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内田樹氏による教育論。
同じく内田氏著書である「先生はえらい」が子供に向けた教育論であるのに対して、
本書は教師をはじめとした大人向けの教育論であった。
僕が本書を特に薦めたい相手は、日頃ビジネス本を呼んでいる人。
本書を読むと、現在主流になりつつある「自己実現」、「自己責任」、「効率主義」という考え方が、
もしかすると大きな間違いなのかもしれないという考えを持つと思う。
「人生は長く、時間の経過を考慮しないと解決しない問題も多い。」ということを、ひしひしと感じさせてくれる本。
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書かれていることは至極全うなことばかりなのだけど、自分が普段感じていて言語化できてない事をわかりやすい言葉で語ってくれている。
惰性がついて急に方向転換できないのが教育、というのはまさにその通りだと思う。人が学ぶという事についての解釈も興味深い。
改めて教育の難しさを認識させられた。
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教育に携わる全ての方!これはお薦めです!とても元気になれる本!
読んでいて、要所要所で「あー、この発言、この先生は現役の教師や、教師を目指す俺たちみたいな人を守ろうとしてくれてるんだなー」と感じました。
印象に残った部分
・どうして為政者は就任すると教育問題を優先的な政治課題に掲げるのか?(例えば安倍首相は「教育再生」っていいましたよね)
・教育改革について
・教師の役割、よい先生とは?
・教養教育と専門教育とは何か?
・言っていることが首尾一貫している先生が必ずしもいい先生なのか?
・でもしか教師でいいじゃない
・自分らしく生きるってどういうことか?
すごく論理的だからというだけでなく、内田先生の文章には独特の人間臭さを感じるから、流れるように自分の中に入ってきて、ストンと納得する。
教育学部の方、めちゃめちゃお薦めです。
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世の中はヤバい!
みんながみんなそう思っているのに、誰も解決策を出してくれない。
混乱した問題が複雑に絡み合っていて、我々は思考停止状態。問題を先送りして、とりあえず働いたり遊んだり。
そんな世の中に一石を投じる内田樹氏。
複雑化した世の中を、「教育」をテーマに分かりやすくほどいて解説してくれる。最高の指南書であると思う。
教育までもがビジネスの一環としてとらえられている、そのために若者の非正規雇用や早期離職などが起こりえる。子供たちの行動が理解できなくなっている。
これらの解決策は、「現場」の先生方にお任せすること。完璧ではない、一人の人間としての先生が子供たちに体当たりでぶつかって、「葛藤」を与えることで、子供たちは人間的に成熟する。
「メンター」と出会うことの必然性。
「個性を伸ばす教育」が教育現場で近年主なテーマとなっていた。
しかし、教育とは、コミュニケーション能力を高めること。他の専門家とのコラボレーションを実現させる能力の涵養である。
こんな世の中を作ってきた責任は、政治家たちだけではなく、まぎれもない「私たち」にある、という、厳しくも当たり前の提言が盛り込まれている。
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フランス現代思想などを専門とする著者による教育論です。著者による『下流志向』でも教育については論じられていますが、本書ではまるまる1冊、テーマが教育に絞られています。具体的には、2007年度の神戸女学院大学の大学院「比較文化・文学」の講義録がもとになっているとのことです。11回にわたって、教育に関する様々なトピックについて、受講生の報告(この部分は未収録)に対するコメントのかたちで、著者の教育論が縦横無尽に語られています。
読後感としては、「なるほど論理一貫した鋭い指摘だ」と首肯できる箇所と、教育学者の端くれ(一応の専門家)としてはとうてい首肯できない(したくない)箇所と、その両方があります。また、もともと録音された講義録に加筆修正したものなので、当然ながら話の流れや勢いが重視されていおり、典拠やネタ本を丁寧にあげたりはしていません。読者の側に予備知識がないと、オリジナル(ユニークな主張)な部分と定説(オーソドックスな主張)の部分とが判別できません。ただし、これは本書の欠点として言っているのではなく、講義録なのでその点に注意して読みましょう、ということです。舌足らずな部分や、論理的な整合性にやや欠ける部分も、ある程度は仕方のないことでしょう。自分の講義を振り返ると、とても人のことはいえません・・・。
いずれにせよ、ストレートに教育に関する自説を提示しているので(専門家ほどそうしたことには躊躇します)、賛否いずれに感じるにせよ、自分の考えを深めたり議論の素材としたりするのには、なかなか良い本であると思いました。
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教育の話のみならず、組織の話など興味深い。何度も読んでみたい本。途中から3色ボールペンで線を引きながら読んでみた。
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<今度はウチダが教育を斬る!>
信者か言うぐらい内田の文章に陶酔してます。もう少し中道にならねばなりませんな。例えノンポリと呼ばれようとも。
5章は内田さんの思想が全開ですね。
・教育は成果が検証できるのが大分先。だからみんな好き勝手言える
・教育制度改革は、故障している自動車に乗ったまま故障を修理するようなアクロバシー
・義務教育の意義は「親から子を守ること」というのが歴史的事実
・教育の本質は時間的空間的「外部」との通路を開くこと
・一単位=45時間のワーク
・学びは過去の価値観からの上方離脱
☆教養―東洋六芸(礼楽射御書数)、西洋七科。
礼:死者とのコミュニケーション
楽:音楽を通じての時間意識の涵養
射:弓道で身体意識の向上
御:馬術によって他者とのコミュニケーション
書数:読み書きそろばん「浮世の勧行場」でのやりとりの技術
・教養教育は突き詰めたら他者とのコミュニケーション。「自分に出来ないこと」をきちんと理解して「自分の出来ること」にリンケージさせる。
・先生は建前でいい。葛藤が成熟を促すから。
・どう振舞っていいか分からん時に適切に振舞う能力が教養
・「祖述者」になることで信用される
・問題を一気に解決できる方法などないと心得よ
・問題解決のオーバーアチーブはトップダウンでは成立しない
・「モジュール化」
☆集団形成をすることに対する忌避と「集団を作らなければならない」強制が絡まりあって、非常に不安定な心理状態になっている。その均衡が崩れると集団になじまないor過剰適応している個体いずれかがいじめの標的になる
☆共感力の喪失は消費拡大のための「自分らしさ」礼賛で繁盛したグローバリズムのつけ
・「会って五秒」で合格者は決まるby大手出版会社
・ファシリテイトする人間が受ける
・能の基本はエイトビート
・表意文字と表音文字は記号を処理する脳の部位が違う。失読症で、片方だけ読めなくなる日本人の例
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仕事柄、教育関係の書籍には興味を持つようにしている。
以前は書店に平積みしているものを中心に、タイトルを判断基準に購入していた。
そのうち、一般に教育関係の著者は「左バッター」が多いと感じるようになり、
読了後に「もやっと」感が蓄積されるようになった。
理由は学校に勤めていながらも、先生と違う職種に従事しているからだろう。
最近は、事前に書評をチェックし、もやっとの予防に努めていた。
今回は日経新聞に広告が出ていたので内田樹「街場の教育論」を購入した。
「全国の先生方必見です!!」というキャッチを見た時点で
あ、またか。と思ったが、一応読んでみることにした。
著者と対話する気持ち(カツマー式)で
著者の「左打ち」をフィルターにかけ取捨選択し、
書かれている事実・事象を追って行った。
感想:先生方は読むと元気になる(でしょう。たぶん。)
私には今担当している仕事に直接解決策として
結び付けられことは見つけられなかったが、
踏まえなければならないことがわかった。
例:学校のアクレディテーションは多大なコストがかかることの再認識
→ISO14001認証取得にかかわったことがあるので実感がある。
→教職員の挙証作業ののべコストはどれくらいだろう。
コストをかけるからこそ次のアクトに絶対に生かしたい!という気持ちになるなぁ。
エンドレスの学校評価が待っている
→まっとうな学校である証明の難しさ
教養教育・リベラルアーツ=コミュニケーションの訓練
符丁が通じない相手との協働作業
教員は反権力
→事務職員は権力側となるか。
戦前の師範学校的理想主義→戦後の左翼的理想主義への置換は、
教育にはおそらく必須
→ほとんどの先生方はこのような考えなんだろうなぁ。
勉強のモチベーションと働くモチベーションは別
→キャリア教育と進路指導のフレームワークづくりは喫緊の課題なんだけど
着手できていないなぁ・・・
左バッターの攻撃をかわしながら読むと
学校・大学事務職員は得られるものがあると思う。
著者のあとがきにもあるように、「まあ、そういう考え方もあるのね」
という程度に受け取るのがよい。
国や私学のアドミニストレーターは、この現状を打開するために、
学校評価等、打てる手を打ってる。何がベストの施策かわからないなぁ。
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P174 われわれ全員が犯人
目に見える大きな変化は、中等学校における校内暴力の頻発と師弟関係の崩壊から始まりました。そこから学校の機能不全が始まり、効果的な手が打たれないままに三十年が経過しました。その三十年の成果として、教育の現状がある。ですから、これに取り組むには三十年がかりで解決するぐらいの気構えがいる。私はそう思っています。
教育再生会議に私が批判的なのは、「一気に解決できる方法」を必死に探しているからです。教育のような惰性の強い制度が不調になっているときに、短期的な解決などありえない。長期にわたる忍耐強い継続的、多角的な努力がなければどうにもならない。そのためには「誰が犯人だ」というような他責的な議論は有害無益なのです。
そういうと、「では、あなたはどうすればいいと思うのか?」とみんな訊いてくる。私はこう答えました。「私は私の仕事をする。あなたはあなたの仕事をする。それしかないでしょう」。
「自分がいなくても何とかなる」というのは、危機の評価が低いということと同時に、自分が貢献できることについても極めて低い評価をしているということです。(ただし、これは意識化されてはいません)。被害評価の低さ〈無根拠な楽観)と自己卑下(無根拠な悲観)、この二つが「犯人捜し」に熱中する他責的な人々の特徴なのです。
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2010.12.23
しばらく積ん読してた本を卒論をきっかけに出してきた。
目から鱗、そんな考え方もあるんだなぁと思いながら読めた。
非常に現在の高等教育界隈の話としては的を得た議論だったと思います。
内田さんの書く文章が好き。
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内田樹さんのことはネット仲間に教えてもらったのが最初だったか。『寝ながら学べる構造主義』でソシュールやら構造主義についてわかったつもりにさせてくれたのがウチダ先生だった。以来、好評(たまに物議を醸すが)ブログもほぼ毎日チェックしている。本業は神戸女学院大学文学部総合文化学科教授。この本は大学院での授業を元に書かれたウチダ流教育論。
(続きはブログで)http://syousanokioku.at.webry.info/200904/article_2.html
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教師というのは、生徒をみつめてはいけない。生徒を操作しようとしてはいけない。そうではなくて、教師自身が「学ぶ」とはどういうことかを身を以って示す。それしかないと私は思います。
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「教育の根本的な改革は不可能である」という徹底したリアリスティックで冷淡な言葉から始まる教育論。大学での講義をベースに書き下ろしたものなので平易な言葉で簡単に読めるが内容は深い。
壊れた車を走らせながら、修理していくという荒業に教育改革を例える。現場のリソース(人、カネ、時間)を使わざる得ない、かつ一次的であっても「停止」が許されない教育というサービスの本質を突いた言葉。この前提を所与のものとして、教育改革は暫定的なかつ遅々としたものであるという分析は非常に面白い。
教育現場は愚鈍である。また変化を望まないという指摘も納得。OB/OGの様な重要なステークホルダーが「変化を望んでいない」という指摘は常に念頭に置く必要があるだろう。
第10講の「国語教育はどうあるべきか」の論考が特に秀逸。「「思いが余って言葉が足りない」はあり得ない」という指摘は慧眼。「「私の実感によって充填されていない空語」が「私の実感」を富裕化させる」という言葉自体に実感が伴う。
ただし残念なのはWebによる教育をかなり全面的に否定している処だ。論旨としては分かるが、部分的かつある特定な場面では確実有効だし、今後の主流になっていく流れだと思う。この部分の洞察は補足が欲しい処だ。
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・会って5秒で人間がわかる。
・社会的活動というのは「協働」であって、「競争」ではない。
・協働の場で求められるのは、その感化力で、周りにいる人たちが少しだけ元気になって、少しだけ輝きを増すような、「集団のパフォーマンスを高める知識と技術」が何よりも求められる。
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http://blog.happyblossom.boo.jp/?search=%B3%B9%BE%EC%A4%CE%B6%B5%B0%E9%CF%C0