紙の本
祭の夜も寂しい
2012/10/28 21:17
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投稿者:SlowBird - この投稿者のレビュー一覧を見る
パヴェーゼとはファシズムと戦った人なのか。逮捕され流刑にされた身の上だが、闘士というよりは詩人であったろう。そもそもが巻き添えでの逮捕だったが、そのこと自体によってポジションが色分けされてしまい、暮らしていく空間が定められてしまったかもしれない。
何より彼に去来したのは、愛した郷土に裏切られ、親しい人々と切り離されたことの哀しみ。それから愛した人からの裏切り、あるいは自分が裏切ることになった哀しみ。その透明な哀しみが結晶したような作品集だ。
題材はそのまま流刑中や受刑者である身の上や、その周辺の人々。貧しく、粗暴で、しかし明るく、狡猾で、女好きで、そういう人々を作者は愛してやまないのだ。農夫や人夫である彼らは、純朴であるばかりでなく、経済的な搾取の問題に薄々気付いていて、それゆえに怒りは政治体制や、それを支えているキリスト教的道徳に秘かに向けられていることも作者は感じている。
その点、女達の怒りの矛先は男に向ければ済むのだが、どの男もろくでなしばかりなのは、その先に限界があるせいだし、救いの求め先も限られる。
せめて男も女も、様々な制約からの逃亡先に、恋愛の世界は一見自由とも見えるのだが、その幻想と現実は少しずつ乖離していく。耐えられなくなった者から破局を迎えていく。たぶんそんな構造は遥か過去から連綿と続いていただろうが、パヴェーゼはそれを言語化する術を得た。イデオロギーなり論理なりの進歩と、パヴェーゼ自身の経験がそれを為さしめたのだろう。
表題作は、祭のさなかにも自分浮かれ騒げない人々、逃亡するか破滅するかのぎりぎりの状況を抱えた人々の話だ。神父も役人も、それが個人でなく社会構造の問題だと分かっているがどうしようもない。「ならずもの」の殺人を犯した脱獄囚は女のもとを訪ねるが、看守も世間の人々もあまりぴりぴりしてる風がない。結局は同じ境遇の仲間で、自分と近い精神性を持っていることを了解している、理屈や建前よりもそういうコミュニティの結びつきを信頼しているところにも、新しい世の中への希望の芽があるのではないか。
「丘の中の別荘」は一転して非産階級風の若者の挫折らしきスケッチだが、繊細さ故に傷ついていく彼の姿は、同時代の工員達とも共感できるし、現代の不安にさらされ非リア充化を恐れる若者達にも通じそうだ。
悩み思索に沈んで、世間の華やかな部分に違和感を感じる人たち。彼らは坑道のカナリヤなのかもしれない。農村に、都市の底辺に、そうした人々がこの時代に現れていたことを敏感に嗅ぎ取ったのは、類いまれな感性であり、現代でもまた必要とされる共感力だろう。
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パヴェーゼの魅力は、裏切りや孤独という自己に内包されて行く円が中心に向かって進んで行く過程で、収斂がいつか反転し、外へ向かって、世界に対して広がりを見せる極点に到達する閾が存在することだ。
極端に個人的な内容こそが世界と繋がりうる。時代を超越し、この時代においてなお世界に対する問いがなされている。
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パヴェーゼは超短篇もよいです。個人的に一番気に入ったのは「ならずもの」。特に最初の、部屋(牢屋)に差し込む光の描写が、部屋の闇を際立たせて、夜におこる物語全体の闇を美しくしていて、とても印象に残ります。謎の神父?とほかの囚人たちの対比もよい。ただ、文章がぎこちないのは結構気になります。原文はどういう感じなんだろうか…?
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煙草とカンフルの臭い、そして消え行く村の記憶の中で
「祭の夜」昨日買ってきたこのパヴェーゼの短編集には、集英社版世界の文学14にこの短編集の中から4編、「流刑地」、「自殺」、「丘の中の別荘」、「麦畑」を収録。
もともとは晶文社版「チェーザレ・パヴェーゼ全集」が進行中であったが、晶文社の社長中村氏が亡くなったことにより企画は「自然消滅」したと河島氏。翻訳は続けていて、「叙事詩の精神ーパヴェーゼとダンテ」、そして「パヴェーゼ文学集成」がともに岩波書店から。岩波文庫ではその「集成」から「流刑」、そしてこの短編集「祭の夜」(パヴェーゼの自殺(1950)後、カルヴィーノが編集したもの)が敷衍版として出版。
ということは、先の4編は以前読んでいるということか。前の日記見てみると、点描画のような素材をそのまま並べ、混ぜるのは読者に任せるということと、キーになるポイントを作品中に明言しないということが書いてあった。
とりあえず、前に読んだとは知らずに、そして気づきもしなかった(「自殺」だけだと思っていた」)「流刑地」から最初の方…
つまり、過ぎ去り、移ろい、消えてしまったものだけが、ぼくたちにその実相を現わすのだ。
(p9)
南イタリアへの流刑からトリーノ(この文庫の表記従う)に恩赦で帰還した時点で流刑地の村を想起する。そちらの方だけが「実相」という。この辺り、かなりパヴェーゼの実体験に近い。パヴェーゼ作品が全て「自伝的」かはこれからこの作家と付き合う際の重要ポイント。
で、「流刑地」では妻に裏切られたという共通点を持つ男2人が語り手の間をぐるぐる回るという印象。この作品に関しては今回は「絵画的」ではあっても「点描画」ではない気がしたのだが…そいえば、浜辺に古びた小舟がある風景というのはなんとなく前回の記憶に残っている。でも、最後の1ページは自分には理解を超えて遠ざかっていった文章。「残った二人」というのは語り手を除くオティーノとチッチョなんだよね…と再確認する間に…
地平線の向こうには何があるというのだろう、語り手にとって。
あとは解説で、この短編と詩篇を書いていた時代のパヴェーゼに個人教授を受けたというパーオロ・チナンニの回想が興味深い。書棚の本と読みかけの本、パイプの煙と医薬品のカンフルの臭い…
(2018 02/12)
60ページくらい進んだ「祭の夜」。
今回は「新婚旅行」。といってもパヴェーゼだから?孤独な男とそれを回る衛星のような妻と…妻は夫に接地することもできない。側から見るとなんで?という感じなのだが。
駅に立ち寄っては、煤煙や雑踏をしきりに観察した。ぼくにとって幸せとは、つねに、遠い土地での冒険を意味していた。それは旅立ちであり、海原を行く船であり、異国の港へ入っていって錨を投げ出すときの金属質の轟音であり、叫びあう声であり、尽きない妄想だった。
(p46~47)
この文章が自分にとっては上の問いに近づく手助けになるかもしれない。あと印象的な場面はこの節の最後の、夕食の鍋を煮るガスの炎を通した、繋がりを見失った家の風景。
(2018 02/26)
「侵略者」と「三人の娘」
パヴェーゼの「祭の夜」から標題2作を朝読む。
「三人の娘」から。
なぜ、初めのころ、あんなに浮かれた心で家を出たのか。なぜ、無性に外に出たくて、前ばかり見つめて、どの街路にも、建物と建物のあいだに開けてゆくあの一筋の空があって、嬉しくてたまらなかったのか。そういうことは田舎では意味をもたない。空がありすぎるから、そして誰の役にも立っていないから。
(p94)
前の「新婚旅行」でもこうした文章を引っ張ってきたと思う。パヴェーゼの基調を流れるものだろう。そしてそれは何かの裏返し?
裏切らぬこと、せめて自分自身だけは。河原へ戻って、過去を呼び覚ましてもよい、だが、一足一足を、一つ一つの視線を、思い返してみるのだ。いや、むしろ、目を閉じるのだ。
(p103)
引用したかったのはここではない気がするのだが…
とにかく、こうした「自分一人に戻る」のがこの短編の主要テーマ。それは、「侵略者」にも通じる。あの牢獄の中で「侵略者」となったのは、実はどちらなのだろうか。
(「三人の娘」の中で「侵略者」という言葉がこの意味で出てきたと思っていたのだが)
(2018 03/19)
「祭の夜」からパヴェーゼの閑やかな大気
短編集表題作。農作業を行うパードレと少年達の共同体に、遠くの街から祭の物音がしてくる。という設定。
パヴェーゼ作品が始まると、これまでのどの作品でも共通に、静かな大気が密かに張ってくるように感じる。この作品ではこんなふうに。
丘の麓では、太陽が反対側へ沈むとすぐに、大地はみずからのひかりで白みはじめる。岩石や露わな事物が、密かに、爽やかな光を発するのだ。
(p114)
ガラスのように張りつめた大気が、少しずつ霞んで暮れてゆき、遠くの物音を和らげ、物音を孤立させていった。
(p121)
しかし夜はまったく虚ろに、敵意にみちて中空に懸っていた。
(p132)
後半は翌日(以降…)
(2018 03/29)
四静一転
一昨日読み始め半分くらい(3章まで)進んだパヴェーゼの「祭の夜」(表題作)ですが、昨日と今日でやっとさっき読み終えた。これなど「大事なことを語らないパヴェーゼ」の典型例かも。
夜がさまざまな感覚を掻きたてることを、初めて知ったのです
だからこそ、夜は眠るに限るのです
(p163)
(引用中「」を省略)
前者はプロフェッサーの、それを受けた後者はパードレの会話。これは第5章、その前の第4章の後に、プロフェッサーと女はどこへ行ったのか。
プロフェッサー(一ヶ所「先生」となっているところあり)というけれど、実際何している人物なのだろうか。案外に何もしてない人なのかも。というわけで、この人物なんとなくパヴェーゼ自身を重ね合わせてもよさそうな気がするのだが、一方パードレの方は全くの他人設定かというと、それはそれで違う気も。
最後に構成面。5章のうち1〜3章と5章はパードレの農場での静かな場面、4章だけ飛んで村の祭の喧騒の中のプロフェッサー。静と動の対比が作品の味わいを律している。
(2018 03/31)
「ならずもの」、「自殺」
パヴェーゼ「祭の夜」から「ならずもの」(一昨日から昨日)と「自殺」(今日)を読んだ。前者はこの短編集の中では「祭の夜」と並んで長い作品。構成も章形式(またしても5章)。海沿いの町の刑務所を焦点として、なぜかここに1日だけ収容される(また移動する)神父と、この刑務所から脱獄(といっても鍵かかってなかったらしい)したロッコという男が交互に描かれるという構成。刑務所の窓に象徴される区切られた光、光景、外から聞こえてくる物音といったものが人物と同じくらいの存在感を作品中に与えられている。パヴェーゼの文章は、ここでも独特な読んでも読んでも何が起こっているのか謎にはまってしまうような書き方で、例を挙げれば第3章最後(p238)のラストでは神父はどういう姿勢をとっているのか、寝床に入っているのか否か自分にはわからなかった(理解力がないだけ?)
後者はパヴェーゼ短編の中でも取り上げあられることが多い(集英社版「世界の文学」だけでなく、池澤夏樹の「個人全集」の短編集でもこの作品が選ばれている)。これも章形式(4章)だけど、語り手や視点人物が変わるなどの構図はあまり変化がなく曖昧。語り手のぼくがどこまでパヴェーゼと同じなのかは全くもって不明だが、パヴェーゼの場合ある程度は共通のものがありそう。とにかく語り手が誰かを失ってカルロッタという女に出会い、カルロッタもまた夫を失い・・・というずれ構造が続いていくが、そこでカルロッタのように「自殺」する人と、ぼくのように「自殺」しない人には何の違いがあるというのだろうか。語り手ぼくはなんとなく自殺しなそうだけれど、作家パヴェーゼは自殺してしまった(グルニエの「書物の宮殿」にパヴェーゼが10代の頃に書いた自殺に関する詩があった)。
あと「祭の夜」編集出版したカルヴィーノだけれど、パヴェーゼとの文学的共通性は今まで感じてなかったけど、こうしてみるとかなり繋がりはあるのかも。
(2018 04/15)
「丘の中の別荘」、「麦畑」
というわけで、咲夜遅く「丘の上の別荘」を、今日午前中に「麦畑」を読んで、「祭の夜」全体を読み終えた。
「丘の上…」は金髪の青年(パヴェーゼにとっては金髪は他人性の象徴)に自分の若い頃が重ねられているという、少し変わった作品。「麦畑」は「三人の娘」と同じく女性が視点人物となっている。
(2018 04/16)
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なかなかすごかった。濡れ雑巾を投げつけられたかのように、冷たくビターンと胸に貼り付いた。何か太宰治の「桜桃」「トカトントン」みたいーと思ったら、この人も自殺してた。
レオーネ・ギンツブルグの立ち上げた出版社に入社。職を得るためにファシストに入党する。ギンツブルグが逮捕され、本人も逮捕島流し。
そういう政治的に犠牲を得た人。
作品は言わずもがな、「理由はないのよ、でも今日曇ってるから何か生きるのしんどい、足だるいし」そう言った感じの。。。なんだかねー、退屈してる女にはモテたりしてる。だからほぼ太宰。
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淡々とリアリティの日常を描いているけれども、時に人間の内側をえぐり出すような描写をする。サラサラ読んでいたのに急にパンチを喰らう時がある、そんな感じの作家ではないだろうか。初めて読んだ作家だし、そもそもイタリアの作家はカルヴィーノしか知らなかった(しかも読んだことはない)から、こういう感じかあと思いながら読んだ。イタリアも作家に興味が出てきた短編集(これはカルヴィーノが編集)。日常感の中の意外性をみたい方は是非。
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初めてのパヴェーゼ。
素晴らしかった…!!
美しい文章なんだけれど、時々驚くような事が書いてある。
彼の人生はどうやら波乱に満ちていて、その繊細さ故に苦しみも大きく、自殺してしまった。
あとがきを読んで、若干自伝的だと分かった。
他にもパヴェーゼ文学が積んであるので、色々読む覚悟でいます。