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内田樹さんと鷲田清一さんの対談が最初と最後にあり、そのあいだに、両者それぞれ2,3編の短い文章が収められている。
正直に言うと鷲田さんの論説はさほど面白くなかった。やはり内田さんの方が冴えているように見える。
同胞愛と同義であるような愛国心は不可能である、という前提をまず受け入れなければならないとする「愛国心論」ともいうべき『大人の「愛国論」』、ネットに飛び交う他者攻撃の言葉の鋒を「呪い」と定義する『呪いと幻論』が非常に良かった。かなり共感できた。特に後者は、ネットを覆う憎しみの嵐を適切に分析して、『呪いの時代』なんかよりも短い文章できっちりと論じている。すべてのネット民にこの文章を読んでもらいたい。
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鷲田清一・内田樹両先生による対談とエッセイ。内田先生は相変わらずぐいぐいとドライブしている。鷲田先生がどちらかというと聞き役か。
エッセイも相変わらず興味深い。呪いがもつ特性について説明した上で「ネットの匿名投稿による自殺者は呪殺されたという『呪いと言論』、今回一番のパンチラインは「私の言葉を吟味し査定するのは『他者』である」という、実に当たり前の言葉だった。これは『大人の『愛国論』』にも通底する。
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【かつてなく幼稚化したニッポン!】子どもと大人の違いは個人の中に多様性があるかどうかである――。練れた大人の「知」による成熟への道しるべがここに!
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内田氏との対談本。内田氏の著書を数冊読み、哲学、身体論、武道との関連が次第にイメージできてきていた。そして本書での国家論?(違うか)全てがつながる、という視点はまだ持てていないが、本書はかなりすんなりと入ってきた。少しは氏の主張が理解できつつあるのか、と思いながら読む。
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あっという間に読んだ。
内田さんの言葉はやっぱり好きだ。
私も、しわしわの子供になっていっているな、と怖くなった。
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これだけ成熟した大人のいない国が、なんとか成り立っているというのは、国自体が成熟しているからである。なるほど。今の政治家を見ていると、誰とは言いませんが、本当に「あんた大人か?」と言いたくなるような人がたくさんいる。もと総理大臣で在職中は何かと問題発言ですぐ辞めているような人が、今でもなんだか裏で力を握っているような話を聞くと、とっても情けない。と言いつつ、自分自身のことを振り返ってみると、決して立派な大人とは言えない。まわりからはオッサンと見なされているのだろうけど、精神的にはとっても幼い。もっと大人の常識とか立ち居振る舞いを身につけたい。と言いながら、それでもときには子どもっぽい部分も必要、むきになったり、夢中になったり、そういうこともあってもいいと思う。本書を読みながらいろいろ考えた。後半、内田先生が書いている「ネット上の匿名性と呪い」の話にはなるほどとひざをたたいた。(文庫になってたんだ)
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私が好感をもっている二人の論客の共著だ。ちょっと考えてみれば、二人とも思想や哲学に造詣が深いし、拠点も関西だし、年もほぼ同じなんだから交流がないはずない。そんな二人が「大人のいない国」なんて、これまた(自分のことは棚に上げといて)私が常々、日本に対して思っていることに触れた本が出ているなんて。
いろいろ話題が出ているけど、最も共感したというか身につまされたのは、終章の対談「身体感覚と言葉」で触れていた内田さんいうところの「大人の芸」ってやつ。
内田さんは、これまで結婚式とかでスピーチするとき、気の利いた面白いことを言ってやろうとか思っていたけど、それが嫌になってきたと。葬式でそんなことをする人はいない。型にはまって、そのなかで万感を出せるようになりたいと言う。鷲田さんも、葬式のときに何といいのか迷う、困るみたいなことを言っている。
つい最近、伊藤理佐さんが新聞に書いていたエッセイで、知り合い程度の人との会話で面白いことを言おうとしていたが、あたりさわりのない天気の話くらいがいいのだと気づいたみたいなことを書いていたのを読んで以来、ハタと思い、いろんな場で気の利いたことを言おうとしては、結局玉砕……どころか不発に終わることがままあるわが行動パターンの換えどきを思っていたんだけど、この本でさらにその思いが深まった。
ちなみに、鷲田さんは葬式で「なんと申し上げてよいのやら」としか言えないと釈徹宗さんに話したら、そう言いながら首を縦か横に振ればいいと教えてくれたとか。こんど会葬の機会があったらやってみよう……って想像してみたら、ぜんぜん板についていない気がする。長い時間と経験をかけて磨いていかないとダメそう。
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ともに柔軟な哲学的思考の実践者として有名な、内田樹と鷲田清一の対談と、二人の論考を収録している本です。
内田も鷲田も、身体感覚と他者感覚を重視する点では同じような立場に立っていると言えるでしょうが、内田に比べると鷲田の議論には制度論的な視角が目立たないような気がします。その意味では、「大人のいない国」という表題は、どちらかと言えば内田がこれまであつかってきたテーマに寄っている印象を受けます。
ただそのことは、内田の立場の優れているところであると同時に、他者感覚の重視が共同体論へとスムーズにつながってしまう彼の議論の危うさを含んでいるのではないかという気がしないでもありません。
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終章『身体感覚と言葉』臨床哲学ってはじめてきいた〜。面白かった!
鷲田さんはせんだいメディアテークの館長なのね。読み終わってプロフィールを見て知った!
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最近本当に「大人」が減ってしまったように思う。
そんなことを考えていたら、本書に出会った。
大人について考えるところから始まって、どんどん派生していく。
本当に大人のいない国になってしまっては、困る。
今の日本は、システムが優れているため大人でなくても上手く回ってしまうというような記述があったが、確かにハードがしっかりしている分、ソフトはいまいちでもやっていけるところがあるのかもしれない。
社会環境に左右されないように、家庭や地域など小さなコミュニティで大人を育む必要があるのだろう。
成熟するためには、どうしたらいいのだろうか。
まず、自分が未成熟であることに気付くこと、そして成熟を目指して努力すること。
その努力には読書も含まれる。
様々な本を読むことで、知性が磨かれていくと思う。
少し雑に読んでしまったので、再読したいと思う。
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「今の日本には成熟した大人はいない。メディアに出てくる官僚、政治家、経営者の言動は呆れる程幼稚だが、それでも何とか社会が回っているのは、幼稚な大人でも統治できる社会を長年かけて作ってきたからだ」。こう指摘する著者たちが、幼稚な大人とは何か、なぜ今の日本には幼稚な大人しかいないのか、その幼児性を脱却し成熟した大人となるためにはどうするべきかを語る。
「幼稚な大人」とは、自分の属する社会の現状に自らは全く責任がないと信じ、不満があれば「自分は純然たる被害者である」という立場で責任者探しに走ったり、あらゆるものを費用対効果でしか吟味できない消費者マインドに支配されていたり、ディベートは得意だが対話ができず、他人と連帯することが不得意だったりという、言われてみればよく見るタイプの人々だ。
著者たちは、そんな日本が「成熟した大人のいる国」になるための道として、個人の中に多様性を持つこと、人々が本物と偽物を見分ける力を身につけること、自分と意見を異にする「不愉快な隣人たち」を受け入れることなどを論じているが、それぞれ納得のいく見解で大変面白い。
哲学者の鷲田清一と思想家の内田樹という知識人二人による「大人とはどうあるべきか」の議論は、正に大人になりつつある皆さんにとって大いに参考にしてほしい内容だ。
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違う価値観の親や親族と一緒に過ごすことで、子供は「どっちが正しいのか」自分で考えざるをえなくなる。それで成熟するのだ。同じ価値観の親に育てられると、従うか、反発するかしか選択がない。
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「言論の自由」の解釈について説明している項目は目からウロコが出る思いで読んだ。確かにこの権利はなんでも好きなことを言いっぱなして誰からも反論されない権利と誤認されがちだが、周りが自由に審議できる事こそ不可欠な機能なはずだ。発話者の自由ではなく受信者が審議する権利、という方が正しい。
また、家族の最小単位が叔父を含めているという話も大きな収穫だった。
ただ、全体を通して、毎度思うが内田樹の文章が自分はあまり合わないようだ。文学畑出身だからか抽象的な例えや突飛した考え方が多いのと、武道に親しんでいないので身体感覚の話などはまったくわからないせいだ。頷ける部分もあるから全く読まないのもどうかと思うが、しんどい。
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P6を引用します。
「サービス社会はたしかに心地よい」けれども、先にあげた生きるうえで欠かせない能力の一つ一つをもういちど
内に回復してゆかなければ、脆弱なシステムとともに自身が崩れてしまう。
なるほどと思う。日本は本当に便利な社会だと思う。私は今、中国で働いているが、改めて思うのは、
日本の生活って、便利だなと思う。(お金がある事が前提ですが)、欲しいものは何でもそろう。住環境は、
中国と比較にならないぐらい良い、家の近くには、コンビニが必ずあるし(実家は東京)、公共サービスと呼ばれるものは、
中国よりも圧倒的に安いし、利便性、質もいい。
しかし、そういう「心地いい環境」にいると、人間って弱くなるとも思う。また、他者と付き合う上でも、さまざまな齟齬が
生じるように思う。便利な社会にいると、心地いいけど、人間が生きていく上で、大切なことを忘れやすいと思う。
それは、成熟する必要性がなくなっているからかもしれない、とこの著作を拝読して感じました。
7章からなる本書は、どの章も読んでも、「失ったものを回復させる振る舞い方」が書かれています。
非常に面白い対談集であり、鷲田氏と内田氏の日本と日本人に対する危機感が、少し緩い感じで述べられています。
ただ両氏の問題意識は、非常に深く、私たちの根幹に関わっています。読了しても、「あ、そうか!」「で、どうしよう」
と思うだけで、これから「どう振舞うか」は、読者に委ねています。
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大人のいない国
内田樹22冊目(鷲田清一との共著)
・教養についての考察が面白かった。なぜ自分はこのことを知らずにきたのか、知ることを拒んできたのかという、自分の無知の構造に目を向けられた瞬間に教養が起動するということや、教養とは自分のわかっていないことについてわかるということということがうなずけた。自分の経験から照らしてみても、さらに、この人ならこのことについて知っているかもしれないという風なセンサーが働いて、お願いできれば、たいていのことは何とかなるとも思う。
・人がそのかけがえのなさに気づかず、ないがしろにしているものに対して注意を促して、その隠された価値を再認識させる言葉の働きを「祝」と言い、そのことが主役となる「祝」の文体では、誰が言ったかは副次的要素となる。一方、不当な利益を占有している他者が、その不当な利益を失うことを強く念じることを「呪」と言い、これもまた、誰が言ったかは副次的な要素となる。「呪い」は誰から到達したものかいうことが出来ないという、発信者の欠如によって、機能する。そして、その呪いを行っている当の本人も気づかないことが多い。
・親族の構造分析にて、叔父と父から出される対立的・矛盾したメッセージが、もたらす葛藤が、子供を成熟へといざなう。このような矛盾したメッセージを子供がいっぺんに受けることによって、子供は「世の中には矛盾したことがある」というメタメッセージを受け取る。子供に理解できないメッセージを与えることで、絶えず子供の「理解できる容積」の改訂と拡大を要請する。これは、両親でも同じである。叔父と父は同性の親族であり、同性による成熟へのいざないであるが、これは両親でもおなじであって、同一の意見に充溢した家庭は「北朝鮮化された家庭」と同じで、子供を子供に留めてしまう。