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原子力を受け入れた村は、原子力を押しつけられたのではなく、受け入れざるを得ない理由があった。原子力を推進する側と原子力を受け入れる側の共存関係が地震により崩壊した今、改めて原子力を、そせて地方を考えさせられる本。
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【読書その36】本書は、福島県いわき市で生まれ育ち、2006年から福島原発を研究していた東大博士課程在籍の開沼博氏が「原子力ムラ」が生まれた歴史とその構造、日本社会における中央と地方の関係について論じた本。著者によれば、「原子力ムラ」とは2つの意味があり、1つめは、原発とその関連施設を抱える地方、2つめは中央側にある閉鎖的保守的な原子力行政を意味する。原子力発電所を福島県が誘致した背景や、その後の地方と中央との複雑な関係。佐藤元福島県知事へのインタビューを含めた現地調査から見える、地方側の「原子力ムラ」の現実。
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原子力を対象として、中央と地方、支配と被支配を原発推進でも反対でもない当事者内部からのニュートラルな視点から問題の本質を見極めようとした非常に面白い研究。
日本に暮らす者として読んでおいたら良いんじゃないかなと思います。
しかし、この本が、東京大学大学院の修士論文として書かれたものだとは、レベル高くて驚きました。
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先日、小浜から敦賀へとつながる国道162号線を走った。
「郊外ですらない」何も無い道。あるのは「原発」への案内標識――
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この本は、原発問題の本質を捉えていると思う。つまり、原発問題の中心にあるのは「内なるコロナニゼーション」問題だということだ。原発労働者の多くが、身元のはっきりしない「ジプシー」的人材であったり、中でもとくに過酷な作業に従事しているのは「黒人」だ――などと語られるのはじつに象徴的である。そう、「コロナニゼーション」問題を解決しないことには、いくら問題提起しようと、所詮、机上の空論、すなわち「帝国側」「中央側」からの「上から目線」での主張にすぎない。
では、いかにして「コロナニゼーション」を解消(解放のほうが適切かもしれない)するのか。
個人的には、とりあえず「地方」「中央」ともに民度を高めていくことの必要性を感じる。「地方」は「前近代の残余としての愛郷」からもう一つ上の視点を持つ必要があるし、「中央」は「中央」で「搾取している側」という自覚を持つことが必要なのではないか。
(具体的に思うのは、「電力供給を受けている中央側の脱原発派」が本当に原発を止めたいのなら、「地方」が「原発」に依存しなくてもいいような資本を投入するのが手っ取り早いのではないかと思う。勿論、そのさいに必要な議論はある。たとえば「地方の一領主にのみ資本が届く体制を避け、いかに地方を効率的に活性化させるか」といった議論だ。しかし、現状の運動を観る限りでは、搾取している側は全くリスクを払わずにシュプレヒコールをあげるのみではないか??本質を捉えていない問題提起は世間から乖離し、どんどん衰退していってしまうのではないか??)
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原発推進派・原発反対派ともに聞こえてくるのは中央からみた地方であり、フクシマ自身は原発に両価的な思いがあると…当事者の思いを想像しつつ考えることについて改めて思わされるところがあった。
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開沼博『「フクシマ」論 原子力ムラはなぜ生まれたのか』青土社、ようやく読了。
中央と地方、地方とムラの関係の変化をふまえた開発論とその歴史を考察する一冊。
ムラの自発的服従、原子力を「抱擁」に賛否両論あるようですが、賛否自体に「他者」を「自己」で抑圧することへの著者の静かな抵抗を感じる。まさに『サバルタンは語ることができるか』ということでしょうか。
静かな言葉の積み重ねの迫力を感じた一冊である。
以下は、著者のロングインタビュー
http://news.livedoor.com/article/detail/5769413/
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原発に勝る地域振興策が無い、という事がこの本での発見でした。大事故があってかわいそうな立地県というイメージがあったけれど、むしろ都市のように潤うために国策を利用するという戦略の元に原発を誘致していた、というのも興味深かったです。原発についての是非のあり方に疑問を持っているのならば読むことをお勧めします。色々な発見があると思います。
ただ普通の本より読むのが大変です。
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原子力政策についての変遷を中央と地方の関係に焦点を当てまとめた本。原子力ムラという単語を、原発のある地域という意味と電力会社、政府、学界の連合体という意味の両方で用いている(実際にはカッコの形で意味の違いがわかるようになっている)。
原発がある自治体でフィールドワークをし、それに基づいて記述された研究論文なので、かなり良く調べられており、読み応えがある。所々で?と言うところもあったが、原発を考える時、特に中央と地方と言うキーワードで見る時は非常に役に立つと思う。単純な問題でないことを思い知るだろう。
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地方がいかにして原子力発電に依存するようになったかについて述べた本。
内容はとても難しくて、主に福島について書いているのは第2章以降。この本を読むと地方を無視した「脱原発」がいかに空虚なものかが分かる。あと「排除・固定化・隠滅モデル」がとても分かりやすかった。
筆者の新しい研究に期待したい。
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「原発を動かし続けることへの志向は一つの暴力であるが、ただ純粋にそれを止めることを叫び、彼らの生存の基盤を脅かすこともまた暴力になりかねない。」
ここで言われている「彼ら」はざっくりというと原発立地自治体で働く人たち、だ。(著作内ではもう少し明確に定義されてる) 著作は3・11以前に書かれているけど、引用部分は3・11以後の出版前に書かれたであろう補章から。
表題にあがっている「原子力ムラ」が指しているのは、経産省や保安院とかの原子力ムラだけではなく、実際に立地している町村のことも示している。この本で示されているのは、原子力発電所の開発を題材として「日本の戦後成長における地方の服従の様相を明らかにすること」だ。
地方で暮らして、地方を生活の場としている身には、得心がいくことばかり。
「メディア(媒介)としての原発」が貧困に苦しむムラに見せた「夢」。その夢にひびが入っても、夢を享受してしまったムラは後戻りはできない。その過程を戦後史からさかのぼって丁寧に解説していく。それは「中央」の発展と「地方」の隷属が進んだ高度成長期において、あらゆる「東京以外」にあてはまる要素があると感じた。
遠く離れた京都から「脱原発」を叫び続ける違和感の源は、「原発を必要としている人」の声に自分自身がまだ耳を傾けられていないことにある。その視点は、地方で住んでいるからこそだ。安易な想像力が許さない圧倒的なリアリティ。声高に原発を論じる人たちに「書を捨てよ、街へ出よう」と呼びかける。まあ、そう書いたらやわらかすぎるか。
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地方と中央、うんうん、そうだよね、と読めるけど、で?どうしたらいいやか?というところがね。みんなそこが問題なんだが。
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前半はすごく面白かったが、後半はそうでもないかなと。というかすごく話題になっているわりには地味な内容で驚いた。しかし前半はすごく面白い。
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311震災における福島原発事故がメインでは無く、何故福島に原発が誘致され、稼働し続けることとなったかを、現地でのフィールドワークを元に考察した一冊です。明治政府から現代まで続く中央と地方の関係性等、今まで中々表に出てこない内容も順序立てて書かれています。
それにしても結果的に起きてしまった事故を思うと、何ともやるせない気持ちになります。
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ほぼ全てが原発事故の前に書かれています。原発推進・反対というはまらない原子力ムラの構造分析が興味深いです。
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この本の特筆すべき所は原発を受け入れる側の意思に焦点を当てている事だ。
とかく国が強引に押し付けた、という風に語られがちだが、立地自治体が積極的に誘致を図って来たという事実を明治維新以降の福島の通史から読み解いている。
その動機はもちろん金であり、より正確に言えば貧困からの脱却、郷土の発展のため。
こうした構図は原発に限らず、全国のダムだとか米軍基地だとかのいわゆる「迷惑施設」にも当てはまる事だと著者は主張する。
そして実際自治体レベルだけじゃなく、住民にも職が生まれ、県内でも所得の低かった浜通り地区は豊かになった。
だから原発立地自治体は原発を簡単には手放せない。
この事実を理解していないと先の選挙の結果を正当に評価できないし、デモをやるにしても外野が騒いでるだけになってしまう。
なのでこれを読んだ今、脱原発というある種の夢から覚めたような気分だ。
念の為付け加えておくが、本書は上記の事から原発は日本に無くてはならない物だ、とかそういう主張はしていないので、悪しからず。
夢から覚めただけで諦めてはいない。