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人間に心=意識があるのは、エピソード記憶のため。膨大な情報に色づけし、連続的・選択的に思い出すため。知・情・意や記憶と学習は、子びとたちが全て自動的にやってくれ、意識はその結果を受け取るだけ。
記憶する自己と経験する自己、人間にとっては経験する自己の方が大切だというのも、納得できます。
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心は受動的というのは新しい発見だった。
ただ、それは自分にとって知りたいことでみなかったので、熱心には読めなかった。
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意識は受動的なものである。
とはいえ意志は能動的である。
クオリアに人の差は無い。
単なる仕組みだからだ。
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脳はなぜ心を作ったのか 前野隆司 筑摩書房
心を物理的な理屈で解明できたというので読んでみた
心は知・情・意と記憶の学習と意識から成るとして
記憶の学習には宣言的記憶と非宣言的記憶があり
宣言的には体験によるエピソード的な記憶と
一般的な意味からなる記憶があるという
ここから意識を除けばロボットでも扱える物理的な範疇であると
残った意識と無意識
意識には覚醒していると言う意味と
事物に注意を向けることと私という自分を認識するという感覚
一般的に意識は知情意と記憶の学習を
主観的に統合する作用としているが
前野さんが発見した論理はこの一般論と違うと言う
又無意識は抑圧されて意識に上らない心の働きとか
深く考えることなく惰性による行動や選択のこと
心と脳の関係・・・
さて物理的な縄張りにこもった学問で大丈夫だろうか
意思決定をするにはそれ以前に目的がなければならない
人間に限らず生き物は目的に沿って判断しているはずだから
当然その決定に至るプロセスがあるはず
(前野さんは生命に目的があると認めていないかもしれないが)
想念を一方的な意識と勘違いして心と読んでいるように思える
今のところコンピューターやロボットにない意識も
知情意と同じようにいずれ具体化されると言い
二元論者を全近代的だと主張する前野さんが言う
私には体と「私」と《私》の三つの私があるとし
「私」は意識だとする
〜その意識は想念のことでないのだろうか?〜
更に自己意識だという別の《私》を個人的な主体だという
〜これは体験から得た知識とは別のことでしょうか?〜
どこで線引するのかわからないけれども
喜怒哀楽や身体や外界に対しての実感を《私》自身の言う意味で
クオリア(質)と命名しているらしい
〜これは所有につながる情感のことだろうか?〜
前野さんの言う「私」は受動的で主体的で無いとして
心の地動説を解くが
〜全道説を唱えるべきで無いのか?〜
全体と部分は連鎖している入れ子のようなものではないのか?
どこを切ってもその部分は全体を写し取ったホログラフィーであり
部分的な受け身と全体的な主体性の両方を持っていると思えるのだが
どうも物理一辺倒の論理は相対性を飛び越えて
唯一無二の答えを求める一神論者に通じる依存心があるようの思える
前野さんは消去法で意識の錯覚説を導いているけれども
五感である視覚のクオリアも自己を感じる意識のクオリアも
同じように眼や心にクオリアがあるかのように
形而上のことも形而下も錯覚するように作られているのだと
考えざるをえないのだと結論づけているが飛躍していないだろうか
〜作ったのは誰でどこでそれを感じているのか?〜
元の木阿弥に落ち込んでいないだろうか
わかっていないモノを消去法で残ったのが答えだとすることの危険
わからないモノは時が準備するまで焦らずに思���を転がしながら
そのままの状態で大事に棚上げして待つべきなのだ
本文の184ページ以降には同感できる部分も多いが
全ての根源には集合意識とつながる個々の意識の解放が
関わっているのだろう
それなしでは飛んで火に入る夏の虫で
自殺行為でしか無い視野の狭い強欲から抜け出せない
そのためにも環境を含めた自分のすべてを俯瞰し
視野を広くして過去に依存し所有欲による競争原理の縄張りから脱し
今現在を選択する冒険を目指せるだけの意識に
目覚めなければならないだろう
そして依存心と恐怖からなるお願い信心を卒業して
自律を目指すことの喜びに満ちたお互いに対等で自在な
愛と美の意識に気付いて行くことだろう
それは相対する部分観と全体観が補い合う個々の連鎖によって
成されるに違いない
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最近、一気に読まなかった本の内容を終盤で思い出せない。忘却力が強くなっている。
この本も3回ぐらいに分けて読んだが、心を主体のない集合体として定義した内容だったと思う。
面白かった。高校生だったら、これ読んで心の研究とか、心を持ったロボットの研究とか志しそう。
ちょいちょい挟まれる筆者の脱線や小噺は、無駄だが、それくらいリラックスして読めるのが楽でいい。
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最近読んだ本の中で抜群に面白かった。長年疑問に思っていた事が、解決したと言うか、そう考えるしかないかと。同じ様な事を考える事はいるもんだど。もともとはAI、ディープラーニングを齧ろうと思って、AIは意識を持つのかと、思いたどり着いた本。著者によると意識は自分で考えるというものではなく、後付けで、誰しも持っている共通の機能みたいなものと説く。断片的な実験結果からの極論な気もするが、なるほど、そう考えるか!と納得がいく。分かりやすく、取っつきやすい。おすすめ。
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受動意識仮説、という非常に刺激的な仮説に関する非常に丁寧で具体的な本。
誰もが一度は考える、私とは何かについて、ヒントをくれます、
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受動意識仮説。これ知らんかった。主体的と思っている意識や知、情は実は脳内の小びとたち(無意識)によって処理されたもの。五感は感覚器で感じるのではなく感覚器のある場所で感じているように思わせるオーグメンテッドリアリティ。意図もタイムラグがあり意図したと思わされているだけ。心の地動説というコペルニクス的転回、西洋的な自己が中心の考え方を転換して、意識は無意識の決定を観測してるだけ。意味記憶よりエピソード記憶は高度な認知活動のために進化により獲得された。そのエピソード記憶の整理のために意識が生まれた。ロボットも心を持つことが可能であり、今後今までの歴史のように人権が動物やロボットに拡大されることもあり得る。
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☆信州大学附属図書館の所蔵はこちらです☆
https://www-lib.shinshu-u.ac.jp/opc/recordID/catalog.bib/BB03872016
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脳は外界からの知覚を入力して、感情・行動を出力するアルゴリズム。
人間の自由意志は存在しない。行動を後付けで説明する役。
これが現代の科学による主流の考え方。ホモ・デウスも同じ潮流の本。茂木のクオリアとかは妄想。(2018/11追記)
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「受動意識仮説」という著者の提示する理論について述べられた本。誰もが一度は考える「私」とは何か、という「意識」について、脳が「何かをした」と思い込んでいるだけの後づけの錯覚である、という定義をし、それを一冊かけて論理展開している。
他の脳科学者たちが提示する理論への反駁も含め、なかなか面白い造りになっているが、文庫なのでこれ一冊でまとめて理解しようとするのは無理ですね。もっと知りたい人は、著者の別の本や同じテーマを扱った別の研究者の本にもあたったほうがいいでしょう。
この仮説の入門編、導入編としてはちゃんと読み応えがあるので、そこらへんも勘案して星は3つに留めます。
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自分の意識が心をコントロールのではなく、脳の中の小人(ニューロン)の反応を事後的に集計して把握している、という考え方(受動意識仮説)に関する本。
普通に考えると、まず自分の意識があって、それが「意識的に」心を形作っているように感じますが、まずニューロンの反応ありきという逆の考え方もあるんだなと、目から鱗が落ちるような感想をもった。
読みやすく書かれているが内容は複雑なので、時々読み返したい。
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久し振りに何が書いてあるのか、全く判らないままに読み終わってしまった。
本書の名誉のために書いておくけれど、けっして支離滅裂なことやオカルト的なことや独りよがりのことが書いてあるわけではない(と思う)。
ただ、読んでいる途中で、もう何が何だか判らなくなってしまったのだ。
というよりも、書いてある内容が全く入ってこなくなってしまったのだ。
それでも最初の半分くらいは「ふむふむ」程度には理解しながら読んだのだけれど、半分を超えたくらいから「何言ってるんだろう、このおじさん」になってしまったのだ。
こういうことって僕の場合、ごく稀にあったりする。
多分、読み返すこともないだろうなぁ……。
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興味深いテーマであったし、共感できる主張であった。分かりやすい良書。科学的な解明ではないのかもしれないが、感覚的にはまさにその通りに違いないと感じられた。特に夜見る夢についての言及は、僕も普段からそう思っていたのとまったく同じ考え方だったのでとても嬉しかった。
脳の中の小人のパラメーターを自在に変えることができたら、きっとこんなに生きづらい人生ではなくなるんだろうなぁ、というのがこの本の内容とはあまり関係のない読後の感想です。
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心の地動説はインパクトのある内容であった。脳や意識について今まで詳しく考えてこなかったが、説明されるとなるほどと思えることばかりであった。