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中高とプロテスタントの学校で過ごしていて、割と身近にはあったキリスト教。しかし日本での信者は宗教の自由がある今でも1%にとどまるよう。
結局キリスト教の教えと日本に根付く価値観は相容れないのだと思う。
キリスト教・イエスこそ至上だと考え、日本での布教をすすめたい野心的な宣教師と、一藩からお役目としてスペインに渡ることになった「侍」たちが、各地の政(まつりごと)に翻弄される話。
実話がベースになっているようだ。
途中にでてくる「侍」のキリスト教に触れたときの感触や、別の宣教師による日本論など、おそらく随所に遠藤周作の意見が反映されてるように思う。
考えれば当たり前なのだが、この本を読むまで日本にキリスト教伝来 といえど、単に1つの宗教が来たわけではなく、様々な宗派が争い、前後して日本に来たという感覚を失っていた。
教皇の無謬性が失われ(弱まって?)て以降は常に政治の道具だったのだと、そして差異を示す方法のひとつであったのだと確認した。
単なる冒険物語にとどまらないストーリーはとても面白かったです。
おすすめ。
Dec 2010
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これまで読んだ本の中で、これが一番好きな作品です。主人公の侍が最後に老犬を比喩に出す箇所こそ、遠藤文学の集約では…と勝手に思っています。
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引っ越しなんてできない。
偉い人には逆らえない。
人権なんてない。
時代の流れが人生に大きく影響する。
ありきたりだけど、なんて現在は自由なんだろう。
侍。
良い言葉。
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ながい旅の物語である。
仙台の空の玄関、名取空港には支倉常長の「偉業」を称えるパネルがある。400年も前に、仙台からメキシコ、スペインを経てローマにまで渡り法王とも謁見を果たした。その彼の旅程が壁面一杯の世界地図に記されている。
「支倉焼き」なる菓子のメーカーは、製品名の由来となった彼の旅を「ロマン」と称えている。
だが、「偉業」でも「ロマン」でもありえない。
太平洋と大西洋を命懸けで越えヨーロッパにたどり着いた時、日本ではキリスト教徒の弾圧が一層激化していた。マドリードにもローマにもその知らせは届いている。そんな国と条約を結ぶほど世界の最先進国であった相手は間抜けではない。使節は決死の旅に出発した直後から、彼ら自身だけか知りえなかっただけで、失敗することがあらかじめ運命づけられていたのだ。
空しい悲劇の主人公が、苦しみ、耐え、そして裏切られ、なおも耐え忍んだ末の末、自分だけの本当の信仰に到達するまでの、長いながいこころの旅の物語に他ならない。
この物語をきっかけに、支倉常長ゆかりの場所や資料を漁った。
市立博物館には遺品が「国宝」として納められている。が、その扱い方はあまりにも粗略である。
数十億かけて建造されたと思しき、復元されたサンファン・バウテスタ号と巨大な展示場にも行った。面白くはあったが、主人公の悲劇の実相と深い苦悩は伝わりようもなかった。そもそも、この展示が根拠とする歴史の「定説」も数々の点で修正を迫られている。
史実という点においては、支倉常長と慶長遣欧使節に関する資料はあまりにも少なく、帰国後の常長の消息(彼の墓と称するものは3ヶ所もある)だとか、家康や政宗の意図がなんだったのかなど「闇」の部分が多い。
だが、背負わされた使命を全うすべく七年超にも渡る筆舌に尽くしがたい艱難のすえ彼が手にしたものは、報いどころか汚名であった。その悲劇だけは、史実としても物語のコアの部分としても揺ぎ無い真実である。
このどうしようもない空しさを理解することなしに、憧れたり称えたりしたとしても、報われることなく耐えて死んでいった六衛門常長への、鎮魂にはなりえない。
おそらくは自らも信仰の前で煩悶し、精神的艱難のすえ独自の信仰に到達された著者のみが、自らの精神史と重ね合わせたすえにのみ、物語として辿ることができた「こころの旅」の軌跡であろう。
私自身もそれなりに苦労をし、そして空しい結果に終わろうとしているこの8年間を、思わず重ね合わせてしまう。だが、遠藤先生や常長に比べたならばあまりにもちっぽけで取るに足らないものだ。
そもそも私には、私だけの「神」を見出すことはできていない。
私の旅はまだ途上、なのかも知れない。
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一昨日読了。丸一日かけて読んだが、そうすることができたのも、面白さ故だろう。
目の見えない存在を信仰する教徒たちの姿は、僕のような無神論者からすれば奇異に映る。いわば作中の長谷倉と似たような印象を持っており、決して彼らの事を嘲笑したりするつもりは無いが、「不思議」に思えて仕方がないのだ。
そういった意味で、日本人の無神論的考え方は江戸時代初期から今まで変わっていないのかもしれない。(仏教の問題はあるが、民間信仰はキリスト教的の信仰のそれとはまた少し違っているように思う)
長谷倉に共感しながら、とは言わぬが、理解のしやすさはあったように思う。
江戸時代初期を扱った作品であるがゆえ、やや難しい単語が羅列する。それでも、飽きるどころかページを捲る手が早まったのは、必要以上に「難しさ」を強調せず、本筋に多くの理解・想像の余地を残している描き方のお陰だろう。
エッセイを読んでいるとやや露骨に内容が重複することもあり(例えば、わたしが・棄てた・女。デパートの食堂で云々のくだりや、自己暗示など)、くどく感じることもあるが、概ね好みの文章だ。
しばしば周作の作品は、キリスト教をテーマとした云々と語られる。そういった面は確かにあるが、どちらかというと、「宗教の前における人間」あるいは、人間そのものを描くことに、彼の目的があったのではないかと考えている。宗教を扱った作品以外を併せて読むと、比較的多くの人がそう考えるのではないか。
この作品で色濃く表れていたのは、絶望だったように感じる。
文庫の裏表紙の紹介を読めばだいたいの内容は想像がつき、ある程度の先読みも可能ではあるが、それでも圧倒的なディティールを持って、迫力を生んでいる。
信じていたものに裏切られたときの虚しさと、それでも何かに縋ろうとする儚さに、煉瓦で頭を打たれたような衝撃が走った。
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六年前から探していた本に似ていたため
読んでみた所、違いましたが
とてもおもしろかったです。
普段はじっくり読んでいるつもりでも
ぱらぱらと読んでいたり、きづいたら
飽きていますが、かなりじっくりと読んでいました。
話は、もやもやしますが
納得できる感じでした。
しかし最後の侍と西の描写はもう少し
見たかったです。
私は最後の解説に書いてあった
多くの日本人はこの小説を、魅力的な歴史冒険小説以上のものとしてはみていない
というのがすごく、そうだ
と思えました。
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名前は聞いたことがあるが、よく知らない支倉常長。ローマまでの道のりはどれほどの苦しみがあったのか、垣間見ることができた。キリスト教とは距離を置いていた支倉の気持ちやその葛藤についてもっと描ききってほしかった。
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支倉六右衛門(常長)をモデルにした小説.
慶長遣欧使節として,ドン•キホーテの時代のスペインや,バロックの都であったローマを訪れた日本人への興味があって読む.
しかし,この小説では「訪れた」というよりは「無理やり行かされた」面を強調している.巻末の解説によれば,実際どのような旅であったかは,資料が少なくてはっきりしない部分が多いらしい.この小説では,ひたすら苦難の連続の旅として描かれている.静かな生活を望みながらも,政治に翻弄され,宗教に翻弄された人生である.
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感動の名作だと思う。侍は、藩主の命で、ローマ法皇に親書を渡すべく、メキシコ、スペイン、ローマと旅をするわけだが、その間に日本はキリシタン禁制の国に変わってしまう。政治や権力に翻弄される侍たちの心の葛藤の表現が素晴らしい。
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宗教は万民に普遍的なものという勘違いを起こしている。
宗教は人によって全く違うものである。
日本人の宗教観が垣間見える作品
ぜひとも別の作品も読んでみようと思う。
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鎖国。この実に閉鎖的なシステムが、ある時日本に260年の長きにわたる泰平の世を築き、日本独特の美しく神秘的な文化を生み出しました。しかし、それにはどれほど残酷な犠牲があったことでしょうか。
藩命を帯びて遠くヨーロッパに渡り、やがて藩に捨てられた侍たちの物語です。
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おれにとって6作目となる『侍』は、これまで読んだ『沈黙』、『イエスの生涯』、『キリストの誕生』を合わせた集大成のような作品だった。遠藤周作の考える、日本人と宗教、日本人とキリスト教、無力なイエス像、ペテロとポーロ、といったテーマが織り込まれた作品。
ほんとは宗教や信仰とかいった問題について考えるべきなのかもしれないが、それよりもおれは、歴史の壮大な流れの中に生きるちっぽけな人間、どうしようもない理不尽さ、という感覚を強く味わった。この「ちっぽけな」という部分が「イエスの無力さ」という部分に通じるのだろうけど、イエスがどうのこうのと考える前に、やっぱり単純に侍の生き方に思いを寄せてしまう。ところで、松木という人物は、人や物事のすぐ裏をかいでしまう点ではおれにすごく似ている、とか思ってしまった。
あまり小説を読んだことないおれでも、その分厚さにも関わらずすぐに読めてしまうほど面白いと思えた。(11/12/22)
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時代はまさに,家康が幕府直轄領に切支丹の教えを禁じだした時である。そんな時代,布教に対し,命をかけなければならないような日本に,宣教師ベラスコ(実在したルイス・ソテロ神父)がキリストの教えを広めるため,そして自分の栄達のため,策謀を張巡らせつつ,本当のキリストの教えとは何なのか悟っていくていく物語。また,そんなベラスコの熱意に対し,侍がどのようにイエス・キリストのことを考えたか。日本人の心がどのようにキリスト教を捉えているのか,日本人特有の現世利益を求める姿を例にあげつつ,侍の心とベラスコの心を交互に捉えながら話は進む。
当時,本来であれば,日本は宣教師であるベラスコを追放するべきなのだが,利用価値があるとして,通詞の役目を与え,ノベスパニヤとの通商を始めようとしていた。幕府直轄領では禁教するが,その他の国ではお咎めなしという都合のよい施策を打っていた。このため,江戸を追われた信徒は西国や東北に逃亡することも黙認していた時代だった。
フランシスコザビエルが,半世紀前に日本に上陸し,この国の伝道はすべてザビエルの創設したペテロ会が独占してきたが,十年近く前に法王のクレメンテ八世が他の修道会にも日本への布教を認め,ペテロ会と他の会との軋轢が増した時代である。ベラスコはペテロ会と対立するポーロ会の宣教師で,日本での布教が厳しくなったのは,ペテロ会が長崎に植民地に等しい土地を得ていたためだとなじった。九州を占領した秀吉は,布教に名を借りた侵略だと激怒し,禁教令を布いた事は周知の事実である。ベラスコは,自分に任せておけば,日本人をうまく操れる,日本人には利益を与え,我々には布教の自由をもらうといった取引を自分は巧みに行うことが出来ると思っていた。国家は宗教を利用し人々を支配し,宗教は国家を利用し布教を進めようとする。宗教が広まっていくのは,先進国の技術を途上国は輸入させてもらう代わりに布教の自由を与える。宗教と国策は切っても切れない縁で繋がっていた。
ベラスコも同じように,布教を許してもらう代わりに,ノベスパニヤとの通商の道を開けと藩主伊達政宗に言われる。これによりノベスパニヤ行きが決定したわけだが,それには日本の使節が必要になる。そこで選ばれたのが,本書の題名になっている”侍”こと長谷倉六右衛門(実在した支倉六右衛門のこと)だ。
船の中でベラスコは日本人がキリスト教に興味を持つだろうと思っていたが,そうはならなかった。日本人は幸福の意味とは現世の利益を得ることであり,それは富み,戦に勝ち,病気が治ることで,それらを目的とした宗教なら受け入れるが,超自然なもの,永遠に対してはまったく無感覚である。その現世利益のためだけに,使節団と共にノベべスパニアに渡った商人連中は切支丹になった。役に立つものなら,何でも取り入れるという日本人独特の考えである。薬師如来も病気平癒のため崇められる。宗教に現世利益を求める日本人は,キリスト教の言う,永遠とか魂の救いとかを求める宗教は生まれない。ましてや復活など。ペテロ会は当初はそんな日本人の特性に対し,鉄砲を売り込み,その代わりに宗教を広める許しを得てきたが,利権確保をやりすぎて失敗し���のだ。
ベラスコがキリスト教を日本人にも広めようとする中,侍は,無力でみすぼらしいキリストの姿に神々しさも尊さも感じない。美しい仏像にはおのずと頭が下がる思いがするし,清らかな水の流れる社の前に立つと手を打つ気分にもなれる。日本人は本質的に人間を超えた絶対的なもの,自然を超えた存在,切支丹が超自然と呼んでいるものに対する感覚がない。反対に,この世のはかなさを感じること,はかなさを楽しみ享受する能力を合わせ持っている。持っているだけでなく,その能力があまりに深いゆえに日本人はそこに留まることの方を楽しみ,その感情から多くの詩を作る。そこからは決して飛躍しようとはせず,飛躍して更に絶対的なものを求めようとは思わない。日本人は人間と神を区分けする明確な境界がないのだ。人間はいつかは神になれる,近づける存在だと思っている。だから日本人は,人間とは次元を異にしたキリストという神を考えること,捕らえることが出来ない。
日本人は決して一人では生きていない。『彼』という一人の人間は日本にはいない。彼の背後には村があり家がある。それだけではなく,死んだ父母・祖先がいる。その村,家,父母,祖先はまるで生きた生命のように彼と強く結びついているのだ。彼とは一人の人間ではなく,村や家を背負った総体なのである。フランシスコザビエルが日本で布教を始めたときぶつかった最も大きな障碍はこれだった。日本人たちはこう言った『切支丹の教えは善いものだと思う。だが自分は自分の祖先がいない天国に行くことは祖先を裏切ることになる。死んだ父母や祖先と自分たちとは強く結びついている』と。これは単なる先祖崇拝ではなく,強い信仰といわず何と言おう。
侍をはじめ,多くの日本人は,キリストの,あのようなみすぼらしい,みじめな男を敬うことが出来ない。あのように痩せた醜い男を拝むことは出来ない。しかし,切支丹はこう言う。キリストがみすぼらしく生きられたがゆえに信じることが出来る。醜く痩せこけ,この世の哀しみをあまりに知ってしまったキリストは,人間の嘆きに眼をつぶることが出来なかった。だからキリストはあのように痩せて醜くなられた。もしキリストが自分たちの手も届かぬほど,気高く,強く生きられたなら,切支丹とはならなかったと。キリストは生涯みじめだったゆえに,みじめな者の心を知っている。みすぼらしく死なれたゆえに,みすぼらしく死ぬ者の哀しみも知っている。キリストは決して強くもなく,美しくもなかった。キリストは一度も心驕れる者,充ち足りた者の家には行かなかった。醜い者,みじめな者,みすぼらしい者,哀れな者だけを求めておられた。泣く者はおのれと共に泣く人を探す。嘆く者はおのれの嘆きに耳を傾けてくれる人を探す。世界がいかに変わろうとも,泣く者,嘆く者は,いつもキリストを求める。そのためにキリストはおられるのだと。
後段で著者はベラスコに自分の嘆きとも言える言葉を吐かせている。今はキリスト教の司教も司祭も心は富み,心は充ち足りている。今あるキリスト教は,かつてイエスキリストが考えられた姿ではないと。
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遠藤周作の作品に出てくる登場人物ってどうしてこんなにイメージしやすいんだろう。中でも、『侍』は使節として送られる代表3人と、彼らを繰ろうとする宣教師それぞれが全く異なる個性を持っていると認識出来て面白かった。
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先日、慶長遣欧使節資料が世界記憶遺産に申請されたというニュースを聞いて読み返してみた。
『沈黙』と共に、キリスト教とは・日本人にとっての宗教とは…ということを考えさせられる一冊。