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本書は、明治期の漢文訓読体の文章を読むためのマニュアルであり、本来史学の徒のために書かれたものであるが、中国語を勉強している者にとっても極めて有益であり面白い。読みながら、わくわくした。明治期の漢文訓読体というのは、漢文の訓読のようでもあり、またそうでもない。言い換えれば原文にもどせるものもあるが、もどせない。いや、どうもどせばいいのかわからないものもあるのである。古田島さんは、それを語彙、発音、文法等にわたって、まるで授業をしているかのように解き明かす。文章が生き生きと迫ってくるように感じられるのはこの臨場感のためである。たとえば、漢文の「皆」は本来、現代中国語の「都」と同じく、二つ以上のものを総括する副詞である。ところが、日本語では二つの場合は皆と言わず「どちらも」という。この「どちらも」と「どれ」の区別は中国人には難しい。ぼくはずっと漢文の「皆」は=みな、だと思っていたが、実は現代語の「都」と同じなのだ。同じような副詞に「凡」がある。これも現代中国語の文章語に頻出するが、学生はすぐ「およそ」と訳すので叱る。なぜなら、現代語も古典語同様「~はすべて」という意味だからである。「およそ」はかつてはそういう意味だったが、現在は推量を表す副詞にすぎない。否定の「不」がどこまでかかるかは現代語でも難しいが、これは訓読体になるとますますわからなくなる。古田島さんはそのような例を懇切丁寧に一つ一つ解き明かす。素材としてとりあげられているのは福沢諭吉の『学問のすすめ』『文明論之概略』、それにぼくの好きな久米邦武の『米欧回覧実記』だが、意外に誤読しているかも知れないと本書を読みながら反省させられた。
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古田島 洋介『日本近代史を学ぶための文語文入門―漢文訓読体の地平』
吉川弘文館(2013/09) 抜萃要約
18頁 管到とは、ある語がその下方の語句のどこまでを支配するかということだ。要するに、上の言葉が下に掛かってゆく範囲である。たとえば、次のような言い回しが現れたとたん、漢文訓読体の読解は雲行きが怪しくならざるを得ない。
あるいは我がためには新にして奇ならずといふも可なり
これが書き下し文であれば、速やかに原文を遡り、「不二新而奇一」なのか「新而不レ奇」なのかを確認すればよい。前者ならば、「不」の管到は「新而奇」の三字すべて、つまり「〈新〉でも〈奇〉でもない」=「目新しく奇妙でもない」意。後者だとすれば、「不」の管到は「奇」一字にとどまり、「〈新〉ではあるが、〈奇〉ではない」=「目新しいとはいえ、奇妙ではない」意になる。ところが、原文不在の漢文訓読体では、「不」の位置を確認するすべがないため、もっぱら文脈に頼って判断するしかなく、どちらが正しいのか決めかねる場面も十分に生じ得る。
35頁: 近寄ルコト能ハサリシ、是(これ)に因テ……
「シ」を律儀に連体形と受け取って、無理に直下の体言「是」につなげようとしたり、省略されている体言を想像して余情を味わおうと努めたりしても、まったく徒労に終わるだけだ。こうした「し」は単純そのものの連帯止め、つまり実質上は終止形「き」に同じとみなし、あっさり「……能ハサリシ。」と句点に換えて理解すればよい。
形容動詞「ことなり」についての注意。現代日本語は、その連用形を「殊に」と表記して副詞に用い、また連体形「ことなる」が動詞「異なる」に変じているのが実情である。ところが、漢文訓読では今なお形容動詞の「異なり」を使い、漢文訓読でも「異なり」を形容動詞として用いているのが一般だ。つまり、現在ならば「~と異なる」と言うところを、漢文訓読では「~に〔と〕異なり」と記し、これがそのまま終止形となる。「異なり」は、……漢文訓読では形容動詞「異なり」の終止形として多用される。
四三頁: いわゆる新仮名遣い、つまり現代仮名遣いが、戦後は昭和二十一年(一九四六)の内閣告示によって定められたとわかっていれば、それ以前に綴られた漢文訓読体がすべて旧仮名遣いで記されていることは自明の事実である。ただし、これを要して「漢文訓読体は、歴史的仮名遣いで書かれている」と理解すると、早計に失する危険を免れない。なぜなら、歴史的仮名遣いとは、江戸前期は契沖(1640年(寛永17)~1701年(元禄14))以来の学術研究に基づき、明治期の学校教育のなかで、遠く奈良~平安初期における仮名遣いの在るべき姿を復活させたものであり、おおよそ明治四十年代(一九一〇前後)に一応の安定を見たとはいえ、語によっては今なお研究の途上にあるからだ。この歴史的仮名遣いの二面性、すなわち旧中の旧たる性格と学術上の先端性とをわきまえず、何となく俗習に流されて「旧仮名遣い=歴史的仮名遣い」なる等式を脳裡に描いていると、仮名遣いに関する認識を誤りかねない。旧仮名遣いと歴史的仮名遣いは、必ずしも��致しないのである。
たとえば、漢文訓読体に限らず、明治~大正期の文章では「或ひは」と記されていることが少なくない。これは、旧いという意味では、たしかに旧仮名遣いだ。けれども、歴史的仮名遣いの研究成果によれば、「あるひは」の「ひ」は実のところ副助詞「い」であるから、「或いは」が正しいのである。換言すれば、「或ひは」は〈実態〉としての通俗的仮名遣いにすぎず、「或いは」こそが〈規範〉としての学術的仮名遣いというわけだ。今日、我々が目にする「歴史的仮名遣い」という用語は、後者つまり〈規範〉としての学術的仮名遣いの意味で使われるのが一般である。
★呼称 :性格 :内容
★旧仮名遣い :〈実態〉としての通俗的仮名遣い :表記上の単なる事実
★歴史的仮名遣い:〈規範〉としての学術的仮名遣い :表記上の正誤の基準
四五頁:ハ行とヤ行、またはワ行に関わる揺れが目立つ。
「用ゆ」は、もと平安時代初期にはワ行上一「もちゐる」、中期以降はハ行上二「もちふ」となり、その後ヤ行上二「もちゆ」にまで変化した語のため、今「もちゐる」を歴史的仮名遣いとする。
漢文訓読体の仮名遣いは、今日の目で見れば混乱状態にあり、決して「歴史的仮名遣い」の一語では片付けられない。
四六頁:踊り字 二の字点
二の字点「〻」は、「同音を反復して訓読みせよ」との指示を表す。
漢字送り「々」を使えば、音読みすることになる。地名「代々木」における漢字送り「々」の用法は、別席で論ずべき話である。
八七頁:国文法
漢文訓読体における国文法は、もともと漢文訓読に用いられていた文語文法に、日本語の変遷に従って生じた明治期に特有の文語文法が付け加わったものである。……漢文訓読には、平安中古文法を主体としつつも、奈良上代文法・鎌倉中世文法・江戸近世文法の各要素が入り込んでいる。また、明治期になると、文法上の新たな現象がいくつか目立つようにもなった。
もともと漢文訓読の文語文法それ自体が、主体たる平安中古文法に、奈良上代文法・鎌倉中世文法・江戸近世文法の諸要素が加わった混合体であり、いわゆる国文法すなわち平安中古文法の範囲を超える性質を持っている。
・奈良上代文法:
①ク語法 「~することには」
未然形+「く」 曰く、以為く、聞説(きくなら)く、願はくは。
終止形+「らく」 疑ふらくは、老いらく、恐らくは、惜しむらくは
★現今、「願はくは」の係助詞「は」を接続助詞「ば」に誤って「願はくば」と言う向きも多いが、つとに漢文訓読体にも「願くば」の例がある。
②なけ・べけ 「なけん」「べけん」 特に「べけんや」は反語表現に多用される。
・鎌倉中世文法:
「ずんば」 順接仮定条件。「~しないとすれば」の意。〈打消の助動詞「ず」連用形「ず」+係助詞「は」=「ずは」〉に、撥音「ん」が介入し、「は」が連濁を起こして「ずんは」となったものである。「なくんば(~がないとすれば)」「べくんば「~できるとすると」「ごとくんば(~のようだとすれば)」
・江戸近世文法:
江戸近世文法では、特に後期の江戸語になると、已然形が現代口語文法の仮定形に大きく接近し、〈已然形+「ば」=仮定条件〉が増えてくる。……すなわち、漢文訓読体の閲読に際しては、中古文法と異なり、〈未然形+「ば」〉と〈已然形+「ば」〉を截然と区別するわけにはゆかない。……〈已然形+「ば」〉については、仮定条件なのか確定条件なのかを、そのつど見定める必要がある。
・明治近代文法:
ここに謂う「明治近代文法」とは、近代の明治期に入って日本語に始めて現れた、あるいは、明治期の日本語にのみ見られる文法、という意味ではない。漢文訓読または一般の文語文法の常態から見れば、「明治期の漢文訓読体に特に目立つ文法現象」程度の意味合いである。
①文末の「し」 漢文訓読では、過去の助動詞「き」の連用形「し」による文の終止が目に付く。これは日本語の一大潮流たる連体形の終止形への合流現象の一つであるが、「し」による文の終止は、音感の点で据わりが悪いだけに、つい連体形として下方に聯結したくなるので、改めて注意を促しておきたい。
連体形の「し」なのだからといって、下文に被修飾語となる体言すなわち名詞を探して時間を空費したり、「ぞ」などの係助詞なしに連体形で一文が終わるはずはないと決め込み、読点を句点に変更して読む可能性を排斥してはならない。……過去の助動詞「き」の連体形「し」が一文の終止に用いられる可能性を常に念頭に置いて読む必要がある。
②「得せしむ」 本来、下二段動詞「得」に使役の助動詞「しむ」が接続するときは、未然形「得(え)」に「しむ」が付いて「得(え)しむ」となるはずだ。実際、漢文訓読では、今なお「得しむ」と訓ずるのが常例である。
けれども「得しむ」の少しぎこちない音感が嫌われたせいか、漢文訓読体にはサ変動詞の介入した「得せしむ」という言い回しが散見する。
①連体形+「の」+名詞 活用語の連体形は、……体言たる名詞に直結するはずの活用形であるが、漢文訓読体では、連体形と名詞のあいだに助詞「の」が介入する現象が目立つ。……漢文に記された「之」を機械的に「の」と訓ずることから生じた漢文訓読に独特の言い回しが、一つの表現として漢文訓読体に流れ込んだものである。何とも不自然な印象の日本語だが、室町時代の中ごろには直訳式の訓読「之(の)」が成立し、その末期には一般の文章にも姿を現すようになっていた。古来、この種の「之」はお、置き字として扱い、読まない習慣であったのだが。
一一七頁: 「すでにして」 たぶん「既〔已〕に此の如くして而る後に」(既〔已〕如此而後)つまり「もはやそのようにしたあとで」のごとく、事態の推移を示す意味合いであった表現が、長きにわたって繰り返し用いられるうちに熟語となり、「その後まもなく、しばらくして」のように些少の時間の経過を表す字句へ転じたものであろう。
一三二頁:仮定とは、仮に想定すること、すなわち、未だ現実ならざる事態または既に現実に非ざる事態をして仮に現出せしめることなのだから、脳裡で何らかの事態を使役しているようなものだ。そう考えれば、使役動詞「使」が仮定の接続詞になることも、さして不思議ではないだろう。
一七二頁:「千百」は数字の1100ではなく、「千と百」すなわち甚だ大きな数を意味する語。「数百千倍」、この「百千」は「千百」に同義で、膨大な数を意味する。 「千万」も同じ。
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日本近代史の学習者を対象に、近代文語文資料(漢文訓読体)の史料を閲読するさいの語彙、文法などの問題点や注意点を指摘し、その基本的な対処法を示す入門書。
漢文訓読体は、純粋な日本語とはいえず(語義従漢原理)、また、漢文の書き下し文ともいえない(原文不在原理)鵺のような存在で、読みこなすのには一定のトレーニングが必要であり、本書はそのよき指南書になっている。また、漢文訓読体に限らず、広く漢語表現の知識を得るのにも有用だと思われる。
『学問のすゝめ』『文明論の概略』『米欧回覧実記』という有名出典から豊富な文例を引いているのもありがたい。後半には、『明六雑誌』の記事を2本使った、「閲読篇」と称する実践編があり、これまでの解説部分で学んだことを反復演習できるようになっている。
ただ、日本近代史学習者を対象にしているという割には、歴史学の要素があまりないように感じた。語彙、文法的な観点に偏っていて、そのうえでその史料をどう歴史学的に解釈するかというところまでは踏み込んでいない印象をもった。それは本書の射程外ということなのだろう。
本書を読んでの感想として、明治時代の知識人は豊富な漢文を諳んじていたため、原文を確かめずに記憶に頼って漢籍を引用する事例も多かったことなどを知り、その漢籍の素養の深さに驚嘆するとともに、自分もそこまではいかずとも、ある程度の漢籍の素養を身につけたいものだと感じた.
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私は古文の知識がいい加減だが、旧字旧仮名の本をたくさん読んで来たからか、明治の文章にそれほど抵抗はない.しかし「学問のすすめ」は読めても「文明論之概略」はなかなか難しい.それでも,福沢諭吉を読みたい私にはこの本はぴったりの本.タイトルに「日本近代史を学ぶための」とあるが,テキストは「学問のすすめ」「文明論之概略」「米欧回覧実記」である.これら本を読めるようになるための漢文訓読の知識がぎっしり詰まっている.
以前、略字,合字,踊り字などに出会って,読み方も意味も記号の名前も知らなくて,何を調べれば良いか難儀した.こういうのがしっかり書かれているのが大いに助かる.
最後に「明六雑誌」から二点,これはなかなかキク.千本ノックのような厳しさ.解釈の奥深さに参った.