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2冊目以降は、訳語へのこだわりからできるだけ遠ざかり、自然に小説そのものに没入したい
2009/06/17 13:38
13人中、12人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:本を読むひと - この投稿者のレビュー一覧を見る
この『罪と罰』の新訳はいい、というのが私の実感である。ドストエフスキーの小説は会話が多いが、この会話の言葉が生き生きとしていて、今までにない新鮮さを感じた。
主人公の友人ラズミーヒンがラスコーリニコフの下宿に来て、彼を看病する場面を、まず手持ちの新潮社版全集(工藤精一郎訳)から引用し、続いて本書の同じ部分を引用する。
《「これもみなパーシェンカが、ここのおかみさんがね、あてがってくれるんだよ。まったくじつに親切にもてなしてくれるぜ。むろん、ぼくはねだりはしないよ。なにことわりもしないがね。そら、ナスターシヤが茶を持って来た。ほんとにすばしっこい女だよ! ナスチェンカ、ビール飲むかい?」》
《これも、みんなきみんとこのおかみの、パーシェンカのおごりでね、どうやらこのおれを、心から尊敬してくれてるらしくってさ。別にこっちからおねだりしてるわけじゃなし、かといって、断りもしちゃいないけどね。おう、ナスターシヤがお茶をもってきた。ほんとうにフットワークのいい女だぜ! ナスターシヤ、ビール、飲むかい?」》
この部分に関していえば、それほど前者の訳に古めかしさはない。それでも「なにことわりもしないがね」の「なに」などは、今では使いにくい。
この訳文のなかで、下宿の気のよさそうな「女中」ナスターシヤに対して、ラズミーヒンは愛称もまじえて喋っているのを、工藤訳では生かしているが、亀井訳はそうしていない。訳者は本書全体にわたって人名の訳を大胆に統一している。こうした単純化は、読みすすめるとき、無駄な瑣末な判断をしなくてすむ分、小説の自然な流れに入り込めて、いい処理だと私は思う。また、おそろしく長い母親の手紙のなかに、工藤訳では「ピョートル・ペトローヴィチ」が十回以上登場するが、亀井訳では、これを「ルージンさん」とし、全体の長ったらしさを、いくらかでも縮めようとしている。
ナスターシヤを「フットワークのいい」と形容するようなカタカナ言葉がうるさくない程度に登場するのも、この何となく暗い小説に効果的なアクセントがつけられていて、悪くない。
ロシア語をまったく解さず、『罪と罰』の原書の実物を拝んだことのないものが僭越だと思うが、私はマルメラードフが娼婦になった娘ソーニャについて語る部分の訳語について、新訳が面白いと思えた。娘からわずかのお金を酒代として結果的に奪ってしまった彼は、そのお金が娘にとって必要なものだったと見ず知らずのラスコーリニコフに話す。「だっていまのあの娘には身なりをきれいにすることが大切ですからな」(工藤訳)。
ここは亀井訳では、「だって、あの子はいま清潔を守らなくちゃならない身ですよ」となるが、たんに「身なりをきれいにする」ではなく「清潔を守る」(ルージンと結婚しようとしている妹に対して、同じ言葉が主人公の頭に浮かぶ)は、そこに、ある種のセクシュアリティを読ませないだろうか。
つまり工藤訳では、たんにいい服を着て化粧をして、という以上の意味を見出しにくいが、亀井訳では、ドストエフスキー作品では決してあからさまに描かれることのない女性の性的な肉体が暗示されているように思うからで、それは原文にも暗示されているものでは、と推測する。もっとも集英社文学全集の小泉猛訳も亀井訳と同じ「清潔」だった。
ラスコーリニコフが殺人決行の前日、市場で偶然聞く、金貸しの妹が翌日のその時間に外にいると彼が判断する「時」の訳が、工藤訳の「七時ですよ」に対して、亀井訳では正確に「六時すぎですよ」となっている。これは本文庫解説で丁寧にフォローされているが、まさに必要な注釈である。これに関しては小泉訳も「七時」だった。
十年前にドストエフスキー全集を買い、最初期の作品を少し読んだまま段ボールに入れたままにしてあったのが、今回有効活用できた。二つを比較して、訳自体の差とは別に文字の大きさが、年をとったせいもあるが、ひどく気になった。光文社文庫版は適切な大きさであり、その意味でも好感がもてる。この文字の大きさなしには、新鮮な訳も生きはしなかったろう。
この小説を読むのは三度目だが、二度目からでも30年以上が経つ。二度目のときは数日で読んだが、今度はじっくりと読むつもりだ。そして、この小説が、今の私に何をもたらすのかを、できるだけ冷静に見極めたいと思う。
『罪と罰』の世界を身近に感じラスコーリニコフの犯罪を自己流解釈で楽しもう。
2009/08/16 18:14
10人中、7人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:よっちゃん - この投稿者のレビュー一覧を見る
まもなく衆議院選挙だ。日本が羅針盤を失い漂流しはじめてから何年になるか。その間に積もり積もった焦燥感が解消されるどころか、さらにふくれあがるであろうことをだれもが認識している政治的プロセスである。
昭和19年に生まれて40年のサラリーマン人生を金融危機の激動のなかで終えたものの実感なのだが、グローバリゼーション・グローバルスタンダード・新自由主義、その資本運動の法則を絶対的正義だとしたあれこそ、日本人にとっては新たな神の降臨だったのだ。新しい神がその神の国を作り上げる過程は経済活動だけではなく、政治や社会生活、精神活動、価値観の変革を強制するものであり、一方で犠牲者はつきもの、屍の山が築かれることになる。大量殺人も正義とされることがある。本来、救世主こそこの大いなる罪の十字架を背負うべきところ、日本にはそういう偉大な存在が出現しなかったということだろう。自民党、民主党いやどの政党のマニフェストも市場原理主義からの訣別を謳い、バラマキ財政を正義として、今度はあれのアンチテーゼにあたる神の国を作ろうとしているのか。ああ、それではあの時降臨したものは悪魔だったのか。
宗教が世界秩序を作り、人間の歴史に深く関与し、しかも現実に根を下ろしていることは「知っている」だけで、神とか悪魔、極楽や地獄、あるいは死後の世界などとは、まったく無縁で、神仏の救済などは実感することのない私にとって降臨やら救世主うんぬんは言葉の遊びをやっているに過ぎない。しかし、亀山郁夫の著書『「罪と罰」ノート』を片手に『罪と罰』をじっくり読んだら、その後遺症だろう、普段考えもしなかった、こんな突拍子もない発想方法にとりつかれるはめになったのだ。視野が広がったというのはこういうことを指すのではないだろうか。
亀山郁夫には読者を一度、現代日本という座標軸に立たせたうえで、ドストエフスキーのメッセージを受け取ってもらおうとする意図があって、その姿勢が翻訳に投影されているものだから、読者が『罪と罰』の世界を身近に感じ、自分なりに解釈を楽しむには都合のいい訳本になっている。『「罪と罰」ノート』を併読すればなおさらのことである。
1860年代前半にアレクサンドル2世のもとで行われた身分制度の解体や資本主義原理の導入など西洋合理主義の枠組み作りは伝統的なロシア人の思想とは相容れず、偏重する富の蓄積がまた新たな貧困層を生み出すなど社会的不安と混乱をもたらした。このような世相を背景に、困窮のうちに中退した元学生のラスコーリニコフはこの新しい世界を拒否し隔絶していった。かなり重症の鬱病であった彼はこの世界への憎悪をつのらせるだけで抜け道を見出せない。また神を否定する彼には宗教に救いを求める観念はない。だからといって自ら別な世界を築き上げようとする志もない。そしてシラミのように存在しているだけの自分を嫌悪している。他人に対して傲慢でありながら弱いものへはひとかたならぬやさしさをもつ分裂した人格。
この彼が金貸しの老婆を殺害し、金品を強奪することを思いつく。思いつきは思いつきにとどまらず、紆余曲折の精神的葛藤のすえようやく決意にいたる。そして用意周到のはずだったのだが、結局はまるでずさんで不完全な犯行に追い込まれる。これが今回、第一部を先入観抜きにして、読んだ私の印象だった。そして疑問。閉塞した精神状態は共感できるのだが、なぜこれが一足飛びに殺人へと短絡するのだろうか?
親殺し、子殺し。ドメスティックバイオレンス。変質者による幼児への性犯罪。「だれでもいいから殺したかった」と供述する現代の無差別殺人者たち。「なぜ人を殺してはいけないんですか」とうそぶく少年たち。抑圧が短絡的に暴力へ移行するキレタ症候群。そして今でも根深くある若者たちのカルト願望。
これら最近の理解しがたい狂気の周囲にはラスコーリニコフの犯罪、その罪と罰と贖罪の様相に近接したところがありそうな気がする。昨年読んだ平野啓一郎『決壊』が描いた犯罪がそうであった。今回よいタイミングで『罪と罰』を読んだと思う。これから読む高村薫『太陽を曳く馬』、さらに村上春樹『1Q84』がこれでいっそう楽しめそうな気配がしている。
憎みきれないロクデナシ
2011/10/14 22:26
2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:ジーナフウガ - この投稿者のレビュー一覧を見る
憎みきれないロクデナシ。主人公ラスコーリニコフに対する感慨である。と同時に、
『この時代のロシアに現代の精神科医療があったなら
(こんな事件も起きずラスコーリニコフの熱病も無事解決、全ては円満に肩が着いたのでは?)
とまで考えてしまう。』絶望的な貧困を前に、学費を滞納し、遂には、
法律科の学生という輝かしい立場から転落してしまったラスコーリニコフ。
以来、友人ラズミーヒンからの家庭教師の仕事の斡旋も断り続け、
日がな1日アパートの屋根裏部屋にある薄暗い自室に籠って寝てばかりいる。
加えて、自暴自棄になっているもんだから、考えから正気は失われがちで、
絶えず荒んだ精神の中に身を置き、玉に意識が明瞭な状態に戻ったかと思えば、
自己嫌悪の念にきつく縛られているのだ。そんな風に自身も喰うや喰わずの日々を過ごしてると言うのに、
場末の酒場で知り合ったアル中の元役人マルメラードフ一家の自分よりも困窮している
有り様を目の当たりにすると、なけなしの小銭(金貸し老婆に買い叩かれた質草の代金、勿論生活資金)
を置いてきてやったりするのだ。他の誰よりも世界を呪ってる男が、
実は小心者で優しい心も持ち合わせ損ばっかりしてるのも妙な話だと思う。
肝心の金貸し老婆アリョーナを殺す計画も、街中で、
たまたま耳にした先進派学生の会話が引き金となったに過ぎない
『どう思う、ひとつのちっぽけな犯罪は、何千という立派な行いでもって償えないもんかね。
たったひとつの命とひきかえに、何千という命を腐敗や崩壊から救えるんだぜ。ひとつの死と、
百の命をとりかえっこするんだ。』この考え方には大変な衝撃を受けた!
殺人を堂々と正当化する思想がまかり通っていた帝政ロシア末期の世論。
それをハッキリと言語化してみせるドストエフスキーの筆の冴えを、自分の言葉を持たない、
現代日本の評論家やコメンテーターに、少しで良いから学習して欲しいもんだな、と感じた。
ドストエフスキー初めて読みましたが
2020/06/13 14:41
0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:Algrace - この投稿者のレビュー一覧を見る
ドストエフスキーの作品は初めて読んだのですが、思っていたよりも読みやすく、内容の面白さもあってサクサク読めました!また、当時のロシアの経済状況などに無知だった私ですが、巻末にある読書ガイドのおかげで作品への理解も増しましたし、とても楽しめる内容でした!
新訳で読む。
2018/01/31 03:46
0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:Quetzalcoatl - この投稿者のレビュー一覧を見る
何年かに一度、読み直すので、新訳で読んでみた。江川訳とはかなり印象が異なる。