラヴィアは、経済のグローバル化の圧力で国内経済システムの変革を強いられたことを切っ掛けに、政治構造が流動化。連邦の解体と内戦の原因は、単に民族主義が台頭したことではなく、共和国間の利害を調整するメカニズムが機能不全を起こし、政治の混沌が生まれたこと。
・【p.308】「ジェノサイドの脅威」は内戦を「民族紛争」に作り変える規定要因に。元々は「民族対立」でなかったのだが、「ジェノサイドの脅威」を利用した政治的動員体制の根拠に。ジェノサイドは特定の集団の選択的抹殺であり、その対象を自覚することも集団への帰属意識を生み出す。
・ボスニア紛争(1995年)のNATO空爆が「デリバリット・フォース作戦」、コソボ紛争(1999年)は「アライド・フォース作戦」