紙の本
アメリカの神経科学の第一人者が、デカルトの心身二元論を批判し、心と脳と体の不可分な関係性を証明した一冊です!
2020/04/22 09:12
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投稿者:ちこ - この投稿者のレビュー一覧を見る
本書は、アメリカの神経科学の第一人者であるアントニオ・ダマシオ氏によって著された世界でベストセラーにもなった一冊です。著者は同書において、社会の様々なところに浸透している、かの有名なデカルトの心身二元論を厳しく批判し、同時に心と脳、身体が密接に関係していることを、彼自身が対応してきた様々な患者の症例から主張しています。同書は、日常生活のあらゆる場面で求められる合理的な意思決定には、その時の身体状態と不可分に結びついている情動と感情の作用が不可欠であることを明らかにした画期的な一冊です。
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最初は、脳に損傷を受けた人物の症例を紹介することから始まるが、しばらくすると、がぜん難しくなる。
神経科学上の専門用語や、それに近いところで思考がどんどん進んでいく。一般向けの書物にしては難しいが、簡単なことしか言わない本に比べれば信用できるし、興味深い。
前に読んだジョゼフ・ルドゥー「シナプスが人格をつくる」(みすず書房)などよりもずっと深い本だった。
・・・しかしこのタイトルだと哲学書と間違われそう。。。
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デカルトの「我思う、ゆえに我あり」に対し、脳科学の立場から異議を申し立てている。テンプル・グランディン著『動物感覚 アニマル・マインドを読み解く』で紹介されていた一冊。
http://d.hatena.ne.jp/sessendo/20110306/p11
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原書名:Descarte's error(Damasio, Antonio R)
ヴァーモントでの不幸な出来事◆明らかになったゲージの脳◆現代のフィアネス・ゲージ◆冷めた心に◆説明を組み立てる◆生体調節と生存◆情動と感情◆ソマティック・マーカー仮説◆ソマティック・マーカー仮説を検証する◆身体志向の脳◆理性のための情感◆補遺
著者:アントニオ・R.ダマシオ
訳者:田中三彦(1943-)
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[ 内容 ]
1848年、米北東部の鉄道施設現場で事故が起き、鉄棒が現場監督P・ゲージの前頭部を貫通した。
それを境にゲージの性格と行動は一変した。
著者自身が携わってきた症例やゲージのような歴史的症例をもとに、著者は、日常生活の折々の場面で求められる合理的な意思決定には、そのときの身体状態と不可分に結びついている情動と感情の作用が不可欠であることを明らかにした(「ソマティック・マーカー仮説」)。
神経科学の第一人者が、いまもさまざまな形で社会に浸透しているデカルト的心身二元論を強く批判しつつ、有機体としての心‐脳‐身体の関係を解くベストセラー。
新訳文庫版。
[ 目次 ]
ヴァーモントでの不幸な出来事
明らかになったゲージの脳
現代のフィアネス・ゲージ
冷めた心に
説明を組み立てる
生体調節と生存
情動と感情
ソマティック・マーカー仮説
ソマティック・マーカー仮説を検証する
身体志向の脳
理性のための情感
補遺
[ 問題提起 ]
[ 結論 ]
[ コメント ]
[ 読了した日 ]
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情動(emotion)と理性(reason)との関係を様々な脳障害患者の臨床実験をもとに解き明かす。表題の意味は、デカルトの心身二元論は誤りで大きな誤解を広めてしまった。心と身体は対になって存在する分離できないものである、ということである。
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第1部 第1章 ヴァーモントでの不思議な出来事
第2章 明らかになったゲージの脳
第3章 現代のフィネアス・ゲージ
第4章 冷めた心に
第2部 第5章 説明を組み立てる
第6章 生体調節と生存
第7章 情動と感情
第8章 ソマティック・マーカー仮説
第3部 第9章 ソマティック・マーカー仮説を検証する
第10章 身体志向の脳
第11章 理性のための情感(パッション)
補遺
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身体感覚と情動・感情が分かちがたく結びついている,という「ソマティック・マーカー」仮説を解説した書。
体と心の二元論は西洋由来だから,西洋人には新しく思えるのかもしれないなあ。日本人は体と心がもともと調和していると思っているので,一般人にはあまり違和感はないのだが,西洋思想にどっぷり浸かっている「知識人」には辛いのかも。
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前頭前皮質に重傷を負い、計画性や責任感といった、将来の生存を構築する能力の太宗を失ったP・ゲージの症例はあまりに有名でそこかしこで目にすることが多いが、どうやらこの本が初出らしい。この稀有な運命を背負った男の行動を考察することから、人間の情動の在処と存在理由を導くA・ダマシオの「ソマティック・マーカー仮説」が導出された。本書はこの仮説を一般向けに概説したもの。戸山田和久「恐怖の哲学」における議論の大きな柱となっており、興味を持ち購入。初出は1994年とあるから半ば古典と言ってもいいのかも。議論もフォーカスが絞られており、やや繰り返しがまどろっこしいがその分わかりやすい。
人間の脳というシステムの各領域がそれぞれ受け持つサブシステムは、互いに連携しつつ、身体との間で生化学的・神経科学的な信号のやり取りを行う不可分一体的なネットワークを形成し、人間の推論と意思決定において重要なプロセスを遂行している。この時、外部環境の変化を反映した「身体→脳」反応は、反射的な「脳→身体」反応だけでなく、脳の各サブシステムの間で内的な反応を引き起こす。これこそが情動の正体ではないか、というのがこの仮説の一つの柱だ。この内的な反応が経由する「中間構造」では、刻々とイメージが構築され、解釈を経て分類され、将来予測とそれに対応した行動を促している。これがまさに推論であり意思決定の実質、つまり「心」ではないかと説く。
具体的には、脳の初期感覚皮質において、意識的/無意識的かを問わず、新たな環境からの信号を後天的に獲得された過去の神経発火パターンと照合し、新たな「地形図的な表象」が生み出されている。この時の新規の経験と過去の神経発火パターンの牽連性が「傾性」であり、脳の皮質部位と皮質下核に保存されている傾性を持った神経発火パターン(=傾性的表象)が都度呼び出されて地形図的な表象と照合され、構造的な類似性が検討される(収束)。
このように、ダイナミックなネットワークを「心」の座だとする立場から、著者はデネットが「デカルト劇場」と呼ぶ外部イメージが投射される単一の領域の存在を否定しており、本書の題名はもちろんここからきている。
本書のもう一つの柱は、上記のシステムが請け負う生体調節機能の重要な側面である「情動」と「感情」について。扁桃体と前帯状皮質により原初的・生得的にプリセットされた情動(一次情動:前もって構成された情動)を基に、上述の後天的な傾性的表象が構成され、これが身体−脳のフィードバック/フィードフォアードシステムを通じて、情動的な身体状況の知覚と心の変化を引き起こす(二次情動)。この二次情動を、特定の思考を進行させつつこれと並行する形でモニタリングすることが「感情」だという。著者はqualifier(制限子)という言葉を用いているが、主体は情動的な身体イメージを知覚することによって自らの思考をいわば副詞的に修飾して経験に「質」を与えている。一方、情動に由来しない感情(背景的感情)もあり、これは一般的な身体に関する安定したイメージ、自己が同一状態を生きているというアイデンティティに関わる印象を構成しているという。また、上記の身体を介した情動的イメージを駆動させずに、脳だけであたかも自分がある情動状態を有しているかのような感じをもたらす神経装置も存在するという(「あたかも」ループ)。
これら二本の柱を基に、いよいよ主題となる「ソマティック・マーカー仮説」の概説が展開される。過去と将来をつなぐ創造のプロセスとしての「推論」と「決断」が、空腹への対処や落下物からの逃避のような自動的かつ迅速に行われる反応選択とあまりに異なるため、デカルトはこの創造的プロセスを人間の魂の特質として身体の外に置いた。著者がこれと明確に異なる立場を明らかにしたのが「ソマティック・マーカー仮説」だ。それによると我々の脳は、いつも「理性」に基づく形式論理学を基に費用便益分析を行なっているわけではなく、もっと迅速に創造的プロセスを実現できている。我々は解決すべき問題を前にして特定のオプションを想起したとき、ある不快な直感的感情を経験する。これが「ソマティック・マーカー」であり、自動化された危険信号として主体に注意を喚起し選択の幅を限定することで決断の正確さと効率を増しているというのだ。ソマティック・マーカーは「これまでどのような状況下でどのような身体状況と感情が生み出されたか」という傾性的表象による内的システムの学習を基に、経験によって後天的に獲得される。
ソマティック・マーカーの作用獲得の場は前頭前皮質とされている。ここにあらゆる感覚領域からの外部信号が集められるとともに、脳内生体調節部位(扁桃体、前帯状皮質、視床下部など)からの神経伝達化学物質が届けられることで、前頭前皮質は外界に関する知識と生得的な好みの対応表、すなわち傾性的表象のリストを確立していく。このとき「あたかもループ」で身体がバイパスされ、外部信号が「象徴」に置き換わり経済的な自動機構が発達していった。これにより、高度な脳システムを持つ有機体では感情抜きの決断や推論もなされうる。しかし一方で、我々がハチなどの単純な脳を持つ動物と同じ自動装置を使用していることも事実だという。直感が選択の幅を狭め、アナロジーが新たな発見の契機となることの説明にもなっている。本書でも言及があるが、ダニエル・カーネマンの「システム2」をもちろん想起させる。
このソマティック・マーカーは、我々が保持しているそれまでに経験した多様な行動と結果の組み合わせと照合され、評価される。この多様性を保持するには、皮質下核において適切な身体イメージのみにフォーカスする「注意」と、個々のイメージを一時的に保持する「ワーキング・メモリ」が必要だとされるが、この際に駆動装置となるのがその生体にとっての「基本的な価値」すなわち生体調節に固有の一連の「好み」だという。
前頭前皮質に損傷を持つ患者は、身体/あたかもループによる身体状態信号の誘発と、それによるソマティックマーカーの検出ができなくなり、適切な将来の展望とそれに沿った意思決定もできない。自分と他者の「心についての理論(理論−理論)」の獲得も困難となる。本書ではこのことがいくつかの有名な実験結果とともに示されている。
このように著者は、プラトン、デカルト、カントらのいう理性の情動に対する優位という考えを退け、情動による合理性のコントロールというヒュームに近い立場をとっている。また、自己すなわち「主観」とはホムンクルスやデカルト劇場で表現されるような単一の脳機能に還元できる概念ではなく、脳と身体の複合体により傾性的表象(過去の記憶)と基本的価値(望ましい未来の計画)が常に生み出されて互いに参照されるという、刻々と変化する動的なシステムを、自己がメタ的に表象することによってのみ表現されうるという立場をとる(「可能な未来の記憶」)。この辺り、器質そのものではなく、外界からのシグナルをカテゴリー化し志向性を獲得する動的な無限フィードバックシステムこそが意識を形作るのだというダニエル・ホフスタッターの意識論と通ずるものがあって興味深い。また、このようなシステムがどのようにして生じ進化したかの説明は、生物哲学者ゴドフリー・スミスの提唱する「主観的経験」の発生メカニズムとほとんど重なっている。
以下は本筋から離れたところでの個人的な印象。本書で用いられている概念、例えば上述の「傾性的表象」と「収束」など、抽象的で脳神経学にやや似つかわしくないものが多用されているように思えた。他にもプロセスが現象的に説明されているとはとても言い難い概念は多く、本書の段階では著者のシステム還元的な試みは「まだ」成功していないように思える。著者も「特定の化学物質が特定の感情を引き起こしているということを知ることと、こうした結果をもたらすメカニズムを知ることは同じではない」としている。つまり、システムには科学に還元されない部分があることを認めていることになる。ただ、現実、特に脳損傷患者の病理を基に脳と身体の相互作用を説明するモデルとしてはかなりの説得力はありさすがと思わせる。
また、この身体を入り口とする環境情報をもとに地形図的な表象が組み替えられるという、「身体−心」の不可分性、すなわち「心の身体化」は、進化的に古い脳を持つ生物でも同様のプロセスで生じていると考えられることから、意志決定の主体が身体化された心の外にあるのではなく、神経回路で無意識的に(メタ自己によって)行われているのだという著者の見解も一筋縄ではいかないものだ。なぜなら、これは著者が否定する「デカルト的に身体−脳から分離された主体」なるものを、表現を変えて記述し直しただけのようにも取れるからだ。つまり著者が「心」と呼んでいる概念は、デカルトがそう呼んだものとは別の何かを指しているのでは?仮にデカルトに神経回路に関する知識があったら、それを「心」と呼んだかもしれない。また、デカルト的心身二元論は無限後退を引き起こすから認められないと著者はいうが、メタ自己も無限後退に陥る危険性を持つことは自明だろう。
もう一つ印象深かったのは、所々で「愛や芸術を身体と脳のシステムに基づいて説明することはこれらの概念を貶めることではない」とか、「社会的現象を生物学的に還元することではなく、両者の関連性を論ずることが目的」などの言説が繰り返し現れること。これらは、人文的な概念の還元的な説明が我々一般読者の反感を受けやすいことを前提とした上でのものと取れる。物理的・機械的に還元可能な存在であるとの自己理解を用いたのでは、重要な何かがチャレンジを���けしまうというのが我々のgut feelingであるようだ。なぜだろう。我々は機械以上の何者かである、と考えることによって、一体何が保護されているのだろうか。不思議だ。
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感情と理性の複雑さと本質について。
特に視覚の神経構造の複雑さについては、単純に「見る」ことが複雑な仕組みの上で成り立ち、またその先で認知と感情が成り立っているのかよく理解できる。
これだけ複雑に絡みあった「感情」を単純に苦や不快で捉えて「社会的な原因」を見つけてしまうあたりは怖さすら感じる。
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デカルトの解釈に自分の解釈とずれがあって、その違和感がどうしても拭えなかった、自分の解釈が誤っているんでしょうけど。
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我々の情動や感情は、身体の状態と不可分である。自己という生物学的状態が生じるには、多数の脳システムと多数の身体システムが全面的に機能している必要がある。脳と身体は切っても切れない関係にある。この点における本書の主張は、人間の本質は意識にあるとするデカルト的な心身二元論とは対立し、「デカルトの誤り」という象徴的な著書名に表明されている。また本書は、心は脳の仕組みを解明するこで完全に理解できると考えている神経科学者に対してもデカルト的誤りの可能性を指摘する。なるほど、と深くうなずく。
本書の主張を日常生活の場面へ引き合いに出せば、あまり肩肘張らずに日々を送ることができるかもしれない。例えばネガティブな思考に陥っているときに身体の状態を振り返ってみると、空腹、睡眠不足、適切でない室温・・・、実は身体の状態がネガティブな信号を脳に送信しているのかもしれない。自分自身を客観的な視点で捉える一助となる考えを提示してくれる貴重な一冊。
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武器としての哲学の推薦本である。ビジネスパーソン向けの推薦本としてこのような硬い本を選んだが、実際に忙しいビジネスの合間に読める人がいるかどうかが不明である。それよりも時間がある大学生が読めると思う。
デカルトの誤りとして、身体と精神の2元論ではない、ということが最後に出てくる。
いまから30年ほど前の本であるが、読む価値はあると思われる。
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アントニオ・R・ダマシオ「デカルトの誤り」読了。情動的な身体反応が意思決定に重要な役割を果たすソマティックマーカー仮説は目から鱗だった。脳と身体を別で考える事が思い込みである事に気付かされた。デカルトの我思う故に我ありに根ざしている事も。進化の観点から細胞の反射から派生した脳神経が体と分離しているとは確かに考えにくいな。