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ここしばらく「男性性と女性性の結合」、「対立物の結合による全体性の回復」とか、ユング系のトピックを探究していたのだが、ちょっと気晴らしに若桑みどりさんの美術史の本を読んでみる。
という、つもりだったんだけど、読んでみれば、「美術史」というよりも、「社会におけるイメージの活用史」とでもいう内容で、その視点には、「フェミニズム」とか、「ポストコロニアル」みたいなのが入っていて、どっぷり「男性性/女性性」のテーマのなかにありました。(まあ、なにを読んでも、最近はそういう頭で読んでしまうわけだが)
この本で、対象とされるのはいわゆる美術だけでなく、より民衆レベルの戯画とかも対象だけど、著者の専門とする西洋というか、西欧の話しが多いですね。
ギリシアから始まり、中世〜ルネサンス〜フランス革命〜ナショナリズム〜ファシズムという流れで、政治とか、宗教とかのなかであらわれるイメージの分析。なかでも、「フェミニズム」という視点から、旧約聖書の外典にある「ユーディット」という女性英雄の分析(その絵が表紙になっている)とフランス革命期に市民のシンボルになった「マリアンヌ」の分析が冴えている。
公共の場に、彫像として何を置くのか、というテーマもしばしばでてきて、民衆に対する為政者のメッセージ伝達の方法として、重視されてきたことがよく分かる。
そういう流れの中で、最終章の東京の都庁をはじめとする公共の施設における女性の彫像の分析は、新鮮。著者も西洋的なイメージ解読のメンタルモデルを手放して、改めて、現実を見てみたという感じで面白い。
個人的に一番驚いたのは、本論からは外れるんだけど、キリストの母マリアに関する教義のところ。
マリアの処女懐妊は、聖書には明記されておらず、初期のキリスト教ではこの信仰はなかった。これが、長い論争の末、カトリックの教義として公認されたのは、なんと1854年であった!
え〜、処女懐妊って、そんな新しい話しだったの???みたいな。(公認された教義ではないけど、民間の信仰としては、かなり長い間あったものらしいが。。。)
この辺の話しは、ユングの「ヨブへの答え」で、「聖母マリアはキリストから天国に招かれて、身体のまま昇天した」という、いわゆる「聖母の被昇天」の教義が1950年に公認されたことに関する議論を最近読んだところだったので、面白かったな〜。
あと、キリスト教には、「予型論」という「旧約聖書のなかにある話しは、新約聖書のなかの話しとあらかじめつながっている」、つまり、予告編みたいなものであるという考えがあるらしい。
この辺は、「ヨブへの答え」で、ヨブの試練がキリストの誕生を準備したという話しと似ている。旧約聖書と新約聖書をつなげるのは、ユングの心理学的な解釈かと思っていたのだけど、キリスト教のなかにもともとそういう「予型論」というのがあって、ユングもある意味その連続性のなかにいたのだな、と思った。
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絵画、彫刻、風刺画を白人男性”ではない”視点から批評するこの本に相応しく、表紙はアルテミジアのユーディット。漫画だって、西洋古典絵画だってそこには読み方が存在する。その読み方を知れば、美術鑑賞はスルメのように長く楽しめるはずなんですが、こういうのを中学校とかで知りたかったなぁ。
12章はフランスの植民地政策の一環で、あくまで啓蒙的な植民なんですよというアピールのためのイメージ像が分析されている。アジアやアフリカは裸の女性として象徴され、そこにフランスが光を与えたというようなイメージだ。これって、日本がアジアを植民地にしたから現地にもいいことがたくさんあったんだ、という理論と同じですね…
また、この本を読むと権力者がさんざんギリシャ神話のイメージを利用してきたことが分かる。ギリシャのデフォルト騒動の時に、その他EUヨーロッパの国の対応が妙にやさしいなと思いましたが、ここに理由があるのかもしれない。
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西洋美術を中心に、多くは権力者であるパトロンの意向によって芸術家が生みだすイメージの変遷、絵画や彫刻によって喧伝されたイメージが社会に与える影響を、ジェンダー的・ポストコロニアル的視点で見つめ直す。また、西洋の伝統を無批判かつ無神経に受け継いでしまった20世紀日本の公共美術のあり方を問い、芸術の社会的役割から目をそらし続けてきた評論界にあって自らを省みる著者の誠実さが深く染み込んでくる、文化史の入門的な名著。
どこで紹介されていたのか忘れてしまったけど、若桑先生の著作のなかでも特に名著と呼ばれているのを知って以来、ずっと読んでみたかった一冊。
元は放送大学のテキストだったそうで、美術評論の歴史を概説した理論編と、実際に作品を通して当時の社会状況を読み解いていく実践編の二部構成になっているのが大変わかりやすかった。理論編では、なんとなくわかった気で済ませていた表現様式の移り変わりを最後の晩餐を描いた絵画の比較で説明され、古代ギリシャが〈聖典(カノン)〉として現代に至るまで大きな影響力を持つことを具体例で示されるので、西洋美術の見方の基本を学び直すことができた。古くから権威を奮ってきた男性中心主義的な見方が反省されつつあることもここで語られている。
実践編ではより詳しく、女性=〈征服される性〉というイメージがカトリシズムと結びつき、処女懐胎する〈聖母〉のイメージを生みだしたことをまず見ていく。「マリアの身体活動は停止している。マリアに許されている身体活動は二つしかない。それは『授乳』と『涙』のみである」。若桑先生には『聖母像の到来』という著作もあるが、本書でも聖書にない〈無原罪受胎〉を教会が正統化していくプロセスを詳しく追っているのがとても助かる。
また、メディチ家の庭にあったユディト像が一度は共和国のシンボルとなるも、結局はミケランジェロのダビデ像と入れ替えられた経緯を追う8章「女性英雄の問題」は特にスリリングで面白かった。昔プロテスタント教会に通っていたのでユディト書という外典の成り立ち自体に前から興味津々なんだけど、女性が男性を倒すと〈英雄〉譚ではなく〈ファム・ファタル〉の物語になるという、現代のエンタメ作品にまで続く問題を取り上げていてとても面白い。
理論編の後半では国の象徴として女性像が用いられたことから自由の女神像の読み解きへ、そして帝国主義とオリエンタリズム、ナチスのプロパガンダへと論が及ぶと、男性性の神話は悪しきものだと歴史がすでに証明しているにも関わらず、いまだに信仰されているのが不思議で仕方なくなる。ヨーロッパにとって〈制服すべき土地〉だったころの北米の象徴はネイティヴ・アメリカンの少女で、白人が北米を掌握したあとはフェアネス強調のためにその象徴が首長的な大人の男性像になるという推移は、イメージを浸透させる側の卑怯さにつくづく呆れる。またホワイトヘッドの『地下鉄道』にでてくるまんまの植民地博物館が紹介されている。
しかし、本書を名著にしているのは最終章「二十世紀の日本 東京の公共彫刻」だ。ここで若桑先生は、当時勤務していた大学の他学部の女子学生たちからの率直な指摘によって、自��がそれまで男性目線にチューニングされた美術の見方を内面化していたことに気がついた経験を語っている。そして女子学生たちが疑問を持つきっかけとなった、公共の場に置かれた彫刻を新たな目で見つめ直していくのである。若桑先生が見て驚いたという「豊展観守像」を画像検索してみたら本当にびっくりした。私には不快というより「特殊な性癖の人の作品なのかな…」という困惑が勝ったが、そんな像が公共物として置かれているのはよく考えれば異常ではある。そういえば自分の小学校に体育座りしてパンツが見えている少女像が置かれたとき、なんなんだろうと思ったな…など、封じ込めていた問題意識に読みながら気づかされた。「日本の都市空間に林立する意味のない裸婦像は、その意味の無さゆえに選ばれたのである」と語る若桑先生は、同時に20世紀の日本社会そのものの病理を語っている。21世紀になった今もまだ我々は過渡期にいる。
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絵画・彫刻をはじめとするあらゆるイメージの、とりわけ「女性」というモチーフに何が求められてきたのかが古代ギリシャから現代に至るまで丁寧に分析されており、なるほどと(なんとなくわかってはいたことが明快に言語化されているが故に、結構ショックも受けた……)。特に、イギリス・アメリカ・フランスに於ける「自由」の捉えられ方、彼らの国家としてのアイデンティティの形成のされ方の違いを辿った上で、日本の公共彫刻に見られる謎の女性裸婦像を論じているのが面白かった。
あらゆる歴史上の国家・権力者の打ち出すイメージには当然のことながら(毒々しい・自分勝手な)メッセージが包まれていることを忘れずに、与えられたイメージを鵜呑みにして考えることを止めてはならないと強く思ったし、この貧しくなる一方の本邦において未だクールジャパンなどと独りで寂しく言い続けている様子に白けながら、この国の誇れるシンボルとは一体なんなのか、そんなものあるのか、作れるのだろうかとぐったりした。
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「有名芸術家の名作はもとより、版画や挿絵、広告や記念碑に至るまで、美術作品が、何のために、どのように描かれてきたか-それが「イメージの歴史」だ。ここではさまざまな学問領域を自由に往来し、ポスト・コロニアル的かつジェンダー的な視線で従来の美術史を書き換える。絵画と社会のかかわりや画像の解釈方法などの理論を踏まえ、さらに西欧文化が繰り返し描いてきたイメージにメスを入れ、その精神的・社会的な背景を明らかにする。レイプを描き続けたのはなぜか、新しい政治形態はどのような画像を生んだか-人間の想像力に新たな光を当てる美術史の誕生。」