紙の本
日記作者へのツッコミ
2019/02/28 20:30
1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:ペンギン - この投稿者のレビュー一覧を見る
日記に書かれた内容を文字通りにとるのではなく、書いた人の出身階級や親の職業とか、誰から教育を受けたかとか、社会的に果たした役割とか、周辺事情を調べた上で、発言と行動の矛盾なんかも指摘しているところがおもしろい。
それにしても、高校の古文の授業で出てくるような古典文学作品が、本当に昔からよく読まれているのがわかる。歴史の厚みを見る思いだ。
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おおお。ちょっと不安に思っていたけどずんずん読める。意外。駅を降りそこねることも。
これは今でいう引きこもりだな、とか、活中だなとか、日記の主に親近感覚えたりして。キーンさんの指摘になあるほどと頷きながら、今はちょうど四分の一程のところを読んでます。分厚い本なので挫折すると思ったけどだいじょうぶかも。
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東日本大震災後、日本に帰化することを発表したドナルド・キーンさんという人がどう人なのかを知りたくて、この本を手に取った。
そこまで何故彼が日本人に寄り添おうとしてくれたのか、そのヒントがあるのではないかと。
平安時代から江戸時代までの日本人が書いた日記を読み解き、それぞれの日記を書いた人自身の声を聞き取ろうとする。その中から「日本人」のイメージを発見しようとする。
とにかくその姿勢、執念のようなものに感服。
日本人の自分でさえ、これらの書物を読もうなんて思わないし、第一読めない。キーン氏もかなり苦労されたものもあるようだけれども、それでもこれだけのものを読み、解釈し、書き手の想いを知ろうとするのが凄い。
もちろんそれが学者の仕事なのかもしれないけど、これが出来なきゃ学者でないのかもしれないけど、「ありがとう」と言いたくなった。
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"Travelers of a Hundred Ages" New York:Henry Holt andCompany
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戦時中アメリカ軍では、機密漏えいの観点から日記を書くことは禁止されていた。逆に日本軍では奨励していた。日記に対して全く逆の考えを持つ国アメリカと日本。これほど日記に文化的価値を見出している国は日本以外にないと元アメリカ人のキーンさんは言う。日本が誇る日記文化について書かれた本、必読です。
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[ 内容 ]
日本人にとって日記とはなにか。
平安時代の『入唐求法巡礼行記』『土佐日記』から江戸時代の『野ざらし紀行』『笈の小文』『奥の細道』まで、八十編におよぶ日記文学作品の精緻な読解を通し、千年におよぶ日本人像を活写。
日本文学の系譜が日記文学にあることを看破し、その独自性と豊かさを探究した、日本文化論・日本文学史研究に屹立する不朽の名著。
読売文学賞・日本文学大賞受賞作。
[ 目次 ]
序 日本人の日記
1 平安時代(入唐求法巡礼行記;土佐日記 ほか)
2 鎌倉時代(建礼門院右京大夫集;たまきはる ほか)
3 室町時代(大神宮参詣記;都のつと ほか)
4 徳川時代(戴恩記;丙辰紀行 ほか)
[ 問題提起 ]
[ 結論 ]
[ コメント ]
[ 読了した日 ]
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読み終わったにしているけど、実は全部を読みきったわけではない。面白そうな日記をかいつまんで読んだだけである。タイトルが芭蕉に「奥の細道」の出だしからとっているだけのことはあり、芭蕉の旅日記が一つの日記文学の完成であるとしている。ただし、日記だからといって、旅の真実(本当にあったこと)を書いているのではなく、あくまでも文学なのだということをこの本で知った。「奥の細道」って読んだ事がないけど、一度、読んでみたいと思うような説明である。
そういう点では、この本と次の続編にでてくる日記で、全編読んだといえるものは1冊もない。自分でも、タイトルをみて驚いたくらいだ。有名な日記などは、教科書で知ったりしてなんとなくは知っているが、全部読むってことはない。
そのため、この「百代の過客」に非常にうまく要約と説明がされているとそれだけで読んだ気分になれるし、しかも、どの説明も興味深く、中には原典を読もうかと思ってしまうものもあるのだ。実際には、「奥の細道」を読まないのと同様に、決して読むことはないのだが。
この本の日記の説明文中で、何度も繰り返し読んだのは「蜻蛉日記」だ。平安時代の女性の日記である。
作者のドナルド・キーンは、他の日記についての記述でもこの「蜻蛉日記」を何度も引き合いにだす。
「蜻蛉日記」は、平安時代の女性で、風習も生活もなにもかも全く違う。しかし、「蜻蛉日記」に書かれていることには、「真実性を読むものに感じさせ」「個性が具わっている。好き嫌いは別にとして、彼女は私たちと同じ人間である」と感じさせる、強い普遍性があるからだ。自己憐憫や憎しみ、嫉妬心、不幸な気持ちといった感情は、どの時代の人間も持ち、変わらないのだ。
この「蜻蛉日記」の箇所を読んでふと思ったのは、松田聖子の歌のことだ。正確には覚えていないのだけど、昔見たNHKの番組で、松田聖子の歌がこんなに長続きするとは思わなかったと言っていた人がいた。少女がある男の人を「好き」と歌っているだけのことなのだが、そこにこそ「普遍」があったのだ、と。
普遍とは、実は、立派な思想とかよき行いとかではなく(いや、そこにも普遍はあるのかもしれないが)、男に愛されたいと思いながら自分の思うようには愛してくれない男のことを恨み、哀しむといったそんなささいな人間の感情の中にあるものなのだ。
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『蜻蛉日記』や『更級日記』といった有名どころはもとより、私など読んだことも、知っていさえもしなかった中世の連歌師たちの旅日記、江戸の学者の日記など、日記(記録文学)がたくさん取り上げられている。
序文に、筆者が日記に興味を持ったきっかけが書かれていた。
太平洋戦争中、語学の適性を買われて日本語教育を受け、情報分析の任にあった人とのことは、以前から知っていた。
序文には、戦場に遺棄された日本兵の日記を解読する任務だったと書かれている。
死を覚悟せざるを得ない状況に追い込まれた兵士の書き残した日記に深く感動したそうだ。
そして軍務違反を承知の上で、いつか日本に送り届けたいと思って持ち帰ったというエピソードが紹介されていた。
それがこの大部な本を書かせる原動力になったということに、感動した。
読んだのがちょうど七〇年目の八月十五日だったせいかもしれない。
キーンさんはこの本を、あくまでも外国人の視点で書いたと言っている。
それが時には、若干違和感を感じさせることもあった。
例えば平安貴族の漢文日記などは、歴史的資料としてしか私たちは見ない。
だからそこに個性や豊かな感情を見出せなくて当然だと思うのだ。
そこにそんなに感情移入しようとしなくてもいいじゃないか、なんて思う。
しかし、やはり教えられるところも多かった。
『明月記』。
有名な「紅旗征戎吾が事にあらず」は、清盛の福原遷都の時期に書かれたのではなく、後鳥羽上皇の反乱の頃に書かれたもので、武家の政治に背を向けるのみならず、天皇にも与しないという立場でを表明したと読むべきなのだと。(辻彦三郎さんの説の紹介ではあるが)
今までの見方ががらりと変わるのは、やっぱり面白い。
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定型を繰り返し皆で同じ反応をする名所、例えば八つ橋と杜若。
定型をなぞりつつも滲み出る作者の個性を探す楽しみ。
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世界各国の日記とは異なり、日本の「日記」に文学性が見出だされるという主張のもと、日本の諸「日記文学」を解説したもの。
憶測だが、ホンネとタテマエが強く相関した思想の反映と言えるか。
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平安期から江戸末期までの日記を数多辿ることにより、結果的に日本人の普遍的な心性を見出そうと試みられている。確とした結論は見当たらないが、多くの読者は日本人の普遍的な心性の何かを感じ取るのでは。特に芭蕉への筆致には感動をおぼえる。
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平安時代の「入唐求法巡礼行記」(838年〜)から幕末の「下田日記」(1854年,年号は発行ではなく,それぞれに書かれている出来事の年)まで,日本人による78の日記の紹介と解説.これらを通して日本人,日本文化が浮き彫りになる.
現代語訳は限られた部分にしかつけられておらず,本書のちょうど後ろ半分に相当する室町時代,徳川時代のものには皆無であるため,斜め読みが出来ず,読破に非常に時間がかかったが,生粋の日本人ではないキーンさんならではの見方,つまり我々にとっては当然であって見落としてしまう日本人の特徴も述べられており,非常に興味深い.
恥ずかしながら,ここに出てくる日記は一つも読んだことはないのだが,少なくとも「奥の細道」はちゃんと読んでみようと思った.
と,読み終わったところで,本書の<続>編があるという,衝撃の情報を知ってしまった.読むべきか・・・・・?
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(いったん売却後、140927 中央図書館)
円仁の『入唐求法巡礼行記』から幕末の日記にいたるまで、超名作からほぼ無名の日記80編近くを年代別に簡潔に解説し、日本における日記文学の一覧となっていると同時に、日記文学が近代の私小説との親近性を持つ日本文学の特殊性を浮かび上がらす構造となっている。
とりわけ著者の芭蕉への傾倒は深い。
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もとは1983年から翌年にかけての朝日新聞での連載。著者と日本人の日記とのかかわりは、戦場に遺棄された日本兵の日記の翻訳からはじまった。日記というのは日本に特有の文学作品としての形態だという。本来的な意味での、記録を目的としてリアルタイムにつけられた日記もあるが、平安朝の日記に代表されるように、回想によって書かれた文学作品としての性格が強いものもある。個々の日記にたいする興味もあるし、平安時代から徳川時代までずっと経年で読んでいくと、日本語・世相の移り変わりをも追うことができる。
・『土佐日記』には土佐で亡くなった娘を弔うというテーマがあると言われている。そういう個人的な思いが見えるところに著者は重きを置いている。
・平安朝から鎌倉時代くらいまでの女性による日記は作者の個性が前面に出てくる(蜻蛉日記、更級日記、成尋阿じゃ梨母集、うたたね、とはずがたり等)。中世になってその傾向は減退する。そもそも現存する女性による日記自体が少なくなる。
・鎌倉時代から和文の中に漢語が取り込まれる(海道記)。
・源平の乱や南北朝の乱など、当事者に近いものが記録した日記がある。応仁の乱は、それによる荒廃の記述はあるが、当事者による日記はすくなくとも収録されていない。
・先人の訪れた歌枕で自分も歌を詠んだりするのが旅日記の基本。ただオリジナリティ欠如に著者の点は辛い。
・キーン先生、芭蕉推し。順当なんだろうが。はじめて職業作家として書いたと。
・幕末の日記も面白い。
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ドナルド・キーン博士が、日本の日記について書いた本。1983年から朝日新聞紙上に連載されたものが1984年に本となり、2011年に文庫化されたもの。平安時代から江戸時代までの様々な日記を取り上げ解説している。日本人でも研究が十分進んでいない資料を含め、極めて精緻な研究がなされており、ただただ驚くばかりである。訳もすばらしく、全く違和感がない。偉大な作品といえる。
「私の知る限りでは、日記というものが、そうしたもの(小説や随筆)に劣らぬぐらい重要だと思われているのは、ほかならぬこの日本だけなのである」p11
「伝統の消滅を嘆く人は常にいるものだ。このような保守主義は、頭から馬鹿げているとは言わぬまでも、所詮無駄な抵抗のように思われる」p162
「きちんとして正式なことについて書くには、漢文を用いるのがよい。だが歌のように、人の心から自然とわき出るような事柄を伝えるには、仮名にしくものはない」(飛鳥井雅有)p244