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紙の本
一武将が俯瞰した中国王朝の誕生劇であり遅れてきた英雄の悲劇でもある
2009/10/31 01:08
2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:よっちゃん - この投稿者のレビュー一覧を見る
中国前漢の武将。匈奴と戦い功績があり、武帝の時、北平太守となった。匈奴は恐れて飛将軍と呼び、その領地には進攻しようとしなかった。前119年没。(日本国語大辞典より)
塚本青史は『始皇帝』を読んだことがある。よく知られた始皇帝についての私の知識不足を補足して、歴史的好奇心を満足させてくれた好著であった。李広についてはまったく知らない人物だった。前漢の皇帝たち5代文帝(劉恒)、6代景帝(劉啓)、7代武帝(劉徹)の三代にわたって仕えた武将である。
ただし歴史を動かすといった役割を果たした人物ではない。
漢王朝は、以降清の時代にいたるまで続く中国王朝の原型が形成されるのだが、この三代はその原型が整うプロセスにある。皇帝による中央集権的官僚制と郡県制施行、儒教の国教化、異民族の支配にむけて三代の歴史は進展する。このプロセスを中央政権には無縁で、単に辺境守備役にある一武将の目から俯瞰する構成は異色といえる。
文帝の御前で羆を殴り倒し「そこもとは、生まれるのが少し遅かったのかもしれぬな。高祖(劉邦)の時代であれば列候になれたであろうに」とその武勇を讃えられる。が、時代は武辺一辺倒では立身がかなわぬ文治政治に向かいつつあり、そこに李広の悲劇がある。
李広は景帝治世下で起こった呉楚七国の乱の鎮圧にも加わる。呉楚七国の乱とは。漢は秦の郡県制を改め、当初一族を諸侯王に封じて各地に国を置いた(郡国制)。広大な封地と国内の統治権が与えられた諸侯王たちは、強大化し、独立国の様相を呈した。これに対し景帝は晁錯(ちようそ)の意見で封地削減策を実施、反発した呉王ら7国の諸侯王が挙兵。数ヵ月後に平定された内乱である。この後封地の細分化、統治権の制限を行い、実質上郡県制が実現するのである。彼はここでも戦功を上げるのだが、不運にも恩賞にはあずかることがなかった。
漢代を通して相対立する強大な異民族は匈奴であった。高祖の匈奴に対する和親外交を文帝、景帝時代を通じてその基本は遵守されたが、匈奴の侵入は止まなかった。呉楚七国の乱平定によって国内問題が解決し、中央集権体制が確立した武帝期に入ると匈奴との外交は決裂し、一転して戦争へと突入した。漢は名将衛青や霍去病(かくきよへい)らの奮戦によって前119年には匈奴をゴビ砂漠の北方に退ける勝利を収め、漢の領土は北と西へ向かって拡大されたのである。李広の最大の悲劇はこの匈奴征討のプロセスにあったようだ。
万里の長城を防衛線として匈奴の侵入を阻止する。そして合戦というスタイルが李広将軍であったのだが、新たな時代の英雄、衛青や霍去病の作戦は長城を超えて戦線を拡大する侵略戦争スタイルであり、とてもとても彼の及ぶところではなくなった。
李広の部隊が遅れて参戦したことの責任をとって、彼は非業の自死を遂げる。
これは歴史小説であるが、史実を実直に整理したものとの印象が強い。
学術書のようで中国史に対する好奇心から興味深く読むことはできたが、それだけ物語全体として起伏に乏しい。
また李広を含めて登場する主要な人物たちの人間像が精彩を欠いている。
もう少しドラマチックな味付けがあれば李広の悲劇性がいっそう深まったであろう。
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