投稿元:
レビューを見る
小学5年生の恋(れん)ちゃんが、大好きなおおばあちゃんの死を見つめ、受け入れるまでを写真で綴る
恋ちゃんのおおばあちゃんは、しばらく前から病気で寝たきりである。
ある日の夜遅く、おおばあちゃんは息を引き取る。朝、いつものようにおばあちゃんにおはようを言いに来た恋ちゃん。おかあさんは「おおばあちゃんにあいさつをしてあげて」と言う。
簡単な説明とともに、淡々と臨終前後を見つめる、静かな写真集である。
おおばあちゃんの穏やかな死に顔。
ぽろりと涙をこぼす恋ちゃんの横顔。
おおばあちゃんの手や足にそっと触れる恋ちゃんの手。
元気だった頃、さらに若かった頃の大おばあちゃんの写真。
最後の恋ちゃんの笑顔。
1枚1枚の写真に見入ってしまう。
人が人を見送る。
もう40年近く前だが、曾祖母は家で亡くなったなぁ。いつからだろう、病院で亡くなる人の方が増えたのは。在宅看護に伴う大変さは、もちろんあるのだとは思うが。
作者は写真家・ジャーナリストで、紛争地帯や貧困地帯の写真、また東日本大震災の取材を続けてきた。近年は、在宅医療や看取りの撮影に力を入れ、医師らに同行取材しているという。
投稿元:
レビューを見る
小学5年生の恋(れん)ちゃん。大好きな竹子おおばあちゃんが92歳で亡くなりました。
90歳をすぎても元気で毎日畑に出ていたおおばあちゃんですが、急にからだが弱くなり、ふとんから出られなくなりました。恋ちゃんは、毎日おおばあちゃんの手を取り、いろんな事を話しかけていました。
そんなおおばあちゃんが亡くなりました。
親戚の人が集まって泣きました。恋ちゃんは、おおばあちゃんの顔をはずして「おはよう」といいます。いつものように、手にさわり、足をなでてあげました。恋ちゃんが小さかった時のおおばあちゃん、そして若かったころのおおばあちゃん。大切な思い出をお棺にいれてあげるのです。
やさしい寝顔のおおばあちゃん。いつまでも恋ちゃんの心に生き続けます。
人は死んだら、生き返ることはありません。リセットされないけれど、家族や友人たちの心には、ずっと生き続けます。
死=悲しい、とかだけでなく、命のつながりを死によってかんじる本。
投稿元:
レビューを見る
人はいつか死ぬ。
分かっていても、分かりたくない。
誰かが亡くなるときに、残された人はどんな表情をしてるのかな。
笑顔で見看るって、いちばんの孝行なんじゃないかな…
全ての年代の方に読んで欲しい一冊。
投稿元:
レビューを見る
病院ではなく、住み慣れた我が家で最期を迎える。
それが普通だった頃から考えると、今病院で迎える最期が全体の90%を占める。
死を迎える人を送る事で、実は我々は死を、生きる事を見つめ直す事が出来る。
最期を迎えた人を触ると、その冷たさに”ドキッ”とする。
しかし、そういった行為術全てが、残された者に永遠の別れを記憶ではくなく、体で覚えさせる事に通ずる。
しかし、死者はどこにもいないのではない。
想う限り、常に残された者の心の中で生き続ける。
そう思うと、悲しい別ればかりでなく、笑顔の別れが看取りにはある。
写真集の中で少女”恋ちゃん”は、おおばあちゃんとの別れをを通して、読者にそう話しかけてくるように思う。
投稿元:
レビューを見る
死は特別なことじゃない。
生きるということは死に向かっていくことなんだ。
そんなことをこの本は
とても自然に教えてくれました。
子どもだけではなくたくさんの大人にも観て欲しい本です。
投稿元:
レビューを見る
写真と文章の構成にひきつけられるが、もっとも注目したいのはあとがき、
絵本というくくりにも関わらず、真実を伝えたいという著者の思いが伝わってくる本です
途中で目をそむけたくなる本ですが。最後まで読むと”いのち”の大切さが感じられます。
1冊だけではなくてシリーズの4冊すべてを読むことをおすすめします。
投稿元:
レビューを見る
20141027読了
自宅で最期を迎えるということ。それは真夜中だったから、小学5年生が曾祖母の死を知らされたのは翌朝。ちゃんと対面して、触れて、語りかけて。大人がタブー視してひた隠すのではなく、忌み嫌って話さないのでもなく。理解力に合わせた声掛けで見守りつつ、身近な死と向き合うのは子どもにとって貴重な機会だと思った。命を受け継いだ側が最期のバトンをしっかり受け取らなきゃ、逝く人にも失礼だよね。
投稿元:
レビューを見る
今の子供達が自然と避けている(大人の事情で?)けど、
本当は、とても大切な事だと思います。
同居しているのがベストですが、交流を持っていない方は、
今からでも遅くはありません。
我が家も、いつ来てもおかしくない状況なので、
「避けては通れない日」をいかにして迎えるか、
子供達に知らせるかを教えられました。
連日、90代の祖母達と別れる際は、「バイバイ」「さよなら」ではなく、「また来るで!」「またおいでんよ!」と子供達と祖母との挨拶です。
投稿元:
レビューを見る
おばあちゃんを看取る小学生、故郷の自宅で最期を迎えたおばあちゃん、在宅医療を支える医師の営みなどを通して看取りの現場の写真集です。
あふれんばかりの生命力と愛情―「いのちのバトン」をしっかりとリレーした、あたたかな看取りの世界、人の絆を臨場感豊かに描かれ、話し声や笑い声が聞こえてきそうな気がします。生と死は切り離されたものではなく、死は日常の延長にあるものだということに気が付きます。そして死はけして終わりではなく、私たちはみんな誰かの「いのちのバトン」を受け取り、いずれはそのバトンを誰かに渡していくのだと思います。
投稿元:
レビューを見る
前の夜おそく、小学5年生の恋(れん)さんの“おおばあちゃん”(曾祖母)は静かに息を引き取った。翌朝そのことを知らされた恋さんは、目を閉じたおおばあちゃんと対面する-
この写真集では、無言のおおばあちゃんに向き合う恋さんの言葉にならない表情が、実に豊かで多くを物語っているのが読み取れる。
しかし大人である私はもう1つの点に注目した。それは恋さんの両親やおばあちゃんといった大人も、彼女に並ぶくらいに豊かな感情を表出しておおばあちゃんに接しているのが写されていることだ。
私はそれらを見て、恋さんがなぜ臨終を迎えたおおばあちゃんにあんなに落ち着いて、優しく、初めての看取りにも臆することなく接していたのかが理解できた。
恋さんが自然な看取りを身につけるための心の栄養のもとになっていたのは、まわりの大人たちだと思う。言い換えると、両親やおばあちゃんやおおばあちゃんが彼女の成長をみんなで暖かく感情豊かに見守ってきたおかげだ。
だからこの写真集は看取りの1日だけしか記録されていないけれども、それまでのこの大家族の歩みが凝縮されて写し出されている。
また、まわりの大人たちが普段から恋さんを一人の個性をもつ人間として尊重していたのだろうな、とも思った。夜中のおおばあちゃんの今わの際に、あえて寝ている恋さんを起こさず、朝起きてから看取りをさせたのは、おおばあちゃんだけでなく彼女の日常も大切にする家族の思いやりだと感じた。
つまり、子どもの心の成長を願うならば、看取りが近づいてから考えるのでは遅く、日常から大人自身が心豊かに、そして言外の思いやりを伝える力を身につけていなければいけないってこと。
その大人の姿勢が普段の生活の積み重ねの中で少しずつだけど自然に子どもに伝わることで、恋さんのように、はじめての看取りでも物故者に礼儀と愛情と尊敬をもって向き合うことができるようになるのだろう。
子どもがリアルな死に対して無理解なのは、ゲームの影響だけではない。まわりの大人が日常から心豊かで、かつ言外の思いやりを子どもに伝えられる生活をせず、子どもの心の成長の栄養となりえていないからだ。
投稿元:
レビューを見る
こうやってみんなで旅立ちを見送るのが理想的だな。生まれて死ぬこと。人の一生とは何か。死に立ち会うことは残された生きる人に大きなものを投げかける。旅立つ人からの最後の贈り物なのかもしれないな。死に向き合った恋ちゃんをきっとこれからもおおおばあちゃんが支えてくれる。