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純粋に面白かったです。
教育の在り方に対して考えさせられた。
教育実習に関してもこの本の影響があったことは否めない。
他人から教えてもらったことをあなたたちに教えてるんですよって姿勢かー。
今まで考えてもみなかった。
んでも言われてみたらそうだよね。
あたしがいってることなんてなんの信憑性もないじゃないか。
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こういう考え方もあるんだとか、その通りだなと思ったりできる。難しい内容も一般向けにわかりやすく解説してくれる人は、この人以外にいないと思う。分かり易すぎて、記憶に残らないことが多いけど。メモ取らなくてはだめかも。
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「ちょっと、一度ストップ」と待ったをかけられない教育。これを「改革」するなんてかなり無茶な話だ…。だから、政治家も評論家も、親すらも、だまっていたらいい、現場にまかせましょうよ、と著者。家族の個人消費を促進するためにせっせと努力しておいて、今になって「家族の絆が薄れてきた」などと政治家たちはどの面さげて言うのだ!?などと、日本の教育について斬る。久々に頭を使った本でした。おもしろかった。
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ここ数ヶ月、内田樹先生の著書を時間を取り戻すがごとく読みあさっている。時間を取り戻すという表現を使ったのは僕が今までの人生(20年弱)で培った考え方の大半を扱い違えていたということに気がつかされることがたくさん書かれているからだ。
タイトルには教育論という言葉が含まれているが、実際には誰が読んでもいい。それくらいに生きる上で根っことなる社会的構造が記されている。
それでは読んでいる中で、驚嘆した(大袈裟ではない)部分を紹介しよう。
擦り付けメディア
「言うだけいって何もしない」ということが今の日本を冒す国民病になっているという。TVのコメンテーターはみな同じように「この国はいったいどうなってしまうのでしょう?」と問題を提起するだけしておいて実質的な部分では何もしていない、ことに例をみると確かに納得のいく話だ。
といっている僕も知らず知らずのうちに人任せ主義の信者になっていることは認めなけれならない事実だ。「とりあえず誰か僕を何とかして、僕もあなたに協力するから。」
国民総無責任になる前に社会制度の欠陥の責任者は僕たち一人一人なのだということを肝に命じておきましょう。
教育とは無時間モデルではない
教育はビジネスじゃないんだよ、ということ。
ビジネスというのは入力と出力の時間差がゼロであるのを理想とする。キーボードをタッチしてからディスプレイに文字が表示されるまで一秒でもかかれば耐え難くストレスフルだろう。
一方、教育とは樹先生の言葉をお借りするとキーボードを押すとディスプレイに文字が出る代わりに、三日後に友達から絵葉書が届いたとか、三年後に唐茄子を二個もらったとか、そういうどこをどう迂回したのかよくわからないような「やりとり」が果たされているもののことをいう。
教育者がこのようなビジネスと教育の違いを理解していないと教育は成り立たない。そのくらいの違いは誰にでも分かるよ、と思うでしょうけど実際、僕はその違いを分かっているようで理解していなかった。それはビジネスマインドが国、メディア、また身近な大人たちを通じて僕の身体に擦り込まれていたから。
すぐに結果を求めたがる受験生、三年で会社を辞めたがる新入社員、そして今の先生方、気をつけましょう。
君子の六芸
ヨーロッパでは自由七科という。東洋は六科。
文法、修辞学、論理学、算術、幾何学、天文学、音楽。
確かこれはリベラル・アーツだ。
そして六芸とは孔子の教え。
礼・楽・射・御・書・数。
自分自身を一望俯瞰する力
自分が今何を学んでいるのか学んでいる最中には分からない。学びのあとに何を学んだかか分かると、なんか逆説的で意味が分からないって感じだけど、まぁそれが学びということなのかな。
なにが書いてあるのか理解できないテクストを読む時には自分の解釈の可能性を限定づけている自分自身の知的な狭さを押し破るしかない。
おかしな先生
教師は言うことが首尾一貫していない方がいい。矛盾を感じさせたり本音と建前が混同しているほうが教育者として良い感化を生み出す。
成熟は葛藤を通じて果た��れる
三年間で僕の人生に多くの影響を与えてくれた先生も出鱈目な人だった。
無秩序を示す身体運用
小学生の授業あいさつを例に見たするどい洞察だ。隣の人と自分を差異化するためにわざと緩慢な礼を小学生が行っているという。身体運用の効率を考慮すると、あまりにも無駄なその動きにエネルギーを注いでいる小学生は偉い。もちろん意識的に行動しているわけではないだろうが、それだけに個性化を無意識にすりこまれ、非言語コミュニケーションを棄てたと考えざるを得ない。
まだまだまとめたいことがあるけど集中力切れ。
また編集し直すことにする。
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「教育には、親も文科省もメディアも要らない!?」
「教師は首尾一貫していてはいけない!?」
「日本の教育が『こんなふう』になったのは、われわれ全員が犯人」
「教壇の上には誰が立っていても構わない」
「学校はどの時代であれ一度として正しく機能したことなんかない」
「『他者とコラボレーションする能力』の涵養こそ喫緊の課題」
学校、教師、親、仕事、宗教…… あらゆる教育のとらえ方がまるで変わり、
「学び」の本質を見事に言い当てた、驚愕・感動の11講義!
混迷する日本を救う、現代必読書。
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「人を育てる」ことに関わるすべての人に、本書は絶対に読んでもらいたい。歴史、宗教、古典、法律、そして現場など様々な視点からのアプローチを踏んで、現代日本の「教育」について著者の主張がボリュームたっぷり盛り込まれている。印象的なのは、その著者の主張が決して主観的だったり悲観的なものでないところだ。現代日本の教育に警鐘を鳴らす著者の文章からは、危機感を煽られながらも、不思議と元気・勇気が湧いてくる。それがもし、私が教育関係の仕事をしているからなら、1人でも多くの教育者に本書を読んでもらいたい。著者の意見に賛同される方ばかりではないだろう。ただ、どういう思いで教育に携わっているか、どれくらいの覚悟で人を育てようとしているのか、ひとりひとりが自分と向き合い直す必要はあるはずだ。挑発的で受け容れられない表現もあるかもしれないが、日本の未来を担う人間を教育する立場として、真摯に受け止められる寛容さは持っておきたい。本書のような教育論を何冊も読まないうちに教育を語るのは罪だろう。著者の「街場」シリーズは制覇したい。
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成熟は葛藤を通じて果たされる。
だからといって、子どもを葛藤させようなんておこがましい。
一緒に葛藤して、成熟していくしかないんだ。
相変わらず、目から鱗です。
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読みやすく、分かりやすい。
「先生が元気になるような本を作りたかった。」
ね、先生側を擁護してくれるような意見が温かかったけれど、
私は、私たち先生はこの意見に甘えてもいいのですか?
「これでいいんだ。」と思ってはならない。
「社会」のしくみと流れを言い訳にしてはならない。
現状を把握して、少し先の未来をよりよくあるために自発的な行動ととらなくてはならない。
そのために、「今」をがむしゃらに生きなくてはならない。
「肯定」は気力をくれる。
でも、「辛さ」が変わることはない。
実行のための目標と段階を踏んだ行動をとりなさい。
内田先生はきっと、そう思う人間に言葉を向けているんじゃないかなぁ、なんて。
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教育論の本だと思って読むといまいちかも。
全体的になんとなくわかる話が多かった。
回りくどい、とは違うけど、いかんせんわかりにくい話がおおいかも。
まあ作中で簡単さを求めてはいけない、みたいなことを言ってるけども。
教師は葛藤させるひとだってのがなんかいいなと思った。
成熟、ってのは度量を広げていく、てなこととも通じると思うので。
孫引きになっちゃうけど、表音文字と表意文字とでは脳で処理する部位が違うんだと。
詩を書く人間としては気になるところだw
あとは、大阪の縄文時代の海岸線上には、現在
神社仏閣と病院と墓地と大学とラブホテルがあるってのも面白いな。
あんまりスピリチュアルな話は得意じゃないけどさ。
こどもたちに足りないのはことばじゃなくて内実だ、そのうえで内実を伴わなくともことばを植え付けていくことが内実へとつながる、てな論旨があったけど、それには結構同意できるかも。ことばのちからが足りない。
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読み助2009年12月7日(月)を参照のこと。
http://yomisuke.tea-nifty.com/yomisuke/2009/12/
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子どもが大人になるとき、本当に必要なもの。
それって、周りの大人を見る事なんだろうな、と
あらためて気付く事ができました。
厳格や父親を持つ子には、
風来坊のおじさんやだらしない先生が。
親離れできない母親をもつ子には
放任主義のお稽古事の先生や
さりげなく成長をフォローする駄菓子屋のばあちゃんが。
うん、そうだよね。と大きく頷き
今の子ども達の育つ場の少なさに愕然とします。
こんな環境を持つために努力が必要な世の中なのです。
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全体的に刺激的で面白かった。特に第1講「教育論の落とし穴」にある「教育は惰性の強い制度である」という言葉が自分にとって目から鱗だった。この章だけでも一読の価値はあると思う。
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教育の問題は今の仕組みや今教育を担っている人を批判することで解決しない。代わりがいないのだから、実際に今教育を担っている人を入れ替えることはできない。だから、現場と外部が問題を共有することで現場の環境がかわっていくことでしか、問題解決はなされない。医療も同じ。担っている人に問題があるとしても、そう簡単に別の人やシステムに変えられない。
中国の歴史では、王朝がかわるとすべて官吏も学者も入れ替えているが、日本では前の時代のものを一掃しない。一掃するだけの人材の余裕がないこともある。将棋の様に敵ですら、使わないとやっていけないのだ。人口・国土広さによるのか。
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教育とビジネスとの相違は、教育は時間がかかることに価値がある。すぐに結果が出ない。また、ビジネスはいくら何が売れたかが重要で誰に?はあまり問題にならないが、教育は何がより、誰に?が最も重要である。
古典を学ばなくてはいけない。なぜなら、現実にあることの「外部」にさらにすごいものがあることを実感しそれを自分で認めた時、自分で学ぶスイッチが起動するのだ。古典にその「外部」のすごさがあるのだろう。教師はそのスイッチを押すだけでいい。私も子供に学びのスイッチを押してあげたい。
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著者の教育者としての実感と、論理のアクロバットが絡み合う展開。「人間的成熟は葛藤を通じて果たされる。」
教育論とありますが、広く一般に面白い本だと思いました。私たちは教育と無関係ではいられないのですから。
第5、7章あたりが読みどころです。これから社会に出る人には第9章もおすすめします。