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走る小説家、村上春樹が語る、走ることについて。
…春樹の本を単行本で買うのって、久しぶりだなぁとしみじみ思う。
昔、軽くストーキングされたことがあって、そのストーカーが、村上春樹そっくりで、しかも村上春樹の文体を真似た小説を書いてた。
春樹には責任は全くないけど、やっぱり、嫌な記憶が戻ってくるのよね。
ってことで、しばらく遠ざかっていた村上春樹。
でも、小説とか、普通に読めるようになってきたし、今回は走ることについての話だから、勇気を出して買ったよww
写真見ると「やっぱ、似てるというか、同じベクトル上の顔だよな」とうげげと思うんだが、だからといってどうってことないので、ようやくトラウマが癒えたのかもしれない。
長かったよ…(涙)
と、内容と関係ない話をしてるけど…。
ま、いかに村上春樹は走る小説家になり、どうしてフルマラソンやらトライアスロンやってるのかといえば、結局小説書くためなんだよ、っていう話。
春樹のこういう姿勢って、ある意味励みになると思う。
つまり、毎日こつこつ積み上げていくと、それが結果を生むという。たとえ、結果を生まなかったとしても、積み上げていった過程で何か得るものがあるはずだと。
簡単そうで、とっても難しいシンプルな法則。
春樹は、それにのっとって、走り続けているわけだ。
私も昔、走ってた時がある。
学生時代、長距離が苦手と思ってたが、やりはじめると、一人で黙々とやれるジョギングはとても性にあっていた。うん、学校のように強制されて、その上集中できない状況で走るのが、単に苦痛だったんだな。
走ってると、物事を色々集中して考えることができるので、頭が冴えてくる感じがした。
多分、これが集中力をもたらす体力というやつだったんだろう。
…また、走ってみようかなと思う今日この頃。
こういう気分にさせてくれる、珠玉のエッセイですww
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文中で語っているように、村上は、思考の力で人々のあらゆる生態や大宇宙を構成してみせるような作家ではない。息づかいや手触りでわかる確かなものだけを、丁寧に鋭利に形作る作家だと思う。
「遠い太鼓」と同じく、こういう風に自分も生きて、老いてみたい、と共感できる本。
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読みながら何度も、小説を読んでいるような錯覚に陥った。
職業的小説家。走り続ける「僕」の物語。
特に印象に残ったのは、「誰かに故のない非難を受けたときは、いつもより少しだけ長い距離を走ることにしている」というくだり。そして、不健全な魂もまた健全な肉体を要する、というテーゼ。
だって、こんな平凡な日常にも、毒素はたくさん散らばっていて。ただ生きているだけで消費されることは確かにあって。そのバランスをとる方法として、身体を強化するということは、確かにまったく有効だと思うのだ。
哲学があって、経験則があって、小説的エッセンスと、素晴らしい文章がある。村上春樹ファン以外にもお勧めしたい秀作。
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読み終わったとき、いや読み始めてから、すぐに走りたくなる本。走るのは道を、そして人生の両方を。世界各国で有名な著者なので、多くを語るよりは読んだらいい。おしゃれな文章、比喩、人生論、みんなが思っている村上春樹が詰まってます。最後の結びは鳥肌がたち、ぐっと感情をゆさぶられた。だから、最後はみずに読んで欲しいな。やれやれ
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自分もランナーのはしくれである。その走っているときの気持ちを表現することはむづかしい。「走る」という事がもたらすもの、気分、快感を素人には表現出来ない事を独特の文体で表現。走ることを用いて、小説を書くこと、人生を語っている。エッセーというより自分史に近いのかな。オリンピック級のランナーの書いたもの、コーチが書いたものなどあるが、表現では一級だと思う。ちょっとランナー文学を深堀りしてみたい。
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村上春樹さんの語る、走ることと書くことはつながっている、ということの意味がよく分かった。自分も村上さんと同じ年齢から走り始めたことが嬉しい発見であり、同じく一生ランナーであり続けたいと思えた1冊であった。
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誰かに故のない(と少なくとも僕には思える)非難を受けたとき、あるいは当然受け入れてもらえると期待していた誰かに受け入れてもらえなかったようなとき、僕はいつもより少しだけ長い距離を走ることにしている。いつもより長い距離を走ることによって、そのぶん自分を肉体的に消耗させる。そして自分が能力に限りのある、弱い人間だということをあらためて認識する。いちばん底の部分でフィジカルを認識する。そしていつもより長い距離を走ったぶん、結果的には自分の肉体を、ほんのわずかではあるけれど強化したことになる。腹が立ったらそのぶん自分にあたればいい。悔しい思いをしたらそのぶん自分を磨けばいい。そう考えて生きてきた。
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2010/6/26購入
p123
世間にはときどき、日々走っている人に向かって「そこまでして長生きをしたいかね」と嘲笑的に言う人がいる。でも思うのだけれど、長生きをしたいと思って走っている人は、実際にはそれほどいないのではないか。むしろ「たとえ長く生きなくてもいいから、少なくとも生きているうちは十全な人生を送りたい」と思って走っている人の方が、数としてはずっと多いのではないかという気がする。同じ十年でも、ぼんやりと生きる十年よりは、しっかりと目的を持って、生き生きと生きる十年の方が当然のことながら遥かに好ましいし、走ることは確実にそれを助けてくれると僕は考えている。与えられた個々人の限界の中で、少しでも有効に自分を燃焼させていくこと、それがランニングというものの本質だし、それはまた生きることの(そして僕にとってはまた書くことの)メタファーでもあるのだ。このような意見には、おそらく多くのランナーが賛同してくれるはずだ。
p143
それに比べると僕は、自慢するわけではないけれど、負けることにはかなり慣れている。世の中には僕の手に余るものごとが山ほどあり、どうやっても勝てない相手が山ほどいる。
p144
彼女たちには彼女たちに相応しいペースがあり、時間性がある。僕には僕には僕に相応しいペースがあり、時間性がある。それらはまったく異なった成立ちのものだし、異なっていて当たり前である。
p147
小説を書くのが不健康な作業であるという主張には、異本的に賛成したい。われわれが小説を書こうとするとき、つまり文章を用いて物語を立ち上げようとするときには、人間存在の根本にある毒素のようなものが、否応なく抽出されて表に出てくる。作家は多かれ少なかれその毒素と正面から向かい合い、危険を承知で手際よく処理していかなくてはならない。そのような毒素の介在なしには、真の意味での創造行為をおこなうことはできないからだ。
p148
しかし僕は思うのだが、息長く職業的に小説を書き続けていこうと望むのなら、我々はそのような危険な体内の毒素に対抗できる、自前の免疫システムを作り上げなくてはならない。
p150
僕の考える文学とは、もっと自発的で、求心的なものだ。そこには自然な前向きの活力がなくてはならない。僕にとって小説を書くのは、峻険な山に挑み、岩壁をよじのぼり、長く激しい格闘の末に頂上にたどり着く作業だ。自分に勝つか、あるいは負けるか、そのどちらしかない。
p152
妙な話だけれど、人前で話すということに限っていえば、日本語でやるよりは(いまだにかなり不自由な)英語でやる方がむしろ気楽なのだ。それはたぶん、日本語で何かまとまったことを話そうとすると、自分が言葉の海に呑み込まれてしまったような感覚に襲われるからだろう。そこには無限の選択肢があり、無限の可能性がある。僕は文筆家としてあまりにもぴったりと日本語に密着してしまっている。だから日本語で不特定多数の人々に向かって話をしようとすると、その豊穣な言葉の海の中で戸惑い、フラストレーションが高まる。
p164
「僕は人間ではない。一��の純粋な機械だ。機械だから、何を感じる必要もない。前に進むだけだ」
p171
生きることと同じだ。終わりがあるから存在に意味があるのではない。存在というものの意味を便宜的に際だたせるために、あるいはその有限性の遠回しな比喩として、どこかの地点にとりあえずの終わりが設定されているだけなんだ、そういう気がした。
p180
前にも書いたが、職業的にものを書く人間の多くがおそらくそうであるように、僕は書きながらものを考える。考えたことを文章にするのではなく、文章を作りながらものを考える。書くという作業を通して思考を形成していく。書き直すことによって、思索を深めていく。しかしどれだけ文章を連ねても結論が出ない、どれだけ書き直しても目的地に到達できない、ということはもちろんある。
p182
なにしろ時間は、時間というものが発生したときから(いったいいつなのだろう?)、いっときも休むことなく前に進み続けてきたのだから。そして若死をまぬがれた人間には、その特典として確実に老いていくというありがたい権利が与えられる。肉体の減衰という栄誉が待っている。その事実を受容し、それに慣れなくてはならない。
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日頃からすてきな写真を撮るひとたちに、かるい嫉妬心を抱いている。プロフェッショナルであるとかアマチュアであるとかは関係ない。
コピーライターになってまだ間もない頃、たぶんAPAの広告写真展だったと思うのだけれど、その告知ポスターのコピーが『写真はコピーより速く走る。』だった。「やられた」と思った。
村上春樹が筋金入りのランナーで、フルマラソンやトライアスロンの大会に何度も出ているのは知っていた。
この本には実際に走っているところや走ったあとの表情をとらえた写真が何葉か掲載されている。あまりプライベートな写真を撮らせないひとだから、珍しいことだ。この写真をみただけで、どんなランナーなのか察しがつく。村上春樹ほどの作家がどれだけ言葉を重ねるよりも速く、率直に。またしても「してやられた」と思った。
そこで鈍足ランナーは考える。速く走るだけがすべてではない、と。なにかを伝えるには、いろいろな方法、いろいろな時間感覚、いろいろな世界観があっていい。ゆっくりとしみこむように伝わるやりかたがあっていいはずだ、と。文章を綴るときの、ある種独特のまどろっこしさは写真では伝えられない。それでいいのだ(・・・と思いたい)。
ゆっくり走るランナーは、季節のうつろいをゆったりと楽しみながら走れるだろう。そう、負け犬が吠える声は、遠くまで届くのだ。
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村上さんがランニングをしているのは知っていたが、それは“趣味”の範疇を超えた本格的なものだった。毎日10キロ程度の走り込み、最低年1回フルマラソンに出場、最近はトライアスロンにも出場しており、スイムとバイクの練習も。退屈、きつい、めんどくさい、などと思われがちなランニング。精神的、肉体的に激しい苦痛をともなうマラソン。だが、心臓がパンクしそうになる、頭の中が真っ白になる、脚の感覚がなくなる、とった体験(体感)をすることでしか得られないものがある。そしてそれが、仕事を始めとする人生に、好影響を与えているというたしかな感覚もあるという。仕事とは?生きるとは?ランニング論から1歩も2歩も踏み出した“走る理由”を、かなり深くまで掘り下げて語っている。共感。
「僕は走りながら、ただ走っている。僕は原則的には空白の中を走っている。逆の言い方をすれば、空白を獲得するために走っている、ということかもしれない。そのような空白の中にも、その時々の考えが自然に潜り込んでくる。当然のことだ。人間の心の中には真の空白など存在し得ないのだから。人間の精神は真空を抱え込めるほど強くないし、また一貫してもいない。とはいえ、走っている僕の精神の中に入り込んでくるそのような考え(想念)は、あくまで空白の従属物に過ぎない。それは内容ではなく、空白性を軸として成り立っている考えなのだ」
そして、この空白を獲得するランニングが与える好影響を具体的にあげて説明する。
「僕自身について語るなら、僕は小説を書くことについての多くを、道路を毎朝走ることから学んできた。自然に、フィジカルに、そして実務的に。どの程度、どこまで自分を厳しく追い込んでいけばいいのか?どれくらいの休養が正当であって、どこからが休みすぎになるのか?どこまでが妥当な一貫性であって、どこからが偏狭さになるのか?どれくらい外部の風景を意識しなくてはならず、どれくらい内部に深く集中すればいいのか?どれくらい自分の能力を確信し、どれくらい自分を疑えばいいのか?もし僕が小説家となったとき、思い立って長距離を走り始めなかったとしたら、僕の書いている作品は、今あるものとは少なからず違ったものになっていたのではないかという気がする。具体的にどんな風に違っていたか?そこまではわからない。でも何かが大きく異なっていたはずだ」
また、「長生きするために走るんでしょ」といった世間(?)の嘲笑的な意見を否定し、生き方とランニングのつながりをつづる。
「むしろ『たとえ長く生きなくてもいいから、少なくとも生きているうちは十全な人生を送りたい』と思って走っている人の方が、数としてはずっと多いのではないかという気がする。同じ十年でも、ぼんやりと生きる十年よりは、しっかりと目的を持って、生き生きと生きる十年の方が当然のことながら遥かに好ましいし、走ることは確実にそれを助けてくれると僕は考えている。与えられた個々人の限界の中で、少しでも有効に自分を燃焼させていくこと、それがランニングというものの本質だし、それはまた生きることの(そして僕にとってはまた書くことの)メ���ファーでもあるのだ」
僕も毎日起床後、8キロの決まったコースを走っている。なんで?変人?ストイック?などと様々な意見を言われるが、僕は決まって「けっこう良いですよ」と答える。著者と同様(といってはおこがましいが)、苦痛よりも得るものの方が多い実感がある。昨日に貯めた余計な脂肪や水分(大半がアルコールですが)、ストレスを取り去り、肉体には一日の始まりを叩いて教え込む。着替え始めてから走り終えてシャワーを浴びるまで約1時間半。これだけの時間で、まったく違う自分になった気にさせてくれる。セミの脱皮のような感覚。新たな、身軽な自分に変身すると、自然に『その日一日を目一杯飛び回ろう』という気がわいてくるから不思議だ。単純と思われるかもしれないが、やはり「けっこう良い」と思えてしまう。
瞬発力系のスポーツと違って、特別な才能はいらない。誰にでもでき、やればやるだけ結果として現れる(もちろん、著者が直面しているように年齢の壁はあるが)。華やかさはなく、とことん地味でもある。だが「問われているのは自分」の要素が大きく、そんなところが人生に似ていると強く思う。
本書の締めくくりで著者は、墓碑銘に刻んでほしいという言葉を記している。
「村上春樹
作家(そしてランナー)
1949-20※※
少なくとも最後まで歩かなかった」
素敵。
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走ることは長編小説を書くことと似ている―これまでのエッセイでもたびたび言及していた「走る」ことについて書かれた一冊。
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文庫化で再読。
初めて読んだ時は面白さがわからなかった。
長距離を走ることが、とても苦手だったから。
自分自身もジョギングをするようになったいま読み返したら
村上さんが走ることに必然性を感じるようになった。
脳や心の疲弊は身体を動かすことで回復することが実感できたから。
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少し前に、京極夏彦が「家庭を顧みず、酒を飲み、〆切を守らず、窓から逃げてみたいな無頼作家はもういない」というようなことをラジオで言っていました。そういうことを改めて言われなければならないほど、「作家=不健康かつ退廃的」という印象は強いんでしょうね。私は、作家は昼夜逆転していると思いこんでいるので、朝涼しいうちに仕事をするなんて言われるとびっくりしてしまいます。
この本によると、村上春樹は1日に10kmくらい走るのだそうです。長距離ランナーであることと作家であることの関連について、あの独特の文体で考察されていて、引き込まれるように読みました。
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終始(読んでいる間)、走りたくて仕方がなかった。
村上春樹のエッセイは初めて読んだけど非常に面白く参考になった。時間をあけて再読したいと思います。
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村上春樹の小説は好きじゃないけど、エッセイはすごくいいと思う。
走ることに興味があるのもあってよんだけど、いろんな意味で面白かった。