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大学の課題図書に入っていた本。中公クラッシックスで出て買ったのが2001年。13年かけて読み終わった。最低でもあと3回は読まないとちゃんと理解はできない。でも人生にもうそんな時間はないだろうな。
ブラジルを分け入る部分は、ディズニーランドのジャングルクルーズそのもの。
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南米の少数民族についての解説が主となる下巻だが、やはり白眉なのは第九部にある「一杯のラム」。民俗学者とは自らが所属する文化からも研究対象とする文化からも「よそもの」であることを自覚しながら、また民俗学というという分野自体が他の民族を踏み付けにしてきた証左であることを理解しながら、それでも目を見開こうとする態度表明にはどうしても心動かされてしまう。イスラムへの不理解と仏教への過度な賛美を表し、ストロースもまたサイードが批判したオリエンタリズム性に縛られていることが透けて見える最後に少しだけ心を痛めながら。
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私はこの人類探訪記が一体どこに帰着するのかとても興味深く、辛抱強く見守りながら読み進めて来た。
そしてようやく読み終えた!
その結論が「何もするな、それが一番」だというから唖然とする・・・。
つまり、歩みを止めろ。都市も畑も全て、構造を分解し無秩序にすべてを帰すための途上となるに決まっているのだから、その衝動と欲望を、押しとどめることが唯一有意義なことだ、と。
でもしかし、それはむしろ希望とするべきなのか、と考える。
というよりも、一体どこまで戻ったら希望や絶望の判断が出来るのか?という問題を、膨大な時間をかけて探求した本、なのかもしれない。
そして、もうどこまで戻っても、規範とするべき形はない。なんなら、今までもたったひとつだってなかったかもしれない、というのだ。
レヴィストロースを読んでいると、自分もなんだかひどく大きなものの一部のように思えて来るからついつい大袈裟なことを考えてしまうのだけど・・・
「何もしないが一番」という地平は、レヴィストロースが代わりに与えてくれたスタート地点のような気がした。
つまり、失われた、あるいは初めから存在しなかったスタート地点を、断片的な点同士を集めて、地道に繋ぎ合わせて、線でつなぎ、面にした。
そのつなぎかたは、人によって様々だし、合っているも間違っているもないような種類のものだけど、とにかく面が出来て、世界がある種の秩序(それは「補足の証明の集まり」のようなものだったのかもしれないけれど)で再び結び合わされた。
私たちは、この偉大な仕事の上に、もう一度スタート地点を設定してもよいのじゃないのだろうか、なんていう、大きな想いに駆られる。
私たちは歩みを止めるべきだ、という結論を仮にスタート地点として、一体、それは実現可能だと言えるのだろうか。私は、言えないと思う。
だから、別の方法を考えなくちゃいけない。
歩みを止められないとしたら、一体どうするのか。
私の頭の中には、考えながら既に笑い転げたくなるような、途方もない考えがいくつか浮かんでは消える。
夜の星でも観ながら、日本の片隅でとんでもない絵空事を思い描いてしまうのである。
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読み助2015年10月9日(金)を参照のこと。http://yomisuke.tea-nifty.com/yomisuke/2015/10/post-e114.html
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「世界は人間なしに始まったし、人間なしに終わるだろう」のフレーズは有名。単なる厭世観からの言葉かと失礼ながら読前は漠然と。
しかしながら前後二部のいわゆる先住民の生活をつぶさに観察洞察する学者の魂が発する名言、名フレーズの目白押しの最終章、幾度も読むべし
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感想といいますか、自分との化学反応を。
部族の首長だけが一夫多妻制になっていてそのあおりを食う男たちがいたり、首長は首長でその地位による優越はあるだろうが群れのリーダーとして忙しく群れのために世話を焼かなければならない。競争意識による刺激がほとんどない社会にもこういった差異があるのは、生来の差異のため――――以上はナンビクワラ族の考察部から。競争社会を批判し、競争のない社会がユートピアかもしれないと夢想しても、人間の個体差というどうにもならないものがあるのだから、完全な公平さが実現したユートピアにはなるものではないです。公平さの実現にはもっと人工的な操作が要るってことでしょう。人工的な操作が必要といったって、それでナチスドイツに代表される「優生学」方面に進んでしまったとしたら道を間違えています。人間の選別、遺伝子デザインではなくて、障害のある人でも笑って暮らせる社会へのデザインを考えるほうが豊か。文明の進歩で人工的にできることが増えていく、その力を活かすのはそっちだと思います。
しかし、最後まで読み進めていくと……。
人間には生まれつきの個体差があるから社会には多様性がある。そこから生じる良くない部分、つまり差別や立場の不均衡があるのでそれらをなくすため人工的に社会を平らで滑らかなものにしてしまうのが良いかといえば、でもそれは違うみたい。本書『悲しき熱帯』が照らす地平はどうやらそっちなんです。個体差という多様性を維持しながら差別をしないことはできます。これは多様性を認めるということで、他者に敬意を持つことでできますよね。では立場の不均衡はどうなんだろう。平滑にしてしまったほうがフェアな気がしますけれども、しかし不均衡な状態のほうが何かの拍子に一網打尽になりにくいのは多様性の強みと一緒かもしれません。かといって、生きづらい人たち・生きにくい人たちがそのままでいいなんてちょっと思えないですし。
きっと生きづらさの解消に関しては、やっていくべきは生存可能圏を開拓していく行為なんじゃないでしょうか。人間社会のハビタブルゾーンにはまだまだ広大な暗黒領域があって、そこを可視化された生存可能領域へと変えていくこと。だから、立場の不均衡の解消をしても多様性の強靭さを損なわないために、既存の社会領域を拡大もせず深掘りもせず小手先だけで器用にめくらましするのではなくて、創造に似た新領域の発見・開拓のイメージを持って考えるとよいのかもしれません。要するに、いま、生きづらい人たちが苦労しているのは棲み分けがうまくいっていないからではないのか。棲み分けのために必要な領域(生存可能領域)がまだ暗黒地帯に含まれていて、ずっと発見を待っているからなのではないのか。狭い領域にぎゅっと詰められている状態が今ではないかと仮定できるのではないでしょうか。
ということで、固い内容ばかりのような印象を持たれてしまうかもしれないですが、そんなこともないんです。たとえば、口内炎を痛がる言うことをきかない騾馬とレヴィ=ストロースの格闘は愉快でした……。
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エピローグの、文化人類学が成り立っている著者を巻き込んだ構造へ至るくだりはほとんど叙事詩だ。
イスラム教へのディスりに見える言及が注意を引くけど、社会構造は、成れの果てなにかを排除することにおいて成り立っていくことへの、著者の自らの属する社会において、観察者のみではいられないことの表明か。
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やっと終わったぜ…。Iよりは読みやすかったかな。
裸で暮らす原住民の社会も我々の社会も優劣はない。そのとおりだ。
最後のほうの宗教関係のとこは、ちょっと浅いというか、知識がだいぶ偏っているように思う。
トカゲとか蛆虫とか食べてるしカヌーで川下りまでしててすごい。それでも「ヒトの手が入っている」って落ち込んでる。
「森」の章、海辺のカフカを思い出した。迷宮。
私には難しかった。というか、普段は読みやすくしてくれている本を読んでいるのであるなと改めて思いました…。
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2022.07
長い長い旅が終わった。
どこまでも鬱蒼としていたと思う。
最後の考察の章は難解でほとんど理解できていないだろうけど、なんだか妙な達成感がある。
数年後に読み直したい。
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部族についての描写は丁寧である。ロバに乗って金属を訪ね歩くというたびである。ただし、熱帯だけでなく、イスラムの遺跡であるタクシーらやチャウンを訪ねていることも書いているのだが、これはここに入れる必要があるかどうかよくわからない。
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Iよりは、読み進めやすいが、第九部の回帰以降は難解。何故ここに載せてるのだろうかと、思いながら無理くり読み進め、難解だし、執筆時代を鑑みてもイスラムに対する認識が…読み難い。
何年か後に読み直して、理解できることがあるのだろうか…。訳の問題か。文章として成立してる?と思い、一文一文読み砕きながら、読み進めようと努力するも、結果むなしく。
8部で読み終えてれば、いい気分。
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第九部の最後の二章(「タクシーラ」「チャウンを訪ねて」)は蛇足だったのではないか。たぶん、原文が難しかった体と思われるが、訳も意味不明なところが多々見受けられた。
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本書には西洋文明を批判する民族学者としての自らの立ち位置をも相対化する著者の視線が織り合わされており、とりわけ終盤近くでそれが強くせり出してくる。したがって、彼の西洋文明批判に無邪気な喝采を送っていた読者は最後に足下をすくわれることになる。
挿入された戯曲『神にされたアウグストゥス』では、世俗に背を向けながら、実はそのことによって世俗の名声を得ようとしていた探検家の自己欺瞞が抉り出されるが、まさしくそれはレヴィ=ストロースの自画像である。民族学者は各々の社会の選択は相互に比較できず、それらはみな等価であると言う。しかし自分たちの社会では不正や悲惨を弾劾するのに、研究対象の社会でそれが生じても黙認するというのは矛盾ではないのか。その社会に同化できない以上、学問的な観察に踏みとどまるべきなのだろうか。こう自問するレヴィ=ストロースは自らの寄って立つ文化相対主義が孕むジレンマを直視しており、手放しで未開社会を礼讃しているわけではない。後年のサルトルとの論争を予感させるが、歴史の名においていとも簡単に現実への「アンガージュ」を説くサルトルの深刻ぶった楽天性に比して、レヴィ=ストロースのペシミズムがいかに深い葛藤を経たものであるかがうかがえる。
彼は民族学という学問の意義を固く信じながら、同時にその限界も痛切に自覚していた。それゆえの矛盾・葛藤をどこまでも真摯に引き受け、なお情熱と理性を失わず、自らの倫理においてそこに踏みとどまる。そして「他の社会をよりよく知ることによって、われわれは、われわれの社会から自分を切り離すことができる」という希望をもって「社会状態に内在している自然人の形態を再発見すること」に人類の未来を託そうとする。かつてこれほど誠実な民族学者がいたであろうか。再読し終えて改めて思うが、その型破りなスタイルにもかかわらず、何度でも読み返したい20世紀の「クラシック」である。