紙の本
成程と、興味深い知らなかった世界
2021/01/28 17:13
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投稿者:岩波文庫愛好家 - この投稿者のレビュー一覧を見る
誤植なんて、今時あるのかなぁ、というのを思い巡らせていましたが、本書を読むと、あるワあるワ、です。(実際に最近私も体験したものでは『娘のトリセツ』の著者略歴に於いて、○○大学率業となっていました。卒業ですよね・・)
同音異義語に始まり、平仮名での言葉の区切りなど様々な表出がある訳で、改めて日本語は難しいと感じます。勿論、日本語に限った事ではありません。外国語とて、スペリングが然りです。
本書は実に沢山の文筆家が誤植や校正について著した著述集です。思わず吹き出してしまう一篇から、うーんと考えさせられる一篇まで数多収録されています。
紙の本
誤植は大問題
2018/05/07 23:11
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投稿者:たあまる - この投稿者のレビュー一覧を見る
いろんな人が校正や誤植にまつわる話を書いています。ほとんどうらみつらみみたいな文章が多くて、本を出す人にとっては誤植は大問題なんだなあ、と分かりました。 どうやっても誤植はなくならないものらしいですね。私も本を読んでいて、これは誤植でしょ、と思うことはときどきあります。どうせだれか気づいてるだろ、と思って、指摘の投書なんかはしたことはないですけどね。まあ、プロの書き手と編集者と校閲者がそろっても誤植はあるんだから、私なんかが入力まちがいしても、許してもらえますよね?
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さまざまな作家、校正者、編集者による誤植をめぐるアンソロジー。
音も意味もまったく違うのに字姿が似ているために生じた間違いから、同音異義語など変換ミス中心の間違いへ。活字の向きのまちがいや欠けからデジタル上の思いがけない化けへ。
手書き原稿を読みとって活字を拾っていた頃の「誤植」とデジタル原稿をそのまま製版するいまどきの「誤植」はずいぶんと中身が変わってしまったんだなぁと改めて思った。今は「庇と屁」とか「恋と変」「事情と情事」といった悲喜劇はほとんど絶滅してそれはそれでさみしいような。
それとはまた別に、校正者の知識不足による見当違いな校正、著者独自の用字用法をどこまでチェックするか放任するかのバランスなど書き手と校正者のせめぎあいがあり、誤植一つにいろいろな想いが詰まっているものなのだと実感。紀田順一郎が指摘する形式主義的な用字統一より、機に応じたヴァリエーションがあってこそ、というのはもっともなこと。
日本語学研究の視点から書かれた今野真二『正書法のない日本語』(そうだったんだ!日本語:岩波書店)のサブテキストとして併せて読むと「正書法」「校正」をめぐる考えが深まりそう。
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珍しい、校正や誤植くくりのアンソロジー。
まことに、校正恐るべし。
完璧に校正したと思っても、本当に信じられないような誤植が起こるものである。それも古今東西に共通したことなのね、と思うと、可笑しいような安堵するような。
しかし、「魚鈍」と書いてあっても「魯鈍」と解してくれる、「魯介」を「魚介」と読んでくれる…なんていうのは、古の教養ある読者だけであろう。今の読者はきっと躓く。
永井龍男の庄野潤三についての文章が滅法よかった。
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誤植が何故発生するのか、発生したらどうするのか、発生した人はどう感じるのかがいくつもの立場で語られる。
もちろん、誤植は無いほうが書き手の意図を正しく伝え、残すために必要だけれども、個人的には誤植は好きだ。人の手を通っている感覚がする。いくつもの障害(校正)をのりこえ、存在する力強さがそこに存在する。息を潜め、隠れていたその誤植はある日、何人もの有識者によってその存在を日の元にさらされる通快感たるや想像を超える。もちろん、これによって迷惑や不利益を受ける人たちもいるのだけれど、誤植があると見つけた自分とその生き残った誤植に万歳をあげたいくらいだ。
世紀の誤植はたくさんあるけれど、ジョジョの奇妙な冒険の「何をするだぁ~」は誤植の中の誤植であり、とうとう擦りなおされたけれど、作者も認める「あれはあれでよかったんじゃないの」の典型例だ。
誤植を否定するなかれ、誤植を認め、人が万能ではないことを改めて確かめることは、つまり人間らしさの発露でもあると思うのだ。
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笑える誤植から笑えない間違いまで、校正に関するよもやま話が詰まった1冊。
サルトル事件はニヤニヤが止まりませんでした。
敏腕編集者も大物作家も悩まされ、まさに「校正おそるべし」。
特に漱石全集の編纂にまつわるエピソードが興味深かったです。
送り仮名ひとつでも大変だし、日本語は変化するし…
人間のやることなのでミスはつきものですが、それでもより良い書物を目指したくなるのが性というもの。
校正作業をしたことがある人はウンウン頷くこと間違いなし。
作家や編集者が冷や汗をかいている様子を想像してしまいました。
巻末の用語集も◎
検印廃止って、そういういきさつだったのか~
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明治の文豪から現代の校正者・編集者まで、ありとあらゆる「誤植」「校正」にまつわるエッセイや小説を集めた本。本作りの現場のことがいっぱい書いてあってワクワクする!誤植をした人・された人にとっては笑い事ではないのでしょうが、ものすごく面白かった!そして編集部の苦労を身に染みて知りました。感謝しなくては…。
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「諸般の事情で」が「諸般の情事」になる
崩し字の「全知全能のロシア皇帝」が「無知無能」になる
※訂正のために号外だした
まあ誤植っては無くならないものだ。
ソビエトの攻撃ヘリ「ハインド」が
「ハイドン」になってたのが、私が見つけた中で
好きな誤植
13 引分の新記録→31分の~
14 姦淫すべし、とモーゼ
15 情事
19 校正の名人
36 passがpiss、ビクトリア女王
49 窓際の庇が屁
54 徳富兄弟の富と冨
63 三木清、直し魔。高村光太郎は直さない
70 校正の神様
91 研究社、欧文の組が凄い。
107 大森と蒲田で大田区「大田」
164 三島は完全原稿期日厳守
169 印刷は誤脱をなくすことが目的だった@中国
192 鴎外
195 漱石は割と無頓着
213 漱石、後に不満
221 中国の善本=誤植の少ない本
224 井伏、奥付の無い本を作った
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なんだか「格調高い」文章ばかりで、まだ「文学」というものがあらゆる人にとって高尚だった時代を偲ばせる。
で、思うのは、文筆家の方々、みんな誤植があったらへこむんだねえ。そこが意外でちょいとびっくり。
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誤植は恐怖! 凹む! 分かる〜!笑
でも、色々な本読んでいて、見つけると嬉しくなったりするのは性格が悪いでしょうか。笑
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誤植についての悲喜こもごも、いや、「喜」はあんまりないか。かなり以前の文章も載っていて、興味深く読んだ。誤植のつらさも味わいも、一文字一文字活字を拾っていた頃のものが「本物」なのだなあと思うことしきり。
うーん、そうか!と思ったのが、中井久夫氏が「源氏物語」についてふれたくだり。
「もし、いわれるように、源氏物語が、紫式部が書くそばから、人が原稿を持ち去って、待ちかねたように写本がつくられ、それがそのまま流布していたとすれば、彼女こそ、校正なしの希有な作家にちがいない」
確かに。かりに印刷術があって校正刷をしていたら、あれほどわかりにくく長大なものにはならなかったかもしれないが、今の優雅さもないかもしれない、とあり、これまたそうであろうなあと思った。
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文章を書く人にとって 1文字でも違うとがらりと内容が変わってしまうこともあり、文章を作ってから本になるまでの苦労が感じられます。
自分で書いたものを読み直しても 文章の内容を知っているだけに「脳が誤字脱字を感知しない」と言うのは共感できる。
下手に才ある人が校正しても 妙ちくりんな変換をすることもある・・とか。
様々な文章に携わる人の誤植への想い
地味だけど面白かったです。
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現在放映中の校閲者が主人公の連続ドラマがある。その原作本も読んだが、実際に校閲や校正に携わる人、校閲される書き手等はどのように自身の仕事を受け止めているのかと興味を持ち、する側、される側それぞれの人々のエッセイを集めたアンソロジーを読んだ。
神経を使う細かい仕事であり、校閲するほう、されるほう共々に「辛い」「痛い」感情を残すものだということがわかる。また校正によって思いもよらないよい表現に行き当たると言うこともあるようだ。
文字媒体が存在する限り、校閲は存在し、緻密な仕事はこれからも続いていくだろう。
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誤植についてのアンソロジー。
詩で誤植があったが、そちらの方が良かったからそのままにしたとか意外な出会いも。
吉村昭さんの刑務所に校正を頼んでいたエピソードがしんと染みました。
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大英博物館に世にも稀な聖書が保存されている。モーセの十戒の
うちの「汝、姦淫するなかれ」が、「汝、姦淫すべし」となっている。
「not」が抜けちゃってたのね。
わっちゃ~。やっちまったなぁ…の見本である。そう、誤植である。
よりによって聖書。しかもこの文言。モーセも目が点だろうな。
印刷物と切っても切れないのが誤植である。どんなに目を皿のよう
にして校正をしても、必ず見落としがある。
専門学校時代には校正の授業も受け、校正の試験も合格した私だが、
事務所勤務時代は先輩編集者から「お前の校正はザルだなぁ」と深い
溜め息を吐かれたことは数知れず。今でも書いた文章の誤字・脱字は
日常茶飯事である。
本書は明治の文豪から現代のエッセイストまでの、校正・誤植に関する
エッセイを集めた1冊である。
「水着姿」ならワクワクするけど、「水着婆」だったら怖いもの見たさに
なってしまう。「愛妻」なら微笑ましいが、「愛毒」だったら危険なものを
感じる。
「全知全能といわれる露皇帝」とすべきところを「無知無能」とやって
しまったから、さぁ、大変!外交問題にまで発展しそうな誤植まで
ある。
「天皇陛下」が「天皇階下」ってのもありましたね。右の人たちに
猛烈な抗議を受けそうだ。こんな誤植を防ぐ為に、「天皇陛下」の
4文字を活字にしちゃった印刷所もあったとか。
活版時代の話が多いので、現在のデータ原稿入稿しか知らない
世代ではピンと来ないかもしれない。でも、今だって「ちゃんと校正
してんのかよ」って本は結構あるんだよね。
何も校正者の見落としだけで誤植が生まれる訳じゃない。手書き原稿
の時代は執筆者の悪筆が生んだ悲喜劇だってある。大変なのよ、
悪質の執筆者の原稿を読み下すのは。ブツブツ…。
インパクトの強い誤植の話ばかりではなく、執筆者としての校正者に
対する苦言、反対に校正者に対する感謝の思いも綴られている。
印象に残ったのは吉村昭氏の「刑務所通い」と題された作品。
大学の文芸部で少ない予算をやり繰りして文芸雑誌を出していた。
印刷代を安く上げるために、小菅刑務所に印刷を頼んだ。校正の
為に刑務所へ通う吉村氏は、校正刷りを間に挟んで囚人たちに
親密感を感じる。なかには文学の素養のある囚人がいて、文章を
巧みに直してくれる。
ある時、吉村氏の書いた作品の最後に書いた覚えのない一節が
あった。
「雨、雨に濡れて歩きたい」
囚人が付け加えた一節だ。吉村氏はこの一節を消すことに苦痛を
感じる。しかし、やはり自分の作品が大事だ。
「私は、複雑な気分で、赤い線を一本遠慮しながら引いた。」
4ページにも満たないエッセイで、やられたよ。なんだよ、この余韻。
これまで「うわぁ、なんだこの誤植」って結構笑いながら読んでいた
んだけどね。すごいな、吉村氏は。
文章を書く人、本を読む人なら楽しめる1冊であ���。どんなに技術が
進歩しても、誤植ってなくならないんだろうな。それにしても、最近の
校正ソフトに頼り切った校正はどうにかならないものだろうか。