紙の本
私小説的な感受性の落ち着きと揺らぎ
2011/08/12 13:41
3人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:ががんぼ - この投稿者のレビュー一覧を見る
川端康成文学賞受賞の表題作ほか、「光の沼」「桟橋」「指の上の深海」の四編。
最初の二編は、広くいえば私小説といっていいようなものだろうと感じた。一口に私小説といっても、たとえば芥川賞で話題になった西村賢太の『苦役列車』のように、どちらかというと醜悪なプライバシーを赤裸々に暴露ないしは告白する、というものもあるが、他方、志賀直哉の「城崎にて」などのように、心境小説と呼べるようなものもある。本書は後者に近い。
私小説は日本の伝統ということになっているが、やはり何がしか日本人の心のあり方に即したものがあって、ストーリーの面白さのようなものとはまた別のところで、味わい楽しめるものではないか。
表題作は、東京で暮らしていて何か人生に充たされないものを感じている女性が、結構な歳になってから伊勢の海に移り住む話。何も起こらないと言えば起こらないのに、この寂しさと静けさと小さなものに対する感性がいい。何や癒されるような。「光の沼」はその続きのようだ。
「桟橋」は三人称でわりに普通の小説風。これもどうやら舞台は伊勢。夫に嫌気が差して逃げるように伊勢にある友人の別荘にやってきた女とその息子の話。現地で真珠採りをしている男との逢瀬が描かれたりもするが、結局ここにも本当の帰属先がないことが、リゾート開発で養殖場を奪われる男の立場と重ね合わせて描かれる。
「指の上の深海」では、また一人称に戻る。年齢設定はだいぶ若く20歳後半のモデル。妻のある男との不倫の関係にあり、それだけでなく人間関係に確かなものを感じられない不安のようなものが、生物的なイメージで描かれる。
ここでの指やら、手首を切って自殺する女の話やらだけでなく、「桟橋」の真珠の生々しいイメージとか、最初の二編の動植物昆虫とか、ちょっと萩原朔太郎をも連想させる生物的なイメージがこの人の持ち味でもあろうか。読むのは初めてだったが、なるほど実績を上げているだけあって、プロの作家、という感じがする。
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「海松」にもミーが出てきて一安心
2019/01/30 12:22
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投稿者:ふみちゃん - この投稿者のレビュー一覧を見る
海松という漢字は、ちゃんとミルと打てば変換できる。稲葉さんといえば、ミーのことをすぐ思い出してしまう、「海松」にも登場しているのでほっとした。「海松」と「光の沼」は半島に別荘を買ったあとのお話、これは主人公は稲葉さん自身なのでしょう。「桟橋」は同じく半島を舞台にしているけど、夫とうまくいかない奥さんのお話し、「指の上の深海」には海は登場しない。この短編集もよかった、といっても稲葉さんは鬼籍にはいられてしまっているのでカノジョの作品んはもう読めない
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稲葉真弓さんの作品は初めて読みました。
図書館でよく目についていましたが、なかなか手に取る機会がありませんでした。
「週刊ブックレビュー」でこの作品の紹介があり、図書館に行くと書棚に並んでいたので、借りて読みました。
表題作の「海松」「光の沼」「桟橋」「指の上の深海」の4作品から成ります。
「海松」と「光の沼」は連作です。
この2作品と「桟橋」は三重県の志摩半島の背後は山という町が舞台です。
主人公の50台と見られる女性は、愛知県出身で東京のマンションで一人暮らしをしています。
東京が好きかどうかわからなくなって、志摩半島に70坪の土地を買って別荘として利用するようになります。
バージニア・ウルフの作品が出てきます。
ウルフはイギリスの作家で投身自殺をしています。
ウルフの名前は知っていました。
トワエモア、ビリーバンバン、宇崎竜童、浅川マキ、サイモン&ガーファンクル、など懐かしいです。
「海松」(みる)というのは、海藻の名前ですが、古語としては特に和歌で「見る」との掛詞として用いられるようです。
万葉集にもこの用例があるということです。
「聲」という漢字が使われています。
「声」でなく「聲」とはっきり区別しています。
稲葉真弓さんは、言葉の使い方に細かい気配りをなさっています。
土地とは何だろうかという問いかけが「光の沼」ではなされています。
「桟橋」も舞台は志摩半島ですが、中身は前の2編とは違っています。
志摩半島のリアス式海岸の岩場の様子がリアルに描かれています。
この女主人公は夫とのいさかいから志摩半島の別荘地に来ます。
志摩半島の海の様子が素敵に描かれています。
読んで、志摩半島に憧れを持ちました。三重県には行ったことがありません。
稲葉真弓さんは愛知県出身ということで、主人公と重なるところがあるようです。
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(2009.07.02読了)
神さんが本の表紙に惹かれて、読んでみたいというので図書館から借りてきました。神さんの感想は、いまいちということでした。神さんの好きな作家は、村上春樹、堀江敏幸、川上弘美、宮部みゆき、等々です。
せっかく借りてきたので、神さんが読んだ後に読んでみました。面白いわけでもないけど、つまらないというわけでもありません。うまく表現できませんので、NHK週刊ブックレビューの内容紹介を拝借しておきましょう。
「今年度、川端康成文学賞を受賞した表題作を含む、四つの短編を収めます。東京で働き続けることに不安を抱き始めた、40代後半の女性が主人公。志摩半島の一角に小さな土地を買い、家を建て、忙しい仕事の合間を縫っては通う日々の中で、自らの新たな一面を見つけ出していきます。美しい自然描写と、静かな語り口の向こうに、力強い物語の世界が立ち上がってきます。」(7月4日に放映されました。)
四つの短編は、「海松(みる)」「光の沼」「桟橋」「指の上の深海」です。
「海松(みる)」と「光の沼」は、同じ主人公です。愛知県の実家を離れ、都心のマンションで一人暮らしを始めてから二十年が過ぎようとしていた。(14頁)というのが11年前の5月ということと友人の葬式であった年上の男が元全学連ということなので、志摩半島に土地を買い家を建てたのが40代で、現在は50代後半の著者と同じくらいの女性ということになります。(NHK内容紹介者は、ちょっと読み違えたようです。)
志摩半島の家には、一件に住んでいる弟の家族と同居する母親、東京に住んでいる妹と主人公が自分たちの都合のつくときに訪れて、何日か滞在してゆくという使い方をしている。都会にはない自然の姿に接して活力を取り戻し、いつもの生活に戻ってゆく。
主人公は、猫を飼っているので、志摩半島の家に来るときは、猫も一緒に連れてくる。猫もここに来ると外に出てゆき、夕方になってから帰ってくる。
東京から志摩半島まで移動する間に猫が粗相をするのではないかと心配したが、一度もそのようなことはない。(我が家の猫も、帰省のとき連れて帰るが、移動の途中は籠の中で、おとなしくしており、粗相をしたことは一度もない。)
主人公は、フユイチゴを摘んでジャムを作ったり、ヘビの抜け殻を眺めながら思索にふけったりして過ごしている。
「光る沼」では、家の周りに繁茂する植物を刈り払うと道が現れ、水路が現れ、沼が出現する話。住み始めた周辺の歴史を不動産屋であれこれたどってみたり、現れた道をたどってみたり、という話。沼からヒメボタルが現れる。
著者 稲葉真弓(イナバ・マユミ)
1950年、愛知県生まれ
1973年、「蒼い影の傷みを」で女流新人賞を受賞
1980年、「ホテル・ザンビア」で作品賞を受賞
1992年、「エンドレス・ワルツ」で女流文学賞を受賞
1995年、「声の娼婦」で平林たい子文学賞を受賞
2008年、「海松」で川端康成文学賞を受賞
(2009年7月4日・記)
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一人称で30代40代の女性の心の動きが淡々と繊細に綴られていく。それを読んで面白いと感じる自分は、覗き趣味か?
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気分が鬱々としている時に光を見ると、その光がとても眩しくて、光自体が神であるかのような錯覚を起こすことがある。
人間達はどうにもこうにも逃避的であるのだが、自然の美しさは堂々としてその場からの逃避を嫌う。
この小説では、物体や生物の素朴な素材に燦々と陽が注がれ、素材に陽が当たるということは影が出来るのであって、その影からは腐食していくような生々しさをも感じさせる。だからとても美しいのだ。
素材が集まって生活となる。
その営みがどのように見えるかは自分次第であり、見る自分自身の状態も自分次第である。
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稲葉真弓さん、谷崎潤一郎賞受賞おめでとうございます。
本作「海松」は、受賞された「半島へ」の前編にあたる作品。
東京でマンション暮らしをしながら、時折志摩半島の海沿いの別宅で暮らす女性の話。一見、寂しそうに思えたりするが、女性の内面は豊かだ。「西の魔女が死んだ」の主人公も、しばらく祖母宅で田舎暮らしをするけれど、都会の喧騒から離れて、山や海などの近くで自然に触れながら暮らすのは精神的に良いことだと思う。私も実家に帰って無心になって土いじりなどすると、何だかすっきりする。自宅で祖母の介護を15年以上していた母は、介護を続けることができたのは、並行して野菜作りをしていたからだと言っていた。土いじりがストレス発散になっていたみたい。また、いつまで続くか先の見えない介護と違って、収穫が達成感にも繋がったようだ。
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「海松」と書いて「みる」と読む。読み方に惹かれる。
みる。
作者の近しい友人や女としての自分、愛した男や家族、東京での生活、猫、半島の家での暮らし、そこにある初めて気づくもの。それを「みる」。
見つめる。自分を生きた時間。そこに詰まった個人の歴史。いま生きているという実感。深いところにある内面の沼をみる。覗き込む。水面に映るものや、そこに集まる発光体をみる。
いい本だとおもった。
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言葉が本当にきれいで、するすると読める。劇的な展開はなく、著者の心の内と半島に広がる風景や暮らしを静かに紡ぐ本。こんな表現の仕方があるのかと驚かされる。心地よく読める本。
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川端康成文学賞受賞作品。
この賞って地味な感じがするけど過去の候補作や受賞作品を見てみると、いいわ~、渋くて。大衆に迎合してなくてぶれない感じが(笑)
今度からちゃんとチェックしようっと。
4つ短編集が収められている。いずれも完成度が高い。
最初に二編は同じ主人公だろうか、志摩半島に別荘を建てて東京との二重生活を送る女性の話。
崖地に建てた別荘から見る景色の美しさが眼前に迫ってくるような描写。
また美しいだけではない少しでも間を開けるとあっという間に雑草のはびこる生命力あふれる周囲の自然。
家の周囲にはヘビやクモがいたるところにいて、名もなき沼には姫ボタルが自生する。
ポイントはこの目線があくまでもよそ者の目線だと言うことだろう。
その土地に住む人々では感じることのない都会に住む者から見た世界。
だからこそ彼女の孤独や寂寥感が際立ってくる。
一番好きだったのは三番目の桟橋。
これは大人の描く官能ですね。
直接的な描写はほとんどないのだけれど。
と言うよりどこまでが主人公の実体験なのかあるいは妄想なのがあいまいな感じもよかった。
海の中に住む色とりどりのウミウシ達の鮮やかさと、真珠養殖のなまめかしさ。
幼いあどけない子供と向き合う自分と、男に向けられる女としての自分と。
その配分の匙加減がすばらしい。
次は「半島へ」を読みたい。
この続編なのかな。
やっぱり稲葉さんがお亡くなりになったのは早すぎましたね。残念。
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短編集。半島での暮らし、猫とのふれあいなど、おなじみの落ち着いた稲葉真弓節を読み進めていくと、突然フィクションの世界に連れ込まれた。
いや、こちらも好きだからいいんだけどさ。
なんだか編集の意図がよくわからなかった。
《あと十年余もすれば、「私が先か、猫が先か」。そんなふうに覚悟を決めるときだって来るだろう。》という言葉があるが、初出は2007年。10年もたたないうちに逝っちゃったなんて…。
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生きること、暮らすことを見つめ直すのは、必死になっている自分への静かな抵抗であると同時に、たゆたう自分への細やかなご褒美でもある。そして人間とはいかに無力な生き物であるかを実感しつつ、何もしない、何もない世界に酔い浸るのがいい。そんな著者の思いに同化できるのが、この作品の魅力であろうか。
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表題作を含む短編集。
愛知県出身で仕事のために上京した主人公が家族旅行をきっかけに三重県志摩に別荘を建てた。
著者の経験を元にしているが、7割は創作とご本人は述べている(新聞インタビュー)。
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ずっーと読み進めると、何か想像と現実の世界を行ったり来たりしてるような世界観が浮かんできて、
本を読んでるんだけど、夢の中にいるような感覚、、すっーと言葉や海の情景が頭に入り込んできます。
桟橋や入江の情景、それから牡蠣や獣たちの腐臭など、繰り返し本文に決まって表現されるワードが、
読み進めていくうちに、なんだか変な中毒性を持ち、癖になっていきました!