紙の本
読書の本意は中断にこそあり
2010/01/17 18:04
8人中、8人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:abraxas - この投稿者のレビュー一覧を見る
また、ストレートなタイトルではないか。ただし、「本の読み方」と言っても三色ボールペン片手に読むといった、よくあるハウツー本ではない。文字通り、人は本を読むとき、どんなふうにして読んでいるかを、古今東西の錚々たる読み手の書いたものから抜き出し、それに少々辛口のコメントをまぶして随筆仕立てにした読書をめぐるエッセイ集である。
読書家として知られる草森だが、のっけから自分は読書家ではないと言う。本を読むのがやめられないのは、たえず中断につきまとわれるからだ、と。寺田寅彦が病床で読書中、ウグイスがガラス窓にぶつかって死んだことから、人の人生に思いを致し、「人間の行路にもやはりこの<ガラス戸>のようなものがある。失敗する人はみんな目の前の<ガラス>を見そこなって鼻柱を折る人である」という随筆が生まれたことを例にとり、「時にその中断により、寅彦がそうであった如く、本の内容とまったく別なところへ引きづりこまれ、うむと考え込んだりもする。快なる哉」と、書く。本を読んでいるのがむしろ常態で、中断の方に興が湧くというのだから、なるほど並大抵な読み手ではない。
そうなると、次はどんな格好で読むのが楽かという思案となる。坂口安吾が浴衣がけで仰向けに寝転がって本を読んでいる姿を兄がスケッチしたものが残っている。手が疲れそうだが、筆者も家で読む時は百パーセント寝転んで読んでいるという。齋藤緑雨もまた、「寝ながら読む、欠伸をしながら読む、酒でも飲みながら読む。今の小説とながらとは離るべからず」と書いている。一見不作法な読み方を称揚しているようだが、その実これは、「明窓浄机」という儒教の礼法を当時の小説に非を鳴らすためわざと裏返して見せただけ、というのが真正の「不良」をもって任じる筆者の見方。小説でなくたって寝ながら読める。論より証拠。六代目圓生は酒を飲みながら「論語」を読んだという逸話を息子の書いた『父、圓生』から引いて、緑雨に一矢報いている。
戸外での読書、車中の肩越しに人の読んでいるのを覗き見る読書、緑陰読書と、本の読み方にまつわる引用が次々と繰り出されるのだが、中国文学が専門だけあって、漢詩、漢文に関する蘊蓄が尋常でない。
その一つ。「読書の秋」というのは誰が言い出したのか、という話。秋は収穫の時であり、「食欲の秋」ともいう。食べれば眠気に襲われるからこの二つは相性が悪い。大槻盤渓の『雪夜読書』という詩の中に「峭寒(しょうかん)骨に逼(せま)るも三餘(さんよ)を惜しむ」という詩句がある。「三餘」とは、読書の時間に絡む熟語で、「冬」の時、「夜」の時、「雨」の時を指す。
これには典拠がある。本来は「董遇(とうぐう)三餘」といい、「読書百遍、義自ずから見(あらわ)る」という言葉をのこした、学者で高級官僚でもあった董遇が、本を読む暇がないという弟子に「冬という歳の余り、夜という一日の余り、雨という時間の余りがあるではないか、お前はなまけものだ」と叱ったという故事から来ている。
草森は、「三餘」は、農耕文化のものだと看破する。冬、雨、夜は農業にとってはお手上げの時だから「余り」なのだ。とすれば、巷間に流布する「読書の秋」というのは、虚業中心の都市文化、それに連なる「レジャー文化」の産物である。「三餘」が死語になるのは、季節感を失った二十世紀現代文明にふさわしいと言い捨てている。
副題の「墓場の書斎に閉じこもる」は、少年時の毛沢東が、野良仕事の合間を盗んでは墓場の木の下に座り込んで三国志や水滸伝に読み耽った話が出典。特大のベッドに本を山積みし、寝間着のまま読み続けていたという、この人が、文化大革命で「焚書」を命じたのであったか、という歴史の皮肉を思わないわけにはいかない。他にも、令息森雅之が見た、書斎の有島武郎の意外な姿や、河上肇が獄中の便座に胡座して漢詩を読んだ話とか、博学多才にしてジャンルを博捜・横断したこの人ならではという、ここでしか読めない逸話に溢れた随筆集である。
紙の本
草森紳一が死んだ
2009/10/04 22:00
11人中、8人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:塩津計 - この投稿者のレビュー一覧を見る
どうやら草森紳一病に私も罹ったようだ。「本が崩れる」という迷著に続き、本書まで買ってしまうのだから。何といっても帯が笑わせる。「本は崩れず。」とある。これは「本が崩れる」を読んでいる草森病患者にだけ、しかもかなり強烈に通じるジョークである。そうでない人には、何を言っているのか、さっぱり意味がわからないだろう。本書にはふんだんに読書している人々の写真が出てくる。ほぼすべてが都内で撮影されたものらしく、同じく東京都に勤務する私には、「あ、これは渋谷駅だ」「あ、八重洲ブックセンターの二宮金次郎だ」と撮影場所までわかってしまう写真が数葉ある。なんでも著者は「読書している人の姿」がとても好きなんだそうで、常に携行しているカメラを用いてパチリ、パチリと撮っていたそうで、それが本書の随所にふんだんに差し挟まれている。この写真がまた実にいい。中身は「読書」にまつわる古今東西の作家の文章をベースにした「読書」に関するエッセーである。今は無き文芸春秋社が出していた「ノーサイド」(コンセプトとしては「サライ」に似た内容ながら、文芸春秋的編集のなせる業か、わずか5年しかもたず、1996年に廃刊となってしまった)に連載されていたコラムである。中でも気に入ったのは、林真理子作「本を読む女」を扱った一章。いやあ、草森さんの文章って、味があるなあ。彼みたいな人生を私も送りたいなあ。
紙の本
ハッとする
2009/09/17 00:18
8人中、7人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:つぶて - この投稿者のレビュー一覧を見る
本の読み方なら、今さら聞くまでもない、そう言う人がいるかもしれない。けれども、この本、一風変わっている。たとえば、草森紳一の次の言葉はどうであろう。
読書といえば、
頭のみを使うと
思っている人が多い。
それは、誤解で、
手を使うのである。
読書とは手の運動である。
読書という行為は、生活の中に溶け込んでしまうと、いつしか自意識を離れ、無意識の運動にまで純化されてしまう。そのことに考えが及んだとき、本のページをめくる自分の手の動きを感じ、ハッとする。
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読書論ではありません。洋の東西を問わず、作家自身や小説の中に登場する「読書」を取り上げたエッセイ。雑誌連載から何と13年もたっての単行本化とはビックリ。
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何で読んだのか、いつ読んだのかも覚えていない。
それが草森伸一という人の文章なのかも定かではない。
でもたぶんこの人だ。
本が崩れ、積み重なり、部屋が本でうずまっている。
そんな写真と、地震で本が崩れてドアが開かなくなり、大変な思いをしたというエッセイだったと思う。
本を読むことについて記述した他人の本をもとに描かれた本(ややこしいね)。
「本の読み方」を読んだ。
そのものずばりのタイトル。
そしてこの表紙の写真の素晴らしさ!
一心に、立ちながら本を読む女の子。本という不思議な世界の魅力が、これほど伝わってくる写真はない。
古今東西の作家や文化人、政治家たちが本について書いたことから敷衍して、自身が考える読書の快楽や本との接し方などを、軽やかに、多くの書物を参照し飛び回りながらつづっており、読書好きにはたまらない本。
草森が取り上げるのは、寺田虎彦、六代目圓生、白洲正子の祖父で初代台湾総督の樺山資紀、ヒトラー、芥川龍之介、ダシール・ハメット、アガサ・クリスティー、毛沢東などなど。
各章の冒頭には、草森がこっそりと撮影した本に読むふける人々の写真が、ややピンボケで掲げられていて、その出来も素晴らしい。
自由に、自在に、本を読み、知とたわむれる。こんな読書の達人に、あこがれる。
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また、ストレートなタイトルではないか。ただし、「本の読み方」と言っても三色ボールペン片手に読むといった、よくあるハウツー本ではない。文字通り、人は本を読むとき、どんなふうにして読んでいるかを、古今東西の錚々たる読み手の書いたものから抜き出し、それに少々辛口のコメントをまぶして随筆仕立てにした読書をめぐるエッセイ集である。
読書家として知られる草森だが、のっけから自分は読書家ではないと言う。本を読むのがやめられないのは、たえず中断につきまとわれるからだ、と。寺田寅彦が病床で読書中、ウグイスがガラス窓にぶつかって死んだことから、人の人生に思いを致し、「人間の行路にもやはりこの<ガラス戸>のようなものがある。失敗する人はみんな目の前の<ガラス>を見そこなって鼻柱を折る人である」という随筆が生まれたことを例にとり、「時にその中断により、寅彦がそうであった如く、本の内容とまったく別なところへ引きづりこまれ、うむと考え込んだりもする。快なる哉」と、書く。本を読んでいるのがむしろ常態で、中断の方に興が湧くというのだから、なるほど並大抵な読み手ではない。
そうなると、次はどんな格好で読むのが楽かという思案となる。坂口安吾が浴衣がけで仰向けに寝転がって本を読んでいる姿を兄がスケッチしたものが残っている。手が疲れそうだが、筆者も家で読む時は百パーセント寝転んで読んでいるという。齋藤緑雨もまた、「寝ながら読む、欠伸をしながら読む、酒でも飲みながら読む。今の小説とながらとは離るべからず」と書いている。一見不作法な読み方を称揚しているようだが、その実これは、「明窓浄机」という儒教の礼法を当時の小説に非を鳴らすためわざと裏返して見せただけ、というのが真正の「不良」をもって任じる筆者の見方。小説でなくたって寝ながら読める。論より証拠。六代目圓生は酒を飲みながら「論語」を読んだという逸話を息子の書いた『父、圓生』から引いて、緑雨に一矢報いている。
戸外での読書、車中の肩越しに人の読んでいるのを覗き見る読書、緑陰読書と、本の読み方にまつわる引用が次々と繰り出されるのだが、中国文学が専門だけあって、漢詩、漢文に関する蘊蓄が尋常でない。
その一つ。「読書の秋」というのは誰が言い出したのか、という話。秋は収穫の時であり、「食欲の秋」ともいう。食べれば眠気に襲われるからこの二つは相性が悪い。大槻盤渓の『雪夜読書』という詩の中に「峭寒(しょうかん)骨に逼(せま)るも三餘(さんよ)を惜しむ」という詩句がある。「三餘」とは、読書の時間に絡む熟語で、「冬」の時、「夜」の時、「雨」の時を指す。
これには典拠がある。本来は「董遇(とうぐう)三餘」といい、「読書百遍、義自ずから見(あらわ)る」という言葉をのこした、学者で高級官僚でもあった董遇が、本を読む暇がないという弟子に「冬という歳の余り、夜という一日の余り、雨という時間の余りがあるではないか、お前はなまけものだ」と叱ったという故事から来ている。
草森は、「三餘」は、農耕文化のものだと看破する。冬、雨、夜は農業にとってはお手上げの時だから「余り」なのだ。とすれば、巷間に流布する「読書の秋」というのは、虚業中心の都市文化、それに連なる「レジャー文化」の産物である。「三餘」が死語になるのは、季節感を失った二十世紀現代文明にふさわしいと言い捨てている。
副題の「墓場の書斎に閉じこもる」は、少年時の毛沢東が、野良仕事の合間を盗んでは墓場の木の下に座り込んで三国志や水滸伝に読み耽った話が出典。特大のベッドに本を山積みし、寝間着のまま読み続けていたという、この人が、文化大革命で「焚書」を命じたのであったか、という歴史の皮肉を思わないわけにはいかない。他にも、令息森雅之が見た、書斎の有島武郎の意外な姿や、 河上肇が獄中の便座に胡座して漢詩を読んだ話とか、博学多才にしてジャンルを博捜・横断したこの人ならではという、ここでしか読めない逸話に溢れた随筆集である。
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作家や芸術家、政治家、思想家、小説の登場人物まで、あらゆる人達の「本の読み方」。
あらためて、本を読むという行為に様々なあり様があるんだなぁとしみじみ。
娯楽であり、趣味であり、勉強でもあり…。
人と本の縁の深さを再確認する本。
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本を読む手は指揮者のように動いてとどまることを知らない。乗ってくると右手の指は常に左ページの下を摘(つま)んでいる。また重要な内容と思われるページは両手の指がページ上部を抑えていることが多い。紙の手触りだけではなく、ページをめくる音も大きな要素だ。微速度撮影をすれば楽しい映像ができあがることだろう。
http://sessendo.blogspot.jp/2014/04/blog-post_15.html
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本の読み方というタイトルを見ると、まるで読書法を教えてくれるかのような気になる。しかし、本書はそうでない。どこで、どんな姿勢で読むかを、古今東西の本を引用しながら説いたものである。たとえば、旅に出て電車の中で読書するのはぼくも大好きだ。電車でとなりの人の本を盗み見するのは新聞ならともかく本では難しい。女性を膝に乗せて読むというのもある。河上肇のように、獄中での読書を紹介したものもある。河上は自ら獄につながれ、刑期を全うするのだが、その間読んだ本は宗教書よりも漢詩集の方が多かったそうだ。また、書斎にいるからといって、ずっと読書ばかりしているだけでない。意外と余計なことをしているのだというのは当たりである。
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読書はするが読書家ではない(中略)ましてや勉強のために読書することなど滅多にない。ともかく読むのだ。
という著者。
その彼から見た、猛烈な読書家のエピソードが楽しい。
それ、ほとんど病気でしょ(笑)という話もあって興味深かった。
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『本が崩れる』は読み辛くて読み辛くて読了できなかったけど、こちらは案外すらすらと読み終えた。一文が短く、読点の位置が心地よい。
内容は、様々な人々の各々の読書風景を、軽い筆致でユーモアを交えつつ綴っている。各話の扉写真も魅力的。「ページをめくる音」「「玉香を膝の上に乗せて」が特に良し。
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自分と同じ趣味を持つ人がそれをどう楽しんでいるのかって確かに気になるところ。読書してる人を見かけると写真を撮ってしまうほどの草森さんはちょっと酔狂な人だとも思うけど笑 まるで散歩しているときのような、気楽さと発見がある、素敵な本でした。