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浅田次郎の「終わらざる夏」を読んだ時に気になった義理・人情の関連で読んでみた。新潮社のPR誌に連載されていた時から知っていたが、読むことはなかった。長谷川伸が日本人を日本人たらしめている”義理・人情”を著作に多く描いたことは分かった。しかし、なぜそれを長谷川伸が描いたのか、描こうとしたのか(その生い立ちが原因としている)が分かるような、分からないような。著者が述べているように、柳田国男や折口信夫などの民俗学まで手を伸ばして、合わせ読まなければ本当は分からないのかもしれない。
そういえば、子供のころ父がテレビで見ていた舞台が、今思えば「一本刀土俵入り」だった。舞台が好きだったのか、長谷川伸が好きだったのか、亡くなった今となっては尋ねるすべはない。文藝春秋を購読していたから、父が本好きなことは何となく分かっていたが、仕事している姿ばかりで、それ以外の本を読んでいる姿、それも長谷川伸を読んでいたという記憶は無い。今度実家に行ったら父の本棚をのぞいてみよう。
●日本人は神を信じないかわりに人間を信じたのであり、人間の”想い”とか、”怨み”とかいったものを信じたのである。それが信仰としては祖霊信仰や生霊死霊のたたりの思想となり、日常のモラルとしては、人の期待を裏切ってはならぬ、という、義理人情の思想となったのだと思う。(佐藤忠男「一宿一飯の義理」、「長谷川伸全集」付録月報№16)
●神を信ずるかわりに人を信ずる思想というのは、何とも哀しい思想ではないか。なぜなら、人間ほど頼りにならない存在はないからだ。神の秩序はそうそう簡単に消滅したり崩壊したりするものではないが、それに比して人の秩序はいつでもガラガラと崩れ、あとかたもなく潰え去る運命にさらされている。神を信ずることができないからせめて人を信ずるほかはない、いう断念に支えられた考え方なのではないだろうか。たとえ人の思いに添おうとしても、たとえ人の期待を裏切らないように生きようとしても、その思いや期待をたちまち吹き飛ばしてしまうような無情の風がいつ襲ってこないともかぎらない。その無情の風がさらに、人の世の無常の思いをかきたてるのである。義理人情の世界の危うさ、哀しさが、そこにあらわになる。武士道の思想の、かならずしもモラルという器に盛りきれない哀れさ、はかりがたさが鎌首をもたげてくる。それがそもそも、人を信ずるほかなかったものたちの宿命なのではないか。人の想いと怨みを唯一の頼みの綱として、自分の行動を定めようとしてきたものたちの運命だったのではないか。その哀しい危うさを生きるほかなかったものたちの背中にむかって無常の風が吹く・・・。長谷川伸の「瞼の母」においても、また「一本刀土俵入」の舞台においても吹いていた風である。神を信ずるかわりに人を信ずるほかなかったものたちへの、最後の慰撫の風でもあった。
●「日本人はどうしてかくまでも義侠なのか」ということが、まさに長谷川伸の股旅物のテーマであった。「一本刀土俵入」や「沓掛時次郎」などの名作を書いた動機もまさにそこにあったのだと、あらためて私は思う。
●先生はわれわれに教えるに智をもってせず、なにごと��あれ、身をもって垂範されようとしておられたことである。どのような範かといえば、それは純乎たる日本人の生き方ということであったと思う。(棟田博「純乎たる日本人」、「長谷川伸全集」付録月報№13)
●長谷川伸とその弟子たちのあいだに、ときに師と弟子という枠をこえて親と子の関係にも比すべき感情が流れていることに気づく。