紙の本
質の高い人生を送るために
2003/05/12 21:27
9人中、9人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:Mr.エム - この投稿者のレビュー一覧を見る
日本の自殺者は交通事故死よりも多いという。9・11事件以降、人生観が変ったという声を聞く。高齢化社会を迎え、周囲の知人がみな逝ってしまい寂しいという人もいる。気がついたらもうこんな年齢になっていた、私の人生返して!と中年離婚に至ったケースもある。人生は人それぞれですが、やはり充実した質の高いものに越したことはない。周囲に流されそうになったとき、手に取って確認できる古典は数多い。本書もその一つです。
本書にはこうあります。
・高官や名声は、人生を犠牲にして獲得されるのだ。任期の僅か1年を自分の名前で数えてもらいたいばかりに、彼らは自己の全歳月を空費するであろう。…名誉によじ登ると、ふと、自分は今まで墓碑銘のために苦労してきたのか、という惨めな思いに襲われた。(人生の短さについて)
・羊の群れのように、先を行く群れの後に付いて行くような真似はしないことである。害悪に巻き込むことの最も甚だしいのは、多数の賛成によって承認されたことを最善と考えて世論に同調することであり、道理に従って生きるのではなく、模倣に従って生きることである。人の集まりから離れるだけでよい、それだけで健康になるであろう。(幸福な人生について)
生き方に迷ったとき、質の高い人生やお金より時間に価値を置こうと考えたとき、本書を手にして読み返すと落ち着きます。今の時代だからこそ読み返したい1冊です。
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イエスとブッダとセネカ
2011/11/17 13:22
7人中、7人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:四十空 - この投稿者のレビュー一覧を見る
生きることを肯定する本もあれば、そうでない本もある。セネカは、イエス・キリストやお釈迦様と同様に、切羽詰ったことのあるひとであればあるほど、読むとその心が穏やかになるのではないかと思う。人間の極限を正直に見透した数少ない宗教人と同じ感覚なのである。
自殺する人は、いわゆる「かわいい人」がほとんどというのが私の持論であるが(こいつが死んでくれたら・・・という人は、絶対に自分を追い詰めない)、そうした悩んでしまった人が、まあイエスの新約聖書、ブッダ、セネカを読めば、死ぬ気は90%失せると希望する。
セネカはいまや経済破綻、EUの劣等生として毎日のようにニュースで取り沙汰されるギリシアの哲人である。しかし、ギリシアの人々を見ると、いまでも実に人間的な顔つき、美貌も多くて、果たして、このような人々がうまくやれない現在の経済活動自体が可笑しいのでは、と奇妙な気持になる。
セネカは2千年前に、現在2011年の世界の病理を、ギリシアの病理として論破している。この痛快さは同時に、「人間とは、2千年前から全く変わっていない」ということが痛感されるのである。人間の行き着く先は常に同じなのだろうか。数多くの珠玉の名言があるが、こんなものがある。
「最もよく踏みならされ、最も往来の激しい道こそ、最も人を欺く道なのである。だから、何よりも肝要とすべきは、羊同然に、前を行く群れに付き従い、事をなすに世評に頼ること、また、(中略)人と同じであることを旨として生きることほど、大きな害悪の渦中にわれわれを巻き込むものはないのである」
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ほんとうに生きているのだろうか。
2008/12/07 15:26
5人中、5人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:jis - この投稿者のレビュー一覧を見る
セネカという名前を久しぶりに見た。というのはあるノンフィクションを読んでいたときに出た名前であるからだ。そのタイトルがネロというものだった。紀元初頭、教育係に抜擢され、無慈悲な暴君から最後に煮え湯を飲まされ、舞台から強制的に去ることになったセネカ。彼の時代は、疾風怒涛の混乱極まりない時代だった。この「人生の短さについては」ストア哲学者のセネカが、説いて聞かせた人生の書である。
確かに人生は短い。物理的な観点からすると人類は、誰一人として200歳まで生きた人は未だかっていない。実感としても、子供の時は、緩やかに流れ、だんだん大人になるにつれて速くなる。20代、30代、40代と進むにつれてまるで矢のように時は流れる。という風に感じる。やるべき事がこんなに有るのに全然完成しない。いったい何のために生きているのやら。普通の人は悩み、嘆く。
セネカはなんと言っているか。まずはこうだ。「われわれは、短い時間を持っているのではなく、実はその多くを浪費しているのである。」日々の忙しさにかまけて、または放蕩や怠惰により、あり余る時間をわれらが、短くしていると言っている。今日日でいうと、あちらに頼み事があれば飛んでいって解決し、こちらで部下が失敗すれば、お詫びに駈けずり回る。朝から夜中まで休む暇なく働き続ける。過去は既に過ぎ去り、現在はあたふた、未来は未来で孫の心配までしなければいけない。では、自分自身の時間はどこにあるのか。
「万人のうちで、英知に専念する者のみが暇のある人であり、このような者のみが生きているというべきである」ゼノンやピュタゴラスと語らい、デモクリトスやソクラテス、アリストテレスを師としてあらゆる時代を、自己の時代に付け加えることができる知恵を学ぼう。彼らは、永遠の道を教えてくれ、生きることばかりか不滅の人生に導いてくれる。このように英知と共に生き、「徳と愛好と実践であり、情欲の忘却であり、生と死の認識であり深い安静の生活である」生き方をセネカは説いている。
果たして、現代日本に生きる者は、この教えになんと答えることができるか。
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古典の教訓
2023/03/20 03:36
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投稿者:エムチャン - この投稿者のレビュー一覧を見る
本当に古い書物なのに、なぜか、今の時代にかえってくるような。生は浪費すれば短いが,活用すれば十分に長いというのは、スゴイ名言ですね、これは。ぜひ、自堕落に若い時を浪費している人に読んでほしいです
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現代にも通じるものがあった
2023/02/13 11:55
0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:kkzz - この投稿者のレビュー一覧を見る
友人についての一節が好きでした。「忠実で心地よい友情ほど心に喜びを与えてくれるものは他にないであろう。どのような秘密でも安全に納めてくれる用意の出来た心の持ち主、自分だけが知っているよりも、その人にも知ってもらうほうが安心な友、その人と交わす会話が不安を和らげ、みずからの意見で助言し、快活さで憂鬱を吹き飛ばしてくれ、その姿を目にするだけでも喜びを覚える親友は、どれほど得がたい大きな宝であろう。」(『心の平静について』七-3)
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雑事に追われて何となく過ごしてきた愚かな日々。漠然となんの根拠もなく、人生はずっと先まで続いて行くような気がしていました。でも明日死んでしまうことだってあるのです。「今日を最後の一日と決める」「悔いのないように今を生きる」・・わかっていても難しいですね。
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暴君ネロの元・家庭教師(途中で処刑されてしまう)、セネカの処世訓。内容は非常に含蓄があって、現代に生きる我々にも充分役に立つ。そうやっていいことを書いているにもかかわらず殺されてしまうあたり、当時の知識人の悲哀が感じられたりもする。
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答えがない。というのも、セネカ自身が答えの様々な可能性のなかで揺れているからだ。
一文を引用
「十分な冊数の書物を求めるのはよいが、一書といえども贅沢のためであってはいけない」
うむむ・・・
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セネカ(前4頃‐後65)はローマ帝政の初期というひどく剣呑な時代に生きた。事実、かつての教え子ネロ帝から謀反に加担したと疑われ、自殺を命じられるのである。良く生きれば人生は十分に長いと説く表題作、併収の『心の平静について』『幸福な人生について』のいずれもが人生の苦境にたちむかうストア哲学の英知に満ちている。
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お〜ぉ昔に、既にこんなことを考えている人がいたんだなぁという点が感慨深かった。
人類・人間というものに感動を覚える。
ありふれているかもしれない一つ一つの言葉が上記感動と共に身に染みる一冊。
老齢となり、自分の人生をいつか振り返る時が来た時に、自分の人生の使い方を整理した際に『何にどう時間を使っていたのか』、そして、それをどう感じるのか、考えさせられる一冊でした。
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■目的
人生について考えてみる。
■本の内容・特徴
時間の大切さ。また、自分のできること(狭い範囲)に集中。運命の流れに逆らわず甘んじて受け入れ、心を乱されないこと。
などについて。
ストア哲学。
■感想
基本的な考え方は、『7つの習慣』の「自分の影響できることに集中する」ということと同じだと思います。一日一日、またはこの瞬間というのは、限りある人生(時間)という物差しで見ると何より大切なものであり、影響できない事に惑わされず自分のできることに集中する、その重要性を感じました。
■引用
どの生もみな、奴隷的屈従である。それゆえ、人は自分の境遇に慣れねばならぬ。そして境遇についてできるだけ不平を言わず、自分の周囲に為になるものがあれば、なんでも掴まえねばならぬ。(P95)
あらゆる労力は一定の目的に向けられねばならず、一定の目的を顧慮しなければならぬ。勤勉が人々の落ち着きを失わせるのではなく、物事に対する誤った観念が人々を狂人にする。(P104)
幸福な人生の基は、自由な心であり、また高潔な、不屈にして強固な心であって、恐怖や欲望の圏外にある。それは徳行を唯一の善とし、背徳を唯一の悪とし、その他のものは価値のない雑物の集まりに過ぎないとする。(中略)このような人は自己自身のものに喜びを感じ、しかも自己本来以上のものを求めることはない。(P129)
幸福な人は、判断の正しくできる者である。幸福な人は、たとえ現況がどうであれ、それに甘んじ、自己の境遇に親しんでいる者である。さらに、幸福な人は、自己の生活のすべての在り方を理性から委されている者である。(P131)
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『心の平静について』:自分自身から逃れるために変化を求めてさまよい、また同じ所に戻ってきてを繰り返してついには環境のせいにする。。。と。耳が痛いです。まあね、ストア派な彼のことですからとにかく心を高みにもってけ!みたいな理論はお断りだ!って感じですが。いやでも、なにかを成し遂げるには、正気を越えた感動が不可欠だと、さらに、平静な心の強さを保つには、動揺する心を常に細心の注意をもって包み込まなければ行けないと。含蓄にとんだお言葉がございましたよ、ええ。図太さと繊細さ、冷静と情熱、このバランスを保持する力こそ、人間の強さなんやねー。
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「われわれは短い人生を受けているのではなく、われわれがそれを短くしているのである。」
「われわれは人生に不足しているのではなく浪費しているのである。」
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「人生の短さについて」
時間の大切さについて、考えさせられる1冊。
「暇」の重要性を説いているが、果たして「暇」とは何なのか、どのように過ごせばよいのか、そこら辺をよく考えなければならないだろう。
自分の人生の過ごし方について見直すべきときなのだろう。
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○生の短さについて
・われわれの享ける生が短いのではなく、われわれ自身が生を短くするのであり、われわれは生に欠乏しているのではなく、生を蕩尽する。
・生のこの期間は、自然のままに放置すれば足早に過ぎ去り、理性を用いれば長くすることのできるものである。
・全ての人間の中で唯一、英知(哲学)のために時間を使う人だけが閑暇の人であり(真に)生きている人なのである。
○心の平静について
・公人としての務めを話そうとする意気込み、行動を望む、生来落ち着きのない精神は、当然、みずからの内に見いだせる慰めが僅かなために、そうした閑暇の生や孤独な学問研究には耐えられないからだ。
・最善の策は、実生活の行動に従事し、国政に携わり、市民の義務を果たすことに専念することであろう。
・演壇や民会に近づくことが君には禁止されているとしてみよう。しかし、無辺の領域のどれほど広大な領域がまだ君の背後に開けているか、どれほど多くの諸国民がまだ君の背後に残されているか、振り返って眺めてみると良いのである。
・われわれはまずわれわれ自身の問題を、次にはわれわれが取り組もうとする仕事の問題を、次には誰のために、あるいは誰と共に仕事をするのかという問題を吟味してみなければならない。
・多数の著作家のあいだを当てもなく渡り歩くよりは、少数の著作家に身を委ねるほうがはるかにましなのである。
・自分が母胎に宿された、まさにその瞬間から死を定められていることを弁えているものは、その約定に従って生き、変わることのない強固な精神力をもってそれを履行するから、生じる出来事の何一つとして突発的なものはない。
・われわれは心を柔軟にし、予定したことに過度に執着しすぎないようにもしなければならず、偶然の出来事が我々を導いいた状況に順応し、静謐さの最大の敵である軽薄さが、取って代わって、われわれを支配しない限りは、計画や境遇の変化を恐れないようにしなければならない。
・四六時中精神を同じ緊張状態においてはならず、時には緊張から逸らして娯楽に向かわせるようにしなければならない。
○幸福な生について
・何よりも肝要とすべきは、羊同然に、前をいく群れに付き従い、自分の行くべき方向でなく、皆が行く方向をひたすら追い続けるような真似はしないことである。
・幸福な生徒はみずからの自然(の本性)に合致した生のことであり、その生を手に入れるには、精神が、第一に健全であり、その健全さを永続的に保持し続ける精神であること、次には勇敢で情熱的な精神であること、さらに見事なまでに忍耐強く、時々の状況に適応に、己の肉体と、肉体に関わることに気を配りながらも過度に神経質になること無く、また、生を構築するその他の事物に関心を寄せながらも、そのどれ一つをも礼讃することなく、自然の賜物を、それに隷属するのではなく、用に供する心構えでいる精神であること以外に道はない。
・われわれは自由を目指して脱出しなければならないのである。その自由を与えてくれるものは、運命の無視をお���て他にない。
・幸福な人とは、それがどのようなものであれ、現在あるもので満ち足りている人、今ある自らの所有物を愛している、自らの所有物の友である人のことなのである。幸福な人とは、理性の勧めに耳を傾け、理性の勧める、自らが関わる物事のあり方を受け入れる人の事なのである。
・賢者は富のただ中にあるときこそ、とりわけ貧窮に思いをいたすからである。