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紙の本
極限状況を生き抜く冒険小説と言うよりは、極北の捕鯨基地に留まって越冬を試みた男性の根が下へ下へと下りて行くにしたがい、彼の幻想と妄想が枝葉として広がっていく恐怖を丹念に描いた小説。
2009/04/23 10:13
5人中、5人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:中村びわ - この投稿者のレビュー一覧を見る
1616年の夏、イングランドの捕鯨船がトマス・ケイヴという乗組員ひとりを極北に残して帰国する。雪と氷に閉ざされた極限状態のなか、獣を狩って男は生きていく。このような物語を、北の地へ赴いた船乗りたちの航海日誌を元に、英国人の女性作家がイマジネーションで紡ぎだした――という感じでカバーに内容が紹介されている。
これを読み、ジャック・ロンドンの短篇「火を熾す」と、南極探検の途上で漂流し、隊員全員を1年8ヶ月後に連れ帰ったアーネスト・シャクルトンのノンフィクション『エンデュアランス号奇跡の生還』のような内容を期待しながら手に取った。だが、思いがげず徐々にファンタジックな要素が入り込み、どちらかというと、それを中心として結ばれていくことになった。
スティーヴン・キング『グリーン・マイル』に書かれていた「不思議な力」を思わせる要素も入ってくる。だから、激しく厳しい冒険物語を期待して読み出すと、「ちょっと違うぞ」ということになる。
「火を熾す」でもシャクルトンの記録でも、「生か死か」が懸かる刻一刻や日々の営み一つひとつが、あまりにも苛酷な環境条件下に展開される。生体維持の限界はとうに超えたところで、人体が一個の物体、つまり遺体となってしまわないために、生物的存在、あるいは社会的存在としての自分たちが何を成し得るのかが終始課題として突き付けられる。
そして、それに応じた行動と思考とに焦点が当てられていた。フィクションとノンフィクションという違いはあれど、「助かるために前に進む」という「動物的な動きある冒険」が共通するところであった。よって「生き残れるのか否か」に、読者の関心は集中する。
けれども「極北で」は、食用の草を採ったり動物を仕留めたりといった動きはあっても、生活の拠点が捕鯨基地に定まっているという見かけにおいて、植物的な設定なのである。ここと決まった場所で、トマス・ケイヴは根を下ろしていく。その根が下へ下へと下りて行くにしたがって、彼の幻想と妄想が広がっていく。小説の面白さはそこにある。
さらに言うなら、31ページから152ページまで、全体の半分近い「トマス・ケイヴの体験」という章の前後に、ある若者によるケイヴについての語りが章として設けられている点が、また面白い。
なぜなら、ケイヴという人自身も伝説のように語られ、イングランド海岸部や捕鯨に関わる人びとの間で、まぼろしとして枝葉のように広がっていく。ケイヴが見たまぼろしとケイヴというまぼろしが枠構造でもって、二重に表されているからである。
極地での越冬を経験したことのない妙齢の英国婦人が、北の海に赴いた男たちの航海記録と自分の想像力だけを頼りに、捕鯨基地の周囲の様子や、ひとり残されたキャンプでの生活維持、それをこなしていく精神状況を丁寧に書いた。その表現力を評価してしかるべきだ。
しかし、厳しいことを一つ言うなら、やはり、幻視の力に依存した限界を出ていない印象も受ける。見えそうなものは十全に表現している気がするが、体の衰弱、吊るされた肉や自分の肉体が発する腐臭、生理的なものの生々しさといった面の書き込みには物足りなさも残る。
たとえばリップクリームという便利なものがなかった当時、極地で冬を越そうという人の唇はどれほど乾燥し、ひび割れ、むごいことになっていただろうか。睡眠を妨げるような激痛があったに違いない。生身の痛みや不快は尋常でなかったはずで、精神状態にも大きく影響したであろう。
これは、あくまで厳寒の旅を経験したジャック・ロンドンや、幾度も極限状況を乗り越えたシャクルトンと比べてしまった場合に物足りないということだ。彼らが生で経験をしたことに基づいて書いたのに、「彼女は想像だけで書いている」という色眼鏡で見る姿勢は、正直どうしても崩せなかった。読もうと思ったきっかけとなった本の情報が、このように読書の限界として立ちはだかるというのも、何とも皮肉なことである。
では、孤絶した人物の精神状態の表現はどうであったか。
トマス・ケイヴがひとりきりで捕鯨基地に残り越冬するという暴挙に出た直接の引き金は、売り言葉に買い言葉。荒々しい海の男たちが大きな賭けを張り、「やってみようじゃないか」とケイヴが引き受けたという流れなのだが、大金を物にしたいというだけで、人は果たして命など賭けられるものではない。そのような作家の考えが小説構築の元にはある。だからこそ、孤独にならざるを得ない、よりきつい孤独を求めてしまうという人間像を作者は想定した。
――今思うと、あの日私たちが彼の内に見たように思った狂気は、私たち自身の恐れが反映された部分もあったんじゃないでしょうか。私たちは彼を見ながら、トマス・ケイヴを見るのではなく、寒さや暗さや孤独だけを想像し、自分たちには耐えられないだろうと思っていたのです。この三つの恐怖のうち、どれが自分にとって最悪か、私には言うことができなかったでしょう。(P174)
ここに書かれたように、人を人でなくしてしまう恐怖のなかにケイヴが自分を置く試みをしたのは、後にしてきた日常世界で大きな絶望を負ってきたからなのである。それゆえ、彼がこもった狭い空間には、幾度も幾度も絶望の源となった妻が現れては消える。
まぼろしと現れては消える妻の姿が、ただ愛したときの面影であるならば彼は苦しまないのであるが、それは思い出したくはない記憶を引き連れて現れる。
寒さ、暗さ、孤独と闘う他に、彼は幻覚を見る自分の意識とも闘う。この苦闘には鬼気迫るものがあり、ケイヴの絶望が完璧な孤絶のうちに追体験されることがいたたまれない。
その闘いの果て、彼が人間世界の「極北」と人間存在の「極北」をどう受け止めたのかが結びのところで明らかにされる。しかしながら、そこであまりにも、「効率性・利便性を突き詰めた今の文明が自然に対していかに不遜なものであるか」という思いが表出し過ぎていやしないだろうか。
せっかく丹念に描かれてきた狂気の一歩手前にある極北の精神状態というものが、理に落とすようにまとめられるのは惜しい。何かをこちらへ向けて静かに解き放つように書かれる結びだと、私もさらにケイヴの辿り着いた果てに押し流されるような気がしたのだが……。
紙の本
北極で越冬した男の話。
2010/09/19 00:07
2人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:読み人 - この投稿者のレビュー一覧を見る
1600年頃の英国捕鯨員トマス・ケイヴが、
ひょんなことからの賭けで一人北極圏で越冬することになります。
極限状態で彼がみたものとは、また、彼が誰にも会わず一冬過ごし感じたものとは、、。
よくSFで極圏が出てきますが、極圏って一応酸素があるって程度で生物をよせつけないほどの
苛酷な場所で、殆ど、別世界、異世界なわけです。
そこでそれこそ、1600年ごろの科学レベルで越冬するわけで、
本書、中間小説のシリーズなんですが、ある意味冒険小説の要素たっぷりです。
そして、越冬するケイヴ自身が自分の過去にどんどんもぐっていくような、精神描写。
雄大というより、残酷で無慈悲な自然という現実と彼の精神面が交互にいり乱れて
描かれて行きます。
極圏の描写(しかも、冬の)精神面(というより、ケイヴの過去の)はすごいと思いましたが、
結論からいうと、長さの面もあるのですが、読書前の予想どおりの展開で
あんまりサプライズがなかったのです。
全体としては、敵との戦いのない、ちょっとおセンチな叙情的冒険小説って感じです。
いい小説なんだけど、小粒な感じも受けました。
でも、越冬後のケイヴや、自然描写なんかから、人として自然に対して謙虚に生きることの
大切さみたいなものは感じました。
極圏を描いた小説としては、ダン・シモンズの「ザ・テラー」のほうが、
エンタメ小説で(実は、ホラーでSF)ありながら、民話、伝承神話まで内包し昇華した作品として
すごいと思いました。(長さジャンルからいって、比較するのは、おかしいと思いますが)
紙の本
冷たさから
2012/09/05 17:30
0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:いたちたち - この投稿者のレビュー一覧を見る
胸が締めつけられるような冒頭の北の大地の描写がみごとで、ケイヴの手記を通じて有と無の境界線すらあいまいな見渡す限りの北の世界を語る口ぶりがみごとだ。
寒さと自然と一人の男という単純極まりない装置を次第にごちゃごちゃとした過去や渡世や人々の営みが取り巻き始める。
合理的には説明のつかないあれこれを、人間の心の神秘に帰すのだって、りっぱな宗教であり迷妄である。
ケイヴが氷の中に進んで残った理由もそうだし、迷信と幻想をしりぞけ続けた男とその人生をその宗教にくるんだ構成は、謎かけなのだろうか。
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