紙の本
マルカム・ラウリーの傑作
2010/04/29 13:59
7人中、7人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:K・I - この投稿者のレビュー一覧を見る
大江健三郎さんがたびたび言及することによって『火山の下』という作品の存在を知った。
そして、今年、新訳で白水社から出版された。今までは図書館で読むか古書として買うしかなかった。しかし古書の値段はとんでもないことになっていた。
一読しての感想は、「20世紀文学の金字塔」の文句に偽りなしだな、ということだ。
メキシコが舞台。イギリスの「領事」、領事の元妻、イヴォンヌ、領事の弟、ヒュー。この3人が主な登場人物である。
章ごとに「視点人物」が切り替わり、その人物の「視点」から物語が描かれる。しかし完全な一人称ではなく、三人称にその「視点人物」の一人称が組み込まれているという感じである。
1938年の11月2日、という1日を舞台に限定している。それは「解説」がいうとおり、ジョイスの『ユリシーズの』影響をうかがわせる。
「解説」によれば、あるいは、それを読まなくても『火山の下』には豊かな「間テクスト性」がある。言及される文学作品は、『神曲』『聖書』『失楽園』だけでなく、ジョセフ・コンラッド、ジャック・ロンドン、『戦争と平和』など多岐に渡る。
作者ラウリーは「領事」と同じようにアルコール依存症だったようだ。そして、生前形になった作品は、『群青』という自伝的小説と本書『火山の下』のみだったようだ。
この本は値段が若干高め(3150円)だが、それだけのお金を払って読む価値は十二分にある、と思う。この水準の文学が日本に紹介されるというのは、5年にあるかないかだろう。そして、読む人にとっては、10年、20年、いやおそらく、死ぬまで心のどこかに残り続ける作品だろう。
もう一度言う、「20世紀文学の金字塔」のオビ文に偽りなしである。
紙の本
本格的な小説だけが保ちうる芳醇な文学的香気
2010/05/15 17:09
5人中、5人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:abraxas - この投稿者のレビュー一覧を見る
読んだことはないのに、著者と題名が記憶に残っている本というものがある。どこかで目にして興味を持ったものの、手近なところに見つからないので、読まずにきてしまった本。マルカム・ラウリーの『火山の下』も、そういう本である。ずいぶん前に翻訳されてはいるのだが、絶版で古書価格が高騰し、読むに読めない状態が続いていた。それが今回白水社から新訳で出た。
小説の概要は、カバー裏にある文章が簡潔で要を得ている。「ポポカテペトルとイスタクシワトル。二つの火山を臨むメキシコ、クワウナワクの町で、元英国領事ジェフリー・ファーミンは、最愛の妻イヴォンヌに捨てられ、酒浸りの日々を送っている。一九三八年十一月の(死者の日)の朝、イヴォンヌが突然彼のもとに舞い戻ってくる。ぎこちなく再会した二人は、領事の腹違いの弟ヒューを伴って闘牛見物に出かけることに。しかし領事は心の底で妻を許すことができず、ますます酒に溺れていき、ドン・キホーテさながらに破滅へと向かって衝動的に突き進んでいく。」
章ごとに視点人物が交代するところや、長篇小説であるのにたった一日の出来事を描いたものである点、中心となる人物が二人の男性と一人の女性である点、舞台となる町を人物が移動することで物語が展開している点、ダンテの『神曲』「地獄篇」やセルバンテスの『ドン・キホーテ』ほか古典や先行するテクストに依拠した構成等々、ジョイスの『ユリシーズ』の影響下にあることは誰の目にも明らかである。
三人称限定視点で語り出されながら、会話の最中に話者の目に映る眼前の光景の描写やそこから引き起こされる連想、追想が次々と挿入され、時空を跨ぎ越えてどこまでも延々と続いていく文体は「意識の流れ」の手法をグロテスクなまでに誇張したもので、特筆すべきは、アルコール中毒患者である領事の視点で描かれる章の叙述である。視点人物が酒浸りという設定は、調べればほかにもあるのだろうが、ここまで精緻に記述された作品を他に知らない。突然の意識の断絶。さらにまた突然の覚醒。時間感覚の麻痺。幻聴や幻視のリアルな描写。中でも、壁の染みや傷跡が昆虫や芋虫に変化し蠢く様子の描写は読んでいて本当に怖くなる。評者も酒は好きな方だが、少し酒量をひかえようかと考えたくらいだ。
領事の鬱屈は、どうやら戦争中のドイツ軍捕虜の扱いをめぐる毀誉褒貶にあるらしいが、コンラッドの『ロード・ジム』の自己懲罰を真似たのか、人の行きたがらない任地を経巡った最後が国交の途絶したメキシコであった。帰国要請に従わず任地に留まった後は、異端神学やら錬金術関連の書籍を集め、本を書くと言いながら酒浸りの毎日である。屈折しているのは領事ばかりではない。弟のヒューもスペイン内戦の義勇軍に共感を抱きながら、それを余所目に兄の妻と一緒にいることに幸福感を感じている自分を内心で恥じている。
自分自身に対して自分自身が「諾」と言えない、流行りの言葉で言うなら自己肯定感を持てない兄弟の造型は、作家自身をモデルにしたものであろう。若い頃の自分をヒューに、現在の自分を領事に投影していると見ることもできる。そういう意味ではアルコール中毒患者であった作家の自伝的小説とも言える。ナチスの台頭、スペイン内戦という時代を背景に、理想を胸に抱きながら挫折してしまったインテリの自己韜晦を、異国情緒溢れるメキシコの風景の中に、酔いどれの見た夢幻劇として描いた作品と括ることができよう。
「意識の流れ」や間テクスト性といった技法、構造もさることながら、読後に感じるのは、濃厚かつ芳醇な文学性である。遠くから聞こえる祭のざわめき、突然の雷雨、谷間から吹き上がる雨上がりの爽やかな風、といった叙情味を帯びた筆触。死者の日の骸骨、尻に7という数字の焼き印のある馬、ドミノを啄む鶏を連れた老婆、という宿命を暗示させる表象の多用。領事の演じる道化ぶりが醸し出すバロックの祝祭劇にも通じるグロテスクなユーモア。渇を癒すという言葉どおり、近頃、これほどまでに小説を読む喜びを感じたことがない。表紙カバーを飾るディエゴ・リベラの絵さながらに、目眩くような読書体験が読者を待っている。
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妻と離婚し酒浸りの日々を送っていたメキシコ駐在の元英国領事の最後の一日。
正直言って一読では消化しきれなかったのだが、アル中領事のめくるめく幻覚幻聴、半分以上意味不明な言動の異様なまでの迫真性と、元妻との復縁の可能性をつかみつつも避けがたく破局へ突き進んでいく全体の勢い、これらの点だけでも読ませる作品と思う。
とりあえず「地獄の機械」のくだりはかなり笑えた。
そのほか、政治経済的な背景や、他の文学作品などからの引用等等、相当の質量をもった作品であるが、それだけに電車の往復で細切れに読むには荷が勝ちすぎた。
こういう本は、もう何年かして読み返した時に、きっと新たな発見があるパターン・・・。
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「火山の下」マルカム・カウリー
今日から「火山の下」を読み始めました。
時代&場所背景は1938年のメキシコ・クエルナバカ…変な名前の地名ですが、実在します。クエルナバカは本文中では旧名のクワウナワクになっています。ここのイギリス領事と別居中の妻…らを中心に「死者の日」と言われる(確か)11月始めの一日を細かに描いていきます…って、読み始めだから、それしかよくわからない(笑)。
20世紀って一日モノ?好きだね(笑)。
(2010 08/03)
ロードジムの後継者
「火山の下」第1章読み終わり。主人公?の領事はその昔第一次世界大戦時に捕虜のドイツ兵を船の炉にぶち込んだ…とかいう噂があって、それがロードジムになぞらえられています。こっちの主人公はあんまり良心の呵責を感じてない…と語り手(第三者)は言っていますが…どうでしょうかねぇ。酒びたりになっている理由の一つにはなっているとは思うのですが…
(2010 08/04)
「火山の下」は第2章。第1章の一年前の死者の日。領事ジェフェリーと帰ってきた(元)妻イヴォンヌ…「火山」がだんだん具体的描写で出てきます。
(2010 08/05)
それにしても、美しい。すべてをぬぐい去ってしまうような破壊的なものを秘めているが、この美しさは否定しようがない。まさに地上の楽園そのものだ。(p14)
火山のこと?
第3章では今度は領事ジェフェリーの視点で。ジェフェリーの「超自我」的なものが「」付きで句読点なしで散乱していくのをたびたび見る。無意識ではなくて超自我というのも珍しい・・・かな?
(2010 08/06)
p116の()内はイヴォンヌと別れた直後のジェフェリーの行動がわかるだけでなく、この小説の標題「火山の下」という意味、またこの小説がダンテの「神曲」の地獄篇を意識して書かれたということが、伝わってくるところ。()を閉じて、現在の会話に戻るところはなんだか長いトンネルを読者も抜けてきたような感じで、そしてうまく繋がってなかなか巧みであります。
第4章は今度はジェフェリーの腹違いの弟ヒューの視点から。メキシコはこの時代(1938年)石油国有化を宣言し、施設所有者であった英米と対立関係にあった(その後大戦が始まるとそれどころではなくなるのだが)・・・ということがヒューの話からわかる。
(2010 08/07)
この庭が好きですか?
あなたのものですね?
子供たちが荒らさないようにご注意ください! (p169)
第5章、ジェフェリーの庭の隣?の看板。この文句がなんだかだんだん強迫じみて変化し、領事の心の中にしみわたっていく。・・・でも、「庭」を地球とか社会とかいろいろに変えれば、現在の世の中にも通用しそう。
そいえば、第4章でヒューにさんざんカナダ・ブリティッシュ・コロンビアの悪口言わせているところがあったけど、この小説自体はまさしくカナダのそこで書かれたものなのなのだけれども。
(2010 08/09)
「火山の下」は第5章まで終了。酒びたりになるということは、自分の精��錯乱の様子を精密に観察できる…ということでしょうか?この領事の場合…
はい。
(2010 08/10)
侵略者が、侵略されようとしている者たちを侮辱する貶めの言葉というものは、常に置き換え可能なのだ!(p308)
スペイン人がインディオを、インディオがスペイン人を「ペラード」という侮辱語で呼ぶというところから。この内容自体は半信半疑から2/3信1/3疑くらいに感じて読んでいたのだけれど、半ば唐突に現れるこの文章(そもそも、この小説内の文章で唐突に現れない文章などあっただろうか?)、ジェフェリー達に置き換えてみると「酔っ払い」とか「落伍者」とかいうことになるのかな。ジェフェリーだけでなく、イヴォンヌ、ヒュー・・・それからラリュエルも・・・ひょっとして、読者も?
(2010 08/19)
酔っ払いの文学
えーっと、コツコツコソコソ読んでる「火山の下」ですが、今日はまた領事の視点に戻り、どうやら酔いが回ってきたようです。なんだか、今まで飲んできた酒瓶やグラスなどをかき集めてきては割る…という夢?を見てたりします。こういう途方もない酔っ払いといえば、やっぱり(酔っ払ってなかったかも?)こちらも一日を拡大表現した「ユリシーズ」。というわけで、やってなかった、やらなきゃならない?二作品比較…
列車来そうなので、結論だけ書くと、「火山の下」は酔っ払いが精神研ぎ澄まして書く文学、「ユリシーズ」は酔っ払いのフリして書く文学。ということ…かなあ。どっちもどんどんあふれてくるんだけどね。
(2010 08/23)
同じコマの繰り返し
さっきまで、「火山の下」読んでました。いよいよ470ページ、終わりも近くなってきました。第12章では領事が「なんだか繰り返しの短編映画を見ているようだ」と感じています。読者としても、雄大なる長編小説というより、短編や詩のコラージュではないか、という感じ。それに対し、夜空の円環が表現されている前章。この二つは小説内の軸としてある…でも?、領事は「地獄」を選んだ…
この小説の一番のバックボーンはダンテなんだけど、「神曲」読んでないからなあ…
(2010 08/25)
上昇と落下(「火山の下」読了)
今日一日に起こった出来事は、すべて自分がままよとつかんだ冷酷な一束の草、自分が落ちるときに一緒に崩れ落ち、いまなお頭上に降りかかってくる石のようなものだったのだ。(p476)
この小説は第1章以外は全て「一日」の拡大描写だったので、この文章は作品全体を貫く基本といってもいいかもしれない。ということは、この小説全体が「冷酷な草」であり、「振りかかってくる石」なのか?
ずいぶん厚い石だなあ・・・
と、それはともかく最後に2つの視点からみてみましょう、か。
1ジェフェリーとイヴォンヌ
第11章ではイヴォンヌが天上の天体に運ばれ、最終章ではジェフェリーが火山の頂きに着いたものの結局落下していく・・・という対照的な死の描写をしているわけなのだが、これ、じゃイヴォンヌが正しくてジェフェリーは正しくない・・・という単純なことで片付くわけではないだろう。じゃ、いったい「何」を?
2ジェフェリ���とヒュー
ヒューに関しては特にこの後どうなったとかの記述はないのだけれど、なんとなくスペインの戦線かそれともスペインに向かう船上で命を落とす・・・のではないか、と想像してしまう。上(絶対者)からみると、政治的理想に頼ろうとしているヒューも、酒場という地獄?に賭けようとしているジェフェリーも、大同小異、両者とも児戯に等しいということにでもなるのかな? 1のイヴォンヌも含めて。ま、それが「人間存在」というヤツですかい・・・
(2010 08/27)
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読んだことはないのに、著者と題名が記憶に残っている本というものがある。どこかで目にして興味を持ったものの、手近なところに見つからないので、読まずにきてしまった本。マルカム・ラウリーの『火山の下』も、そういう本である。ずいぶん前に翻訳されてはいるのだが、絶版で古書価格が高騰し、読むに読めない状態が続いていた。それが今回白水社から新訳で出た。
小説の概要は、カバー裏にある文章が簡潔で要を得ている。「ポポカテペトルとイスタクシワトル。二つの火山を臨むメキシコ、クワウナワクの町で、元英国領事ジェフリー・ファーミンは、最愛の妻イヴォンヌに捨てられ、酒浸りの日々を送っている。一九三八年十一月の(死者の日)の朝、イヴォンヌが突然彼のもとに舞い戻ってくる。ぎこちなく再会した二人は、領事の腹違いの弟ヒューを伴って闘牛見物に出かけることに。しかし領事は心の底で妻を許すことができず、ますます酒に溺れていき、ドン・キホーテさながらに破滅へと向かって衝動的に突き進んでいく。」
章ごとに視点人物が交代するところや、長篇小説であるのにたった一日の出来事を描いたものである点、中心となる人物が二人の男性と一人の女性である点、舞台となる町を人物が移動することで物語が展開している点、ダンテの『神曲』「地獄篇」やセルバンテスの『ドン・キホーテ』ほか古典や先行するテクストに依拠した構成等々、ジョイスの『ユリシーズ』の影響下にあることは誰の目にも明らかである。
三人称限定視点で語り出されながら、会話の最中に話者の目に映る眼前の光景の描写やそこから引き起こされる連想、追想が次々と挿入され、時空を跨ぎ越えてどこまでも延々と続いていく文体は「意識の流れ」の手法をグロテスクなまでに誇張したもので、特筆すべきは、アルコール中毒患者である領事の視点で描かれる章の叙述である。視点人物が酒浸りという設定は、調べればほかにもあるのだろうが、ここまで精緻に記述された作品を他に知らない。突然の意識の断絶。さらにまた突然の覚醒。時間感覚の麻痺。幻聴や幻視のリアルな描写。中でも、壁の染みや傷跡が昆虫や芋虫に変化し蠢く様子の描写は読んでいて本当に怖くなる。評者も酒は好きな方だが、少し酒量をひかえようかと考えたくらいだ。
領事の鬱屈は、どうやら戦争中のドイツ軍捕虜の扱いをめぐる毀誉褒貶にあるらしいが、コンラッドの『ロード・ジム』の自己懲罰を真似たのか、人の行きたがらない任地を経巡った最後が国交の途絶したメキシコであった。帰国要請に従わず任地に留まった後は、異端神学やら錬金術関連の書籍を集め、本を書くと言いながら酒浸りの毎日である。屈折しているのは領事ばかりではない。弟のヒューもスペイン内戦の義勇軍に共感を抱きながら、それを余所目に兄の妻と一緒にいることに幸福感を感じている自分を内心で恥じている。
自分自身に対して自分自身が「諾」と言えない、流行りの言葉で言うなら自己肯定感を持てない兄弟の造型は、作家自身をモデルにしたものであろう。若い頃の自分をヒューに、現在の自分を領事に投影していると見ることもできる。そういう意味ではアルコール中毒患者であった作家の自伝的���説とも言える。ナチスの台頭、スペイン内戦という時代を背景に、理想を胸に抱きながら挫折してしまったインテリの自己韜晦を、異国情緒溢れるメキシコの風景の中に、酔いどれの見た夢幻劇として描いた作品と括ることができよう。
「意識の流れ」や間テクスト性といった技法、構造もさることながら、読後に感じるのは、濃厚かつ芳醇な文学性である。遠くから聞こえる祭のざわめき、突然の雷雨、谷間から吹き上がる雨上がりの爽やかな風、といった叙情味を帯びた筆触。死者の日の骸骨、尻に7という数字の焼き印のある馬、ドミノを啄む鶏を連れた老婆、という宿命を暗示させる表象の多用。領事の演じる道化ぶりが醸し出すバロックの祝祭劇にも通じるグロテスクなユーモア。渇を癒すという言葉どおり、近頃、これほどまでに小説を読む喜びを感じたことがない。表紙カバーを飾るディエゴ・リベラの絵さながらに、目眩くような読書体験が読者を待っている。
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ジョン・ヒューストンが監督した映画版(邦題『火山のもとで』)をまた観たいんだけど、DVD化されてないんだな。一見フツーなのに、じつはヘベレケなアルバート・フィニーの酩酊ぶりがすさまじい。
徹頭徹尾、これは男が描いた男のための物語。こういう男たちにとって女は理想化された偶像で、永遠のマドンナだったりするので、当事者である女にはかなり厄介。目の前に本人がいるのに、彼女より彼女が送った手紙に執着する男に、いったいどう接していけばいいのやら。男は男でアルコールに逃避していて、ゆるやかに、でも確実に破滅への道を辿っているのだけれど、本人はもちろん彼女にもそれを止めることはできない。
大昔、ちょっと困った男とつきあってる友だちがいて、彼女がこんなことを云っていた。「ああいうタイプとつきあうには、こっちも野良猫みたいになるか、でなきゃ聖女さまになって見守るしかない」って。本人は聖女さまになりたかったらしいけど「んなもん無理やし」で、かといって野良猫(あ、野良犬だったかも)にもなりきれず、予想どおりふたりはほどなく破局。
そんなわけで、ジェフリーとイヴォンヌも悲劇的な最期を迎える・・・と、纏めてしまうとなんだか通俗小説のようになってしまうけれど、いや、要するに筋だけを追っていくとそうなっちゃうんだけれど、この小説のたぶん、いちばんの凄さはそういう筋を超えたところというか、はみ出した部分にあるとおもうわけです。
どこがどう凄いかは「読めばわかる」という常套手段で逃げちゃったらあまりにズルっこいので、ひとつとりあげるならば—もし、お酒を止めたくなったら読むといいですよ。きっともう二度と飲みたくなくなる。そのくらい、生理的に飲むのがキモチ悪く、そして恐くなります、とだけは云っておきましょう。
難解とか実験的とか20世紀屈指の傑作とかいわれている作品ですが、おそらく原書だと英語とスペイン語がチャンポンでもっとわかりづらく、だからこそ主人公の意識混濁ぶりが迫りくるようにのしかかってきたとおもわれます。翻訳版はうまくルビをふってあるので、「何回読んでもワカランくらい難解」なことはありません。
ただ、読んでいてひさしぶりに疲れました。サイバーパンクが登場する以前から、感情を侵蝕されるような読書体験は、すでにハッキングというか、クラッキングだったような気がします。なので、テンションが落ちてるときには読まないほうがいいし、テンション高めでも“聖女”のごとき寛容をもって読み進めるがよろし。
例によってまた書きすぎてしまいましたが、この作品を生涯読み続けているという作家のことばを紹介して、駄文を強引に結ぶことにします。
おそらく、これまでに私が読み返した回数のいちばん多い小説。もう読みたくないが、無理だろう。その隠された魔力がどこにあるのか発見できるまでは、気分が落ち着かないから。—ガルシア=マルケス
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ダラダラ読むにいいです、こういうのたった1日の話を何日もかけて読む、このシュールさがいいです~
どんどんどんどん、脱線するする
あんまり真面目に生きている気がしない人たちばかりが
ぞろぞろ出てきてテキーラ飲んで・・・
メキシコっていうと、長らく「ショーシャンクの空に」のラスト、ジワタネホの天国的イメージをずっと持っていたんですが、コーマック・マッカーシーの国境三部作で覆され。さらにまた変わりました・・・
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[ 内容 ]
ポポカテペトルとイスタクシワトル。
二つの火山を臨むメキシコ、クワウナワクの町で、元英国領事ジェフリー・ファーミンは、最愛の妻イヴォンヌに捨てられ、酒浸りの日々を送っている。
一九三八年十一月の「死者の日」の朝、イヴォンヌが突然彼のもとに舞い戻ってくる。
ぎこちなく再会した二人は、領事の腹違いの弟ヒューを伴って闘牛見物に出かけることに。
しかし領事は心の底で妻を許すことができず、ますます酒に溺れていき、ドン・キホーテさながらに、破滅へと向かって衝動的に突き進んでいく。
ガルシア=マルケス、大江健三郎ら世界の作家たちが愛読する二十世紀文学の傑作、待望の新訳。
[ 目次 ]
[ 問題提起 ]
[ 結論 ]
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二つの火山に臨むメキシコの町、クアウナワク。愛妻と離婚した元英国領事ジェフリー(小説中での呼び名は主に「領事」)は、この町で酒浸りの日々を送っている。一九三八年の「死者の日」に妻イヴォンヌが彼の元に戻ってくる。彼女を愛すると当時に憎んでもいる領事は、素直に和解できない。憎しみの理由のひとつには、少年時代からの友人であるフランス人・ラリュエルと妻がかつて関係したこともあるようだ。詩人肌の領事が酒に溺れるようになった背景には、現役領事時代にドイツ人将校焼殺に関わった過去もあるらしい。だがアルコール依存症による記憶障害や譫妄のせいで、彼を取り巻く人や事物の関係性は酩酊の霧に霞んで見えにくい。妻との絆が戻ったかに思えた矢先、闘牛見物に出かけた先で領事は突如姿をくらまし、自ら望む「地獄」の運命へと突き進む。
冒頭のラリュエルによる回想の章を除けば全ては一九三八年の「死者の日」の話。しかし領事、イヴォンヌ、領事の腹違いの弟ヒューの視点による追憶や独白が重なり合い、熱を帯びて凝縮された、各人の一生分とも言えるような一日だ。終盤、尻に数字の「七」の烙印を押された馬が幾度も現れる。七とはイヴォンヌが領事を捨てた回数でもあるが、ユダヤ教の密儀カバラにおいては「勝利」を意味する数字だ。この馬が領事とイヴォンヌの元に運んでくる運命は、果たして勝利と呼べるものか、どうか。領事がカバラに傾倒していることは物語の随所に読み取れる。登場人物たちの営みを俯瞰して聳える二つの火山は、二つの三角形を組み合わせて作る六芒星(ダビデの星)の象徴だろう。三角形の上向きの頂点はイヴォンヌの運命を、下向きの頂点は領事の運命を指し示す。相反する方向に引き裂かれたかに見える二人が実は一体であるという設定は、二人が抱く理想の「家」のビジョンが、互いにそうと知らぬまま一致している点にも見い出される。個々の人生としては破滅であり不幸に見えても、男女の有り様の原理には適った二人だったのだ。
自身もアルコール依存症だった作者の自伝的要素を含むというが、「もう十分も酒を飲んでいない」など、酒に限らず何かに依存する癖のある者には思わず苦笑いの洩れる描写も。人間の悲しみとおかしみがぐるぐる「回る」が、不思議と悪酔いはしない本である。
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「本の雑誌 2010.7月号」
[関連リンク]
boooook - 「火山の下」 マルカム・ラウリー 白水社 読了。: http://boooook.tumblr.com/post/745622971
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メキシコで領事官をやってる旦那の元に1年ぶりに出奔した妻がもどってくる。「せっかくあなたの元に戻ってきたんたから」「酒ばかりのんでないで」
ならねえ。「はいそうですか、良かったです。めでたいですね、仲良くします」とはならねえ。ならねえんだ!むしろなったら気味悪いだろ、心死んでるだろ。なのに何故周りは「うまくおさまったわね」モードで収めようとするのか。そうだよ、そこを酒にぶつけてないで、奥さん張り倒さなきゃ。
もうね、暑いからね、感想はこんな感じでやりこすわ。
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三人称多視点で皆が呑んだくれているから意識や記憶、風景描写さえ信じられなくなる。話し半分に読み進めるとわからないのにやめられない。お勧めはしないがまた読みたい。