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紙の本
今までの作品を超えるところまでは、行っていないのではないでしょうか。私としては舞台を国外にするのではなく、日本のどこかにある異世界のほうが今のところ恒川には合っているように思えます。
2010/09/11 09:21
2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:みーちゃん - この投稿者のレビュー一覧を見る
鈴木里江のカバー画がいいです。恒川の小説が描きだす世界の雰囲気を実にうまく表現しています。単なる童画風ではなく、なんともいえない深みがあります。絵は収められた作品のどれか一つと密接に結びつく、というよりはトロンバス島の夜の密林を描いたものでしょう。キャンバスに様々な色を塗り、それを濃紺で塗りつぶす、その地肌の複雑な色合いが顔をのぞかせる、小説同様深みのあるものに仕上がっています。
数多くない恒川作品集ではありますが、雰囲気では今回のカバーがベストでしょう。ただし、造本でいえば丸背がふさわしかったかどうかは疑問で、この頁数であれば角背の選択もできました。これは一方的な思い込みですが、恒川作品といえば角背というイメージがあります。背が丸くなってしまうことで、本から緊張感がなくなる、っていうか普通の「本」になっちゃったなあ、という気がして残念ではあります。装丁の鈴木久美(角川書店装丁室)に理由を聞いてみたい・・・
内容ですが出版社のHPの言葉は
*
呪術的な南洋諸島の時空間を自由自在に語る、恒川版マジックリアリズム!
島に一本しかない紫焔樹。森の奥の聖域に入ることを許されたユナは、かつて〈果樹の巫女〉と呼ばれた少女だった……。呪術的な南洋の島の世界を、自由な語りで高らかに飛翔する、新たな神話的物語の誕生!
*
となっています。初出とともに各篇についてもう少し詳しく書くと
・南の子供が夜いくところ(「サントリークォータリー」2008年4月号):湘南海岸で、「今年で120歳」というおねえさん・ユナと出逢ったタカシは、両親と別れ、見知らぬ島で暮らしはじめ・・・
・紫焔(えん)樹の島(「野生時代」2009年7月号):その実を食べれば死なないとも噂される島に一本しかない紫焔樹。森の奥の聖域に入り込んだユナは、スーとともに〈果樹の巫女〉と呼ばれ、トイトイ様といろいろな話をして毎日を過すが・・・
・十字路のピンクの廟(「野生時代」2008年9月号):トロンバス島の十字路に建つピンクの廟。そのなかにはジュノアさんの畑に空から降ってきたという木像が納められていた・・・
・雲の眠る海(「野生時代」2008年12月号):ペライアの酋長の甥であるシンマデウは、守っていた王宮がコラに襲撃されて島を離れ、再起を期してテオスに向かう。そこで〈大海蛇の一族〉のことを思い出したシンマデウは・・・
・蛸漁師(「野生時代」2009年3月号):息子が死んだセントマリー岬の現場に足を運んだ父親が出会った老人から引く継ぐことになった仕事が蛸漁師・・・
・まどろみのティユルさん(「野生時代」2009年10月号):東洋人の少年・タカシが出会ったのは岩に埋まった、半分植物のような男、ティユル・スノピタと名乗った。人間だった記憶を失った男は・・・
・夜の果樹園(「野生時代」2010年1月号):トロンバス島のティアムという町に向かうバスに乗ったつもりが、違ったバスに乗って終点まできてしまい、宿泊させてもらうことになった屋敷で出会ったのが果物の・・・
舞台が南の島ですから、話が自然と「神話的」「呪術的」となるのは当たり前ですが、やはりこういうのを書かせると、恒川光太郎はうまいなあ、と思います。日本の小島ではないぶん、表題作や「紫焔(えん)樹の島」「雲の眠る海」や「例えばゲド戦記の『こわれた腕環』『さいはての島へ』を思い浮かべることは簡単ですが、「まどろみのティユルさん」になってしまうともう完全に恒川の世界。イメージ的には「エイリアン」に近いとも言えそうです。「夜の果樹園」のホラー味もなかなかです。
次に本がまとまるのは年末頃でしょうか、今度はどのような世界をみせてくれるのか今から楽しみではあります。
紙の本
人間でないものの、現実。それはもう一つのこの世界。
2010/08/10 11:16
3人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:空蝉 - この投稿者のレビュー一覧を見る
人間でないものには人間でないものの現実が待っているとは思いもしなかった」
この言葉にハッとさせられた貴方は恒川氏の描く世界に恐怖を覚えるかもしれない。
その一家はこちらの世界で借金を作り一家心中するところを、呪術師ユナに導かれて日本を遠くはなれた南の島「トロンバス島」に連れてこられた。
そこはこちらの世界と繋がっている(時に船や交易など本土との交流をみせる)にも拘らず、神話や神、妖怪の類いといった、つまりは非現実的な現象が入り交じる不思議な土地だ。
ユナにより導かれ離散した一家。息子のタカシはなんなく島に定着しあちらの住民になって行く・・・
この章を皮切りに様々な物語が続き、時には幻想的な、時には伝説めいた、時には妙に現実的な世界で読者を翻弄しつつ楽しませてくれる。
短編集のように平行したり前後したりして描かれる物語群だが、少しずつ登場人物達は接点を持ち、ヤニューという化物やユナのような不思議な力を持った人間、不可思議な出来事や伝説が読者の興味をこの島から離さない。
だからどの章も少しずつ非現実めいてはいるのだが、時折こちらリアル世界で起きた出来事、たとえば大航海時代白人が原住民を駆逐したあげく病気を持ち込んだという悲劇を織り込んだ章がある。
こちらの世界で海賊をしていたであろう男があちらの世界(トロンバス島)で土から「生えて」再生する顛末を描いた章もある。
微妙にリアル。だから、怖いのだ。
恒川氏の作品ではいつも一人の遭遇者を足掛けに「こちら」と「あちら」の二つの世界を描いているが、そのほとんどが偶然による接触だ。
いや、偶然を引き寄せるマイナス要素は発しているのかもしれないが。
タカシの一家のように失敗したもの、人間関係や世界そのものに嫌気が差したものなど恒川氏の作品に登場する遭遇者そのほとんどはなにがしかの「不満」をこの世界に持っている。
「人間でないものには人間でないものの現実が待っているとは思いもしなかった」
最初にあげたこの言葉は最終章、植物人間の支配する世界へ犬として迷い込み逃げ惑うようになった父親の言葉である。
ユートピア、桃源郷、理想郷などという言葉があるように、私たちはともすれば別の世界を空想し、つらい現実から目を背け逃亡する。もしかしたらそうしてファンタジーは生まれるのかもしれない。
浦島太郎の竜宮城のような美しい姫と異世界の住人たち(魚達)が上げ膳据え膳してくれる快楽の地。
不思議の国のアリスのようにトランプや動物達が言葉を話すファンタジックな世界。
そうした非現実の素敵な世界は 幾度となく描かれてきたし、そうした作品はこれからも生れるだろう。
ただ、本作のような視点はなかなかお目にかかれるものじゃない。
いつ私たちが遭遇するかもわからない、取り込まれるかもしれない危うい境界線上を軸に物語は進む…境界線場の視点。つまり「こちら」と「あちら」は同時にこちらであちらなのだ。
人間以外のモノ、あちら側からみた私たちこちらが、どのような色形に見えるかなど考えたこともない!
常識が逆転する世界。言葉も常識も通じない世界。タカシの父がおそらくこの物語群の中でもっとも恐ろしい経験をする世界がまさにそれだ。(最終章)
ユナによれば彼が迷い込んだ世界は「廃墟の町」と言われる野生化した果実の生い茂る町であるらしい。
ただの果実畑で彼という人間は一匹の犬になり、鬼になり、果実という人間を喰った。人間であるすべての常識を剥奪された彼が嘆いた言葉は、どこまでも興味深く恐ろしい。
人間でないものの現実
私たちは人間であるものの現実以外見ることが出来ない、視野の狭い生き物だ。
まあ、それはそうなのだろう。人間でないものの現実を見られるのは人間でないものだけなのだから。
私たちはせいぜい、この世界に見捨てられぬよう今この時を満足しなければならないのかもしれない。
紙の本
明るさとおかしみを伴う悲しい南の島のホラー
2010/03/16 12:25
3人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:かつき - この投稿者のレビュー一覧を見る
南の島トロンバスを舞台に
若い女性の姿をした120歳の巫女ユナ、
ピンクの廟に祭られるご神体、
ヤニューと呼ばれる忌むべき異物など
恒川光太郎らしい呪術的な世界を構築しています。
でも語り口が軽く、明るい。
今までとは違った読み心地の短編集です。
湘南の海に両親と行ったタカシが
家業に行き詰った両親と離れて
ユナとともに南の島に行くことになる「南の子供が夜いくところ」。
ユナの幼い頃を描く「紫焔樹の島」。
フランス人旅行客ヴェルレーヌが聞き書きをする
「十字路のピンクの廟」。
戦いに敗れたベライアの島からやってきた
シシマデウさんの話「雲の眠る海」。
息子が事故死した崖の下で
蛸漁をする男を描く「蛸漁師」。
大地に埋もれた男を描く「まどろみのティユルさん」。
タカシに会いに、父親はバスに乗りますが
たどり着けない「夜の果樹園」。
ゆるやかにリンクしていますが
時間も空間も自由に飛び越えて
人間は異形のものやご神体のようなものに
いつの間にか変わっていきます。
悲しい物語もあります。
でもどこかおかしみが伴うのは
南の島の解放感と異国情緒が漂っているからでしょう。