紙の本
原子力日光の陽だまりの中で微睡みながら
2011/06/10 15:02
16人中、5人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:栗山光司 - この投稿者のレビュー一覧を見る
僕たちは恐らく「原発大国」というメニューを選んだのであろう。
ヒロシマ、ナガサキという被爆国でありながら、何故、「原発大国」を国策として採用したのか。
戦後の焼け野原からの復興が最優先で「経済大国へ」の国民的コンセンサスが疑念なく信じられた。
日米安保という核の傘の下であろうとも「豊かになれば」いいのだと、ナイーブにお金稼ぎに邁進した。
所得倍増を唱えた池田勇人がド・ゴールフランス大統領に「トランジスターラジオのセールスマン」と揶揄されようと、経済重視は国民こぞっての路線であった。
そして、とうとう変動為替相場に移行。本家のアメリカさを脅かす経済成長を遂げた。
日米安保≒国体という骨格が戦後天皇制に支えられて1940年体制が切れ目なく駆動していたとも言える。
焼け野原、原爆被爆、1945年8月15日戦後以降、果たしてこの国は変わったのか、
今年、3月11日以前と以降と世界は変わったのか、変りつつあるのか。
アメリカ国債を90兆円も保有していても換金できないし、未曽有の経済状況でありながら、円高は止まらない不思議はなんとも納得出来かねる。
そんな検証を歴史的にしたくなる冷静さを日夜福島原発、東北震災報道を視聴しながら持ちたいと思い、手に取ったのが武田徹の『私たちはこうして「原発大国」を選んだ』のです。
本書は僕自身もbk1に書評投稿している。『「核論」―鉄腕アトムと原発事故のあいだ』に加筆・修正をした上で改題して刊行されたもので、クロニクルに書けば、2002年11月、勁草書房より単行本として刊行、2006年2月、中公文庫として刊行され、今回、新書として増補されたというわけです。
武田徹はいわば「スイシン派」、「ハンタイ派」のどちらにも組しない立ち位置と言って良い。だけど、「安全・安心」についての拘りはジャーナリストとして持続しており、『偽満州国論』(河出書房新社 1995年)、『「隔離という病い』(講談社メチエ)を含めた三部作として「共同体」をキーワードとして通底している。
「満州国」、「ハンセン病療養所」そして、3・11以降のフクシマ、東北の復興は……。
あとがきで彼はとてもシビアなことを言っている。彼の言説に違和を感じる人が大半かもしれない。でも、受け入れがたいと目を閉じ、耳を塞ぐことがあってはならないと思う。事件、事故は起きたのです。歴史は「なかったこと」には出来ない。
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確かに四十五年七月一六日にニューメキシコ、トリニティサイトで実施された最初の核実験以後、世界は「原子力的日光」に照らされることになったのだ。核エネルギーは解放された。それは清水幾太郎が述べていたように人類が「自殺装置」を手に入れたということだ。自殺装置は核兵器だけを意味しない。原子力発電も、人類を破滅させるに足る量の核分裂生成物を内部に貯め込んでいる。反核運動家が願うように原発を停止したとしても核分裂生成物は残り、その絶対安全な処理法は確立されていない。つまり、ひとたび核エネルギーを原子核内に閉じこめていた封印が剥がれてしまえば、地球規模の破壊は故意でなくても可能となる。核エネルギー利用が、そのようなスケールの技術であることはまずリアルに認識すべきだろう。
そして――、先にハンセン病療養所では終末論が世俗化されていると書いた。それに倣って言えば、核の封印が切られたことは終末論的思考の脱(国家、民族……)共同体、つまりは普遍化をもたらしたのだ。核エネルギーの解放後、世界の終りは人間の力で迎えられるようになった。その「終り」は地球市民いずれにも「公平に」訪れる。原子力的日光に照らされている世界とは、日常の中に「終り」の可能性が偏在している世界でもあるのだ。
そうした事実を前提とする時、私たちはハンセン病療養所の元患者たちと同じく終末論的思考を日常に及ぼすことが出来るはずなのだ。(もちろん、ここでも都市的な共同体を作れるようになったのだから、核エネルギー利用の封印を切ったことはむしろ良かったのだという短絡的な議論をするつもりはない。それはあくまでも一つの歴史の帰結である。)
しかし、そうした気運はどこにも見当たらない。価値観の相違は増幅され、むしろ冷戦後に多くの地域紛争を導いている。そんな国際情勢に加え、人々の思考法にも問題を感じる。核時代に至って、なお人類に未来は永遠に続くべきだと根拠もなく前提にする思考が育まれるのはなぜなのだろう。たとえば核の廃絶を求める市民活動家は「自分たちの子供達に核のない未来を」をというようなスローガンを疑いもなく使う。だが未来を破滅させられる技術を既に実現した社会において、未来が今後も変わらずにあるということはもはや自明ではない。未来が存在するに値すれば、それを求めることも正当化されるが、存在するに値しない未来であれば、人類はそれを放棄することも可能なのだから。核時代に、自分たちの今の社会の延長上に導かれるだろう未来は、本当に存在するに値するものか、人類は未来にも生き続けるに値するか、ラディカルに問われるべきなのだ。
紙の本
「原発大国」日本
2016/12/30 11:39
0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:ゴジラ - この投稿者のレビュー一覧を見る
この本は日本が「原発大国」となる経緯を述べているものです。
福島第一原発事故以降、原発の推進派と反対派の議論が活発化しているように思えますが、すでにいわれているでしょうがこの本はその推進派と反対派両方に読んでいただきたいです。
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原発「スイシン派」の人も、「ハンタイ派」の人も、どちらでもない人も、今一度なぜこのような状況に日本が至ったのか、見つめなおすには最良の書だと思います。
福島原発の現状を鑑みて、東京電力を責めるのは容易いことかもしれません。だけど彼ら”だけ”の責任でもないのも事実なのではないでしょうか。
もはや、日本人は原発問題に関して無自覚でいることはできないと感じています。
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戦後史の中で、原発はどんなもの、役割を果たしてきたのか?
ゴジラ、鉄腕アトム、大阪万博・・・。
なるほどぉー。こういう切り口で考えてみる目線も必要だなぁーと実感。
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漠然としたイメージ、マスコミの喧伝、何となくの感覚に翻弄されて、ただ闇雲に賛成・反対と思ってしまうのが嫌で手にとった本
日本が原子力発電を手にする歴史的経緯と、これまで論じられてきた数々の言論を紹介しており、一冊としては極めて中立的なまとまりを見せている、と言った印象でした
読み終えて、「賛成ですか?反対ですか?」というのはいかに愚問であるかと思うようになったこと、エネルギー計画は時に戦争を起こすほどに重要な問題であると認識したこと、とりあえずトラブルが起きた時の政権を批判してるだけではいけないってこと、が大きな収穫
大量のエネルギーを消費して暮らす社会の一員として、いざというときにしっかりと考えを話せるようにはなっておこう
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「核」論の「各」論という洒落に合わず真面目な内容。
内容が盛り沢山で重いため、読後感は大きい。
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どのような歴史を経て、日本が今の原子力大国となったのか?
それを社会論、政治論、科学論、報道論 etc... から書かれています。
「スイシン」「ハンタイ」の立場を超えて均衡点を探すために、お互いにおかしい部分・目を逸らしてきた部分を見つめ直さなくてはならないと思う。そのためのきっかけに最適な本。
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企画コーナー「今、原発を考える時」(2Fカウンター前)にて展示中です。どうぞご覧下さい。
貸出利用は本学在学生および教職員に限られます。【展示期間:2011/5/23-7/31】
湘南OPAC : http://sopac.lib.bunkyo.ac.jp/mylimedio/search/book.do?target=local&bibid=1595430
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我が国の原子力政策についてその歴史的な俯瞰を示してくれる。
文庫版後書きについて消化不良を起こしているのだけど、原子力政策に根付いているこの国の業の輪廻や民族に根付いているのかもしれない何かについて考えさせられる。
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原発関係でso far最も得心がいった本。実に良くできている本である。様々なキーワードが本書に修練していき、最後に原発像が時間と空間的な様相のなかで明らかになっていく。Abby roadを本にしたような収斂である。
原発はアメリカである。終戦であり、原爆であり、白洲次郎であり、ホイットニーであり、正力松太郎であり、第五福竜丸であり、ゴジラであり、小島信夫であり、土光敏光であり、読売新聞であり、オッペンハイマーであり、人形峠であり、鉄腕アトムであり、万博であり、ニーチェであり、大衆である。ハンタイ派であり、サンセイ派である。シュンペーターであり、イノベーションであり、マスターベーションであり、レボリューションである。田中角栄であり、柏崎であり、福島である。清水幾太郎であり、大江健三郎であり、もんじゅであり、JOCである。ノイマンであり、ゲーム理論であり、中曽根康弘である。こうして私たちは原発大国を選んだのである。絶対読んだ方が良い。
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日本でどのように原発が受け入れられてきたのか、関連のある世界の出来事も含めながら政治や社会の流れと一緒に解説する。
自分が生まれた後の時代について書かれたのはたったの三分の一。
それ以前から原子力は使われてきたし、広まってきた。
その時の社会の雰囲気はこういう本でしか知ることが出来ない。
その時代を知ることで多少は何かがわかるのか。
大阪万博の時代、原子力とは未来を示すシンボルだったという。
「この電気は原子力発電所によって作られています」
現在の日本だと、嫌悪感があるのだろうか。
3月11日以前だと「当たり前でしょ」という感じだろうか。
当時はそれが「未来」そのものだったようだ。
時代によって価値観は変わる、ということをまじまじと見せつけられる。
導入当初はきちんとした知識も無いままどさくさ紛れのように導入された、という印象を持った。
現代でもそれは何も変わらない。
事故が起こった今でも原子力、原発の知識がある人は大して増えていないし、その知識を国民全体で学ぼうという話も聞かない。
今後も本書にある1970年代と何も変わらないのだろう。
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本書はその題名が語る通り、戦後日本人がなにゆえ原子力を選び、それに夢を託してきたかを跡づけたものである。日本でかつて、ウラン探しをということで、放射能フィーバーが起きたこともあった。ラドン温泉のように、放射能は体にいいのだとさえ言われた時代があったのである。これはぼくも記憶がある。中にはプロトニウムを飲んだ人もあったそうだ。そして、あの1970年の大阪万博の明かりをつけたのは、敦賀原発だったという。当時ぼくたちは、なにも知らずに原子力の日だまりの下にいたのである。田中角栄の日本列島改造論は、都市集中化に対する過疎地の開発を求めたものだが、それは原発の誘致を含んだものでもあった。武田さんは原発スイシン派に対しては敵対しないものの「共感できない」タイプである。しかし、またハンタイ派に対しても、批判的な姿勢をもつ。たとえば、反原発運動の高まりは、原発作業員の士気を低めたり、質を低下させ、JCOのようにウランの怖さを知らない作業員を死に追いやったりする、と言う。しかし、そうだろうか。それは、危険なものを危険だと知らせない雇用者の責任であり、それを反原発運動にも責任があるというのはおかしいのではないか。むしろ、反原発運動をするものは素人集団だと高をくくり、危険に対する備えに線引きをしてきた御用学者らを責めるべきではないだろうか。
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11/06/01。冒頭の「2010年論−新書版まえがきにかえて」をちら読みしたが、極めてまっとうな大人の見解。不安を煽る人たち、闇雲に安全を叫ぶ人たちが忘れているものに視点を当てている。読む前から★5つ。
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日本の核開発の歴史を散文的に解説。各賞に論旨がとっちらかっている印象だが、トピックとしては興味深いものが多い。ただ、反原発運動家にも事故の遠因があるというのは暴論であると思う。
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今だからこそ、日本が原発推進を選んだ経緯を知りたい、という人にはおススメ。賛成派、反対派、どっちかに寄ってないところもGood.
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堅い文であちこち話が跳ぶので、かなり読みづらかった。様々な視点から核の来歴を学べるのはたしか。ただ3*11以後に足した文は浅い感じ。ゴジラと核の関係の話は個人的に興味深かった。