紙の本
骨肉争う尊皇攘夷。
2012/01/02 11:33
3人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:浦辺 登 - この投稿者のレビュー一覧を見る
幕末の尊皇攘夷は各地に起こった。そのなかで、この水戸藩士を中心とした天狗党の尊皇攘夷の決起は特異なものかもしれないが、「桜田門外の変」は史実としてでてきても「天狗党」は特に事件性としては注目を浴びない。さほど、証言者たちの多くが抹殺されたことになる。
著者の吉村昭は『桜田門外の変』を著わした後に、この天狗党について書こうと考えていたようだ。一見、何の関連性も脈絡も無いように見えて、尊皇攘夷という思想は地下水脈のごとく、生きていた。この小説仕立ての内容は、事件性を忠実に追いかけたものであり、歴史小説としての面白みは無い。正直、核心がつかめずに天狗党と同じく迷ってしまう。それほど、この水戸天狗党の決起が複雑に絡んでいるということになる。尊皇攘夷とは、その原点とは、それを考えさせるものである。現代日本に、これほどの思想を持って行動に移るだけの実行力はあるだろうか。思想とは、科学だけでは解明できない何か、宗教にも似た情熱を著わした一書である。
尊皇攘夷、維新回転、その負の遺産のひとつとして「天狗争乱」は記さなければならなかった史実である。
ただ、史実に忠実であろうとした吉村昭の気持ちは理解できるが、感情移入の箇所があっても良かったのではと思った。
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桜田門外の変から4年―守旧派に藩政の実権を握られた水戸尊攘派は農民ら千余名を組織し、筑波山に「天狗勢」を挙兵する。しかし幕府軍の追討を受け、行き場を失った彼らは敬慕する徳川慶喜を頼って京都に上ることを決意。攘夷断行を掲げ、信濃、美濃を粛然と進む天狗勢だが、慶喜に見放された彼らは越前に至って非情な最期を迎える。水戸学に発した尊皇攘夷思想の末路を活写した雄編。
1997年6月29日購入
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「桜田門外の変」の続きとして、その後の水戸藩と天狗勢のお話。前半は田中の極悪非道ぶりが書かれており、後半でやっと京都へという明確な目的を持った行動が書かれている。その京都へ行くまでのお話が、あまり面白くなくて★3つ。後半は、面白し。幕末の各藩の内情、今の日本の政党の内部と同じように、混乱を極めています。自分たちの考えを通すのは、いつの時代も大変。TOPの人たちは自分の保身に走るし。「結局、日本って昔からこうなんだ」と思います。
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相変わらず小説としては「なってない」 (同じテーマなら山風の「魔群の通過」のほうが面白い) 。でも「こんな凄まじいことが現実としてあったのか」という事件としての衝撃性は相当なものだ。
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この天狗争乱が、はじめて読んだ吉村昭の本。
独特の淡々とした文は、はじめ何も感情を感じ取ることができなく、
これは小説なのかと戸惑った。
しかし、読み進めていくうちに、この独特の文章から圧倒的なリアリティを感じることができるようになり、読後には、吉村昭の中毒にかかったように吉村昭の小説ばかりを読むようになってしまった。
今でも、司馬遼太郎の次に好きな作家。
もちろんストーリーも素晴らしかった。
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今回2回目の読了。
1回目に読んだ時は、党派の関わりが非常に複雑だったので、地元出身者の自分であっても話の筋を追うだけで精一杯だったが、2回目はだいぶ余裕を持って理解し楽しむことができた。
天狗党の歩んだ道は、巻末にある地図で確認するだけでもよいが、wikiやGoogle map等を適宜参照しながら読むと、より面白いと思う。
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幕末時、水戸藩の尊王攘夷派である天狗党の悲劇を描いたもの。
水戸藩は、御三家でありながら尊王の旗を立て、当初は政治思想的に幕末をお膳立てした藩であったにもかかわらず、内ゲバを繰り返すことにより、維新時には全く政治力を失った。その中心にあったのが天狗党の争乱であり、この過程で多くの有為な藩士を亡くしている。
士道にも反するような数百名の天狗党の処分は、幕府及び徳川慶喜の権威を大きく損ね、結果的に幕末を早めるひとつの要因になった。
その意味でも、この史実の考察を確りと行うべき。
(薩摩藩の暗躍、一橋慶喜と幕府の関係、水戸藩と彦根藩の怨念等、興味深い歴史背景も理解できる)
明治維新後に、今度は門閥派が厳しい処分を受けるのだが、その悲劇までは描かれていない。
以下引用~
・西郷は、一橋慶喜との対立をふかめていて、天狗勢と京都から出陣している諸藩との全面衝突にとって、慶喜を窮地におとしいれようとはかっていたのである。
・慶喜は、狼狽した。追討の任をあたえられながら戦闘を回避しようとしている、とみられては、幕府の怒りをまねき、自分の立場が危うくなる。
・天狗勢を加賀、福井、彦根、小浜の四藩にあずけることも決定した、と伝えた。
・公(慶喜)は、かなり微妙なお立場におられる。幕府との関係は好ましくなく、ささいなあやまちをおかせば、たちまち身が危うくなる。
・352人が首をはねられたが、このような大量斬首は全く前例のないものであった。
・薩摩藩大久保利通は、「この非道な行為は、幕府が近々のうちに滅亡することを自らしめしたものである」
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幕末の水戸藩の尊皇攘夷の過激分子・天狗党が天皇に、そして頼みの綱と仰いだ一橋(徳川)慶喜に見捨てられ討伐の対象とされていく。武田光雲齋、藤田小四郎などの知っている名前はあるとはいえ、はっきりとした小説の主人公がいないようで大変読みづらかったのですが、京を目前にして越前へ向けて冬山を越える決死行から俄然盛り上がってきました。900人にも及ぶ日本大縦断の結果、慶喜に裏切られて無意味に死んで行った人たちが何とも悲惨です。そして57歳の女性が1人最後まで共について行ったのは驚きです。つい150年前ほどの世界が今と同じ地名(石岡、日光、本庄、藤岡、甲府、大野、勝山・・・)で登場し、非常に身近に感じられます。明治維新前夜は考えてみれば、全くの近代ですね。著者が登場人物の係累に直接会って取材した様子が目に浮かぶようです。
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桜田門外の変から4年。
水戸藩では尊王攘夷派が台頭し、横浜から外国人を打ち払おうと挙兵した。
天狗勢と呼ばれる集団は、水戸で反攘夷派の市川ら門閥はと対立し追放された頼徳軍、武田耕雲斎と合流し、一橋慶喜への望みを抱いて進軍する。
幕末の波に翻弄されながらも志を高く死んだ天狗勢の生き様を描く。
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水戸藩尊攘派による「天狗党の乱」を叙事詩的に描いた長編大作・・・だが、主人公もなく、ひたすら局地的な事実を時系列に追いかけるのみで、小説というより年代記に近く、あまりにも無味乾燥で途中で眠くなり、半分ほどで挫折した。歴史学において当該時期(元治・慶応年間)は、京都を震源とする朝廷・幕府・西南雄藩の関係の変容が重視され、「天狗党の乱」はある意味幕長戦争の先駆をなす内戦であったにもかかわらず、水戸藩の没落を招いただけで何ら有益な果実を残さなかったこともあって(維新後の水戸藩の存在の軽さ!)、東日本のローカルな武装蜂起として軽視されており(その暴虐ゆえに民衆から徹底的に忌避されたこともある)、そうしたアカデミズムの潮流への問題提起の意味があろうことはわかる。
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歴史小説は普段読まないのだがこの本は読んでいて少々疲れた・・・以下に詳しい感想があります。http://takeshi3017.chu.jp/file5/naiyou20201.html
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吉村昭氏の天狗争乱は、桜田門外ノ変の刊行後、まわりの人から次は天狗争乱ですね。と催促されるほど関係の深い内容である。幕末は、3年という年月で価値観が変わっていく時代であることを象徴する出来事でもあった。桜田門外ノ変で井伊直弼を暗殺した水戸浪士の攘夷派の者たちが、粛清されたように、かつて、時代の象徴であった攘夷派は、水戸藩内部の有力派からも弾圧される立場に追い込められていた。すでに幕府にかつての力はなく、天狗勢が頼りにしていた慶喜までも、同様であり、天狗勢の最後は、最悪の形で幕切れとなったのであった。いつもながら、天狗争乱の中に身を置いて取材しているような緻密な書きっぷりに楽しく読了した。
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「天狗党は気の毒な人たちだ」という記述をどこかで見かけ、名前ぐらいしか知らなかった天狗党のことが少しだけ気になっていたので、吉村昭の小説が読みたかったので、これを選んでみた。
吉村昭の小説の小説としての面白さは今まで幾度も書いてきたしいつも大好きなのでそれはそれでいいとして、歴史としての天狗党については、読みながらずっと納得できないでいた。
挙兵の段階で、武力放棄としては脆弱すぎるし、社会運動としては過激すぎる。そもそも落とし所が分からない。
こういうのを「政治集団」ととらえるか「大犯罪者集団」と取られるかは微妙だが、結局大犯罪者集団として扱われてしまった。まるでオウムみたいだ。
慶喜を冷淡だというが、それは仕方がないと思う。割拠して武田耕雲斎だけ表に出るみたいなIRAみたいな活動はできなかったかとか思う。それは歴史をあとから見る者の勝手な言いぐさなのは分かるけど。
「この非道な行為は、幕府が近々のうちに滅亡することを自らしめしたものである」
という大久保一蔵の日記の記述(P531)が最後に残ったことなんだろうな。
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細かいことは覚えていないが、一度だけ著者の講演を聴いたことがある。確か創作についての内容だったと記憶しているが、手元にある『天狗争乱』の単行本に著者のサインを頂いており、1994年に『天狗争乱』が大佛次郎賞を受賞されたので、それを記念してのイベントに参加したのかも知れない。いずれにせよ今回本書を再読したのは、NHK大河ドラマ『青天を衝け』で数回にわたり天狗党が描かれていたからである。水戸藩と言えば徳川斉昭、藤田東湖らに代表される尊王攘夷の大藩である。しかし、尊攘派の改革に反発する門閥派(諸生党)の勢力も根強く、更に尊攘派も穏健派の「鎮派」と過激派の「激派」に分かれていた。もちろん、桜田門外の変や坂下門外の変を起こしたのは激派であり、筑波山で攘夷決行を唱え天狗党として挙兵したのもこの激派である。ドラマでは詳しく描かれなかったが、門閥派と激派との権力闘争は峻烈であり、藩内の闘争激化を心配して藩主徳川慶篤(当時在京)が名代として宍戸藩主徳川頼徳を下向させると、門閥派は改革派寄りの頼徳の水戸入城を拒否して戦闘に及んだうえ、頼徳は天狗党の同類であると幕府に讒言しこれを陥れて切腹させてしまう。帰るべき場所を失った旧頼徳勢と天狗党は合流し、徳川斉昭の七男で名君の誉れ高い一橋慶喜に実情を訴えようと、幕府の討伐軍に追われながら京都への苦難の進軍を開始するのである。しかし、京都を目前にした彼らの前に立ち塞がったのは、彼らが敬愛するその「一橋様」であった。著者の淡々とした文体が、彼らの悲憤を却って読者の胸に訴えかけてやまない。
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德川斉昭(烈公)を崇める水戸の尊王攘夷派「天狗党」が挙兵し筑波山に立て籠もって後、幕府軍の追撃をかわしながら、徳川慶喜公を頼って京に上る百里の道半ばにして、非業の最期を迎えることになったのは何故かを思案、苦悶しながら読んだ吉村昭氏の幕末惨劇篇。安政の大獄、桜田門外事変を経てなお、尊攘思想を幕政に訴えるも、変転する時代の趨勢を見誤ったとするだけでは、武田耕雲斎ら352人の斬首刑、妻子や一族郎党を根絶やしにされた者の無念を一片なりとも言い表せない。水戸藩門閥派の調略と慶喜の変心が悲劇を招いた、悶絶の歴史。