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【文章】
読み易い
【気付き】
★★★★・
【ハマり】
★★★★★
【共感度】
★★★・・
「木村政彦」という伝説的な柔道家がいた事を初めて知った。
現役時代のトレーニング内容など、木村政彦氏自身の逸話も十分やばいが、師匠の牛島辰熊氏も相当やばい。
名前からして迫力満点だけど、見た目も生き様も、全く名前負けしていない。
まさに、この師匠にしてこの弟子ありといった感じ。
現代人は、テクニックで上回る事は出来ても、精神と肉体で上回る事はできなさそう。
元々の柔道(柔術)は、打撃、寝技有りの現在の総合格闘技のような、実戦的な格闘技だった。
「生の極限は死、死の極限は生」
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グレイシーが簡単に「参った」を言わないように
日本もそれを言うべきではなかった
腕が折れても「参った」を言わなかった高専柔道の選手のように
玉砕するまでゲリラでもやればよかったんだ
というのもひとつの考え方である
しかし日本は名を捨てて実をとり、アメリカに降伏した
木村政彦がそれに納得しなかったことは想像に難くない
だからこそ、東条英機暗殺を命じた師匠を、敗北主義者と軽く見て
のちに裏切りもしたのだろう
とはいえ木村は、それだからといってひそかに死に場所を望むほど
まじめに思い詰めるようなタイプでもなかった
むしろ戦争など
やりたい奴が勝手にやりはじめた、わずらわしいものでしかない
そう思っていたようだ
他人事だったのである
それだけに
よけい敗戦日本をバカにしてかかるところはあったかもしれない
みずからを過信しすぎるところもあったかもしれない
いずれにせよ、スポーツマンとしてはともかく
兵法家としては完全に平和ボケだった
これでは旧軍敗戦の将たちとたいして変わるところはない
力道山に対して木村を贔屓したくなる気持ちはわかるが
坂口安吾を引くならせめて「青春論」のほうにも触れるべきでした
宮本武蔵がどれほどせこく勝ちにこだわったか
それを知ることで
昭和の巌流島がいかにそう呼ばれるにふさわしかったか
わかろうものであろうに
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【2017/12/01読了】
かつて柔道にもあった「当て身」は、中学時代部室にあった『バイタル柔道』でわずかに知るのみだった。この当て身に絞め技、関節技、時に関節を極めてからの投げ技…「命がけ」が現代よりずっと身近だった時代、半ば比喩でなく「負けは死」を意味した柔道において猛者たちがしのぎを削る中、戦前~戦後にかけ15年不敗の柔道家がいた。その求道のさまの凄まじさ、試合ぶりを想像するだけでも脳震盪を起こしそう。
上巻は、不敗伝説の柔道家・木村正彦が、戦後ブラジルに渡るまで。
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伝説の柔道家、木村政彦の評伝。
修羅のようなトレーニング内容に「盛りすぎちゃうか?」と思いつつ、ゴリラのような本人の姿を見て「ホンマなんかも。。。」改めて思い直したり。
戦前の柔道の歴史についても触れられており、当時は寝技主体の総合格闘技のような高専柔道がメジャーだったとのこと。戦中戦後の混乱で高専柔道が下火になり、立ち技メインの講道館柔道が台頭し、現在の柔道の原型になったという話は初めて知りました。
そして木村政彦も巻き添え食って波乱万丈な人生に。。。
一つの道に打ち込んで名を成し遂げた人の話は読んでて気持ちいいです。しかし力道山にはめられる下巻が怖い。。。
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印象的な題名で、ノンフィクションとしてはめずらしくベストセラーに入っていた作品。スポーツ柔道は好きだけれど、プロレスも総合格闘技もよく知らないので、未知の世界に足を踏みこむ気分で読んだ。柔道というものが戦前からどのように作られていったのか、まったく知らなかった歴史で興味深かった。作者がかなりの木村びいきの姿勢で書くので、そこだけちょっと気になったけれど、それだけ人を引きつける人間だったということは伝わった。
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木村政彦という無敵の柔道家が力道山とプロレスを戦ったという話は聞いた事がある。youtubeで映像が残っているので見てみたが、あまりに一方的な展開でちょっと残念だった。まだ上巻だけしか読んでいないが、木村政彦の破天荒な性格と人生はもちろん、柔道の歴史についても大変興味深いものがある。講道館にも最初当身としての打撃があった事、講道館とは別に寝技を中心とした高専柔道(前三角締めはここから生まれた)や武徳会の存在、戦後一時的に生まれたプロ柔道などとても面白い。また現在の柔道が海外勢力によって好きなようにルール改正していく理由であるとか、きれいな一本勝ちが日本の伝統というがたかだか30年ほどの事であるとか、作者の徹底した調査の裏付けのもと語られる。下巻が楽しみだ!
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柔道に造詣のない私でも楽しく読みました。歴史の表舞台から消されてしまう真実はどこにもあるのですね。戦前戦後の柔道の系譜や歴史を学べたのと同時に、当時の猛者たちの武勇伝は、本当の意味で武勇伝だと感嘆しました。
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なぜ力道山を殺さなかったのか、という問いに答える本ではない。鬼の柔道といわれた木村政彦の生涯について、木村のことが大好きな著者が書いている。ただ、木村が力道山との戦いで負けて後、木村は時々、これまでの木村とは違った、優しさのない言動を行うこともあったと、包み隠さず言う。ちゃんと事実は事実で伝えたうえで、木村を尊敬していることが言葉の端々に出てくるので、読んでいて気持ちのいい本であった。
木村がいかに強かったかというのが、本書を読むとよくわかる。色々なエピソードを交えながら面白くかかれているので、プロレスや柔道を知らない人でも楽しめる本だ。
全2巻。
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上下巻でやく1100ページとなる、かなり力の入った作品。
柔道も少々かじり、ブラジリアン柔術を嗜む身としては、特に前半の柔道の歴史は非常に読み応えがある。またこの時代の柔道家がいかに柔道を武道として捉え、鍛錬してきたかがわかり、興味深い。木村政彦氏は物凄い練習量に裏付けられ強くなっていったとのことだが、それで体を壊さなかった鉄人ぶりというのも強くなる人には不可欠な要素なんだろうと思う。木村政彦氏以外でも様々な達人が、その現役キャリアを終えた後、その時代もあるかと思うが、武道への強い想いを持ち、生きていった事が書かれているが、大半はあまりうまくいかなかったというのも何やら物悲しい。
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タイトルが秀逸だと思う。
「なぜ」という疑問詞は、不自然かつ不可解な出来事が発生したときに普通は使う。だから例えば「なぜ殺したのか」という言い回しであれば少なくとも違和感はない。人を殺すということはその理由を問いたくなるような、反社会的・反道徳的な行為であるからだ。しかるにこのタイトルは「なぜ殺さなかったのか」と問うている。人が人を殺すのは並大抵の出来事ではない。殺さないのが普通だ。なのに殺さなかったことに「なぜ」と問うのは、常識的に考えれば本末転倒だろう。
しかもその目的語が「力道山」である。力道山。いわずと知れたプロレス界のスーパースターである。少なくともその名前はだれもが知っている。そして彼がヤクザに刺殺されたという歴史的事実も、おそらくは周知と言っていい。そう、力道山はヤクザに殺された。木村政彦なる人物に殺されたのではない。だからこそ「なぜ」が成立するのだとも言える。
そこでいよいよ、というよりもようやく主語である。「木村政彦」。だれも知らない。少なくとも私は知らなかった。あまりにもありふれた名前。目を離せばすぐに忘れてしまうような、何の変哲もない名前。と同時にこのタイトルを構成する単語の中で、読者にとって最も馴染みのない固有名詞。だれもが思う。「木村政彦ってだれ?」そして考える。その木村政彦が力道山を殺さなかったことが不思議と思われるような何かが、二人のあいだにあったのだろうか。
当時「昭和の巌流島」と謳われた、しかし今となってはだれも知らない世紀の一戦。すなわち1954年12月22日に「柔道の鬼」木村政彦と「日本プロレス界の父」力道山が、蔵前国技館のリング上であいまみえた。結果は木村政彦の惨敗。力道山の容赦ない打撃に木村政彦は血を吐いてマットに沈んだ。だがこの試合はルールがそもそも木村側にとって不利だった(木村の打撃は禁止だが力道山の空手チョップはOK等)上に、もともと引き分けで終わらせるはずだった事前の契約を、力道山が一方的に破棄した「八百長崩れ」であった。しかしその後リベンジマッチは実現せず、両者はあまりにも対照的な余生を送ることになる。力道山がプロレス界のヒーローとして国民的英雄にまで登り詰める一方で、15年間無敗、13年連続日本一という木村政彦のそれまでの栄光は忘れ去られ、もはや二度と表舞台に立つことはなかった。
本書は、そんな木村政彦に想いを寄せる著者が、埋もれてしまった木村政彦の栄光を掘り返し、その生い立ちから全盛期、そして没落までを、綿密な調査のもとに再構成した力作である。木村の人間離れした練習量や破天荒なエピソードもさることながら、恩師の牛島辰熊やライバル阿部謙四郎など、魅力的なキャラクターとともに展開される戦前から戦中にかけての日本柔道界は、もはや活字であることを忘れてスポーツ漫画を読んでいるかのような面白さである。高専柔道で発達した寝技を木村が積極的に取り入れていたこと、また今でこそ「プロ転向」イコール「裏切り者」とみなされがちな柔道界もプロ発足当初はそんなことはなくむしろプロ化を奨励していた事実等々、あまり知られていない柔道史の背景は素人にとっても興味���尽きない。「スポーツは時代とともに進化する」とよく言われるが、こと柔道に関しては現在よりも当時の方がレベルが高かったのではないかとさえ思われる。
上巻は戦後の混乱期において木村政彦が牛島と袂を分かちプロ団体を立ち上げてハワイに行くところで終わる。プロレスに転向し国外でも無敵の木村はどこへ向かうのか。力道山はまだ登場していない。
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面白かったのは勿論だがとにかく凄かった。子供の頃柔道を9年間やってたけど、残念ながら木村政彦のことを知らなかった。こんな強い柔道家がいたのか。柔道の歴史もいわゆる講道館柔道しか知らなかった。格闘技全般好きならぜひ読んでほしい
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木村政彦の本読んでるだけなのにどんどん戦前戦後の柔道界に詳しくなっていく。そんなことまで知りたかったわけじゃない。そんなに格闘技ファンではない。そして肝心の木村政彦に肉薄してるとは思えない。木村政彦の本だって言いながらこの作者は全柔道史を書きたいだけなんだ。木村政彦はダシにされただけだ。このタイトルつけて読ませようとした作者の姿勢が気に入らねえ。
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『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか(上) 』読了。
増田俊也著。
まるで漫画のような、野球の大谷翔平さんの活躍。強すぎる柔道の大野翔平さん。それをさらに上をいく、信じられない日本人がいたこと、そしてそれを自分も含め知らない日本人が多いことに衝撃を受けた。
昔の映像でたまーに見る、力道山のプロレス。あの映像の、やられている方の話。気にしたことがなかったけど、読んでみたら衝撃の連続(上巻だけでも)。
トップ選手が「自分なんて赤子」「強いじゃなくて、痛い」「岩だから技のかけようがない」と語る、圧倒的な強さ。しかもそれが全盛期ではないという哀しさ。
木村の前に木村なし、木村の後に木村なし。その言葉の真実味が、読み進めるごとに迫ってくる。
分厚い上下巻。そんなに書くことあるのかなと思ったけれど、上巻を読み終えて、続きが気になって仕方ない。
いよいよグレイシーとの闘いへ。
殺し屋が赤子のように扱われる、漫画ファブルの佐藤みたいな感じかな。ワンパンマンのサイタマ、暗殺教室のころせんせー、そんな漫画みたいな、が本当にあったこと。読みながらドキドキする、そんな本に出会えたことが嬉しい。
著者の情熱にも胸を打たれる。書いてくださってありがとうございますと伝えたい。
下巻が楽しみ!
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木村政彦という武道家を軸に、
戦前戦後の格闘技とその歴史をひもとく。
内容たっぷりすぎて消化できない、読み応えありすぎ。
柔道史観そのものを根底から覆された。
フリーメイソンが興行支援に大きく関わっているのも驚いた。とにかく力道山という人間には読んでいて怒りさえわいた。
現代では、命を懸けるという言葉があまりも軽薄に使われている気がする。
試合前日に、短刀を腹に刺し、「よし、俺は負けたら死ねる」と自分の覚悟を確認したという描写がある。
今ならたかが試合一つで死ぬなんてバカバカしい…と嘲られるだろう。でも一つ一つ心血注いでがむしゃらに生きる時代を、少し羨ましくも思う。
やはり五輪書は格闘技を「道」とする者たちの永遠のバイブル、ということも確認するにいたった。
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【感想】
本書は日本スポーツ界空前絶後の最強師弟、「不敗の牛島」と「鬼の木村」を書いたスポーツノンフィクションである。
上巻の内容は主に「木村政彦伝説」だ。
全日本選士権13連覇、15年間無敗を誇った史上最強の柔道家、木村政彦。彼を形作ったのは「異常なほどの練習量」だった。本書によると、
・乱取り100本(約10時間)
・ウェイトトレーニング
・巻き藁突きを左右1000回ずつ
・立木への1000本の打ち込み
・布団の中でのイメージトレーニング
を毎日繰り返していたという。
大木への打ち込みで腰や足の皮膚はカチカチになり、足払いを食らった相手は「鉄の棒で殴られているようだ」と評した。そのあまりの強さから、稽古では得意技の大外刈りを禁止される。立技も規格外なのに寝技でも強く、得意としていた腕緘(アームロック)は海外で「キムラ」と呼ばれるほどになったという。加えて体躯も岩のように重いため、そもそも崩すことすらできず、完全に攻略不可能であった。そんな有様だから当然稽古相手が木村を避けるようになり、十数人との乱取りや師匠の牛島との組手で力をつけていった。こんな怪物を相手にできる牛島も化物であり、まさにこの師匠にしてこの弟子ありだ。
戦前は「スポーツ=武道」の時代だった。柔道の競技人口は数百万人はいたという。そんな中で「15年間無敗」でありつづけた木村政彦のヒストリーが余すところなく詰まった一冊である。このまま下巻も読み、最後にまとまった書評を書きたいと思う。
下巻のレビュー
https://booklog.jp/users/suibyoalche/archives/1/4101278121
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【まとめ】
0 まえがき
現役時代に何度も木村と闘った松本安市は、こう断言する。
「講道館柔道の歴史で化物のように強い選手が四人いた。木村政彦、ヘーシンク、ルスカ、そして山下泰裕。このなかで最も強かったのは木村政彦だ。スピードと技がずば抜けている。誰がやっても相手にならない」
昭和29年12月22日、木村はこのとき37歳。力道山のプロレス選手権試合で、双葉山と並ぶ国民的大スターだった木村政彦の名は、表舞台から消えていく。
戦後プロレス史、いや戦後スポーツ史最大の謎とされるこの戦いはどんなものだったのか。引き分けにする約束になっていたこの試合は、力道山の騙し討ちによって、凄惨な流血試合となった。不敗の柔道王は、全国民の前で血を吐いてKOされた。マットに直径50センチの血溜まりができるほどの惨劇だった。
プロレスは、当然ながらショーである。ブックと呼ばれる台本に沿って試合は進められ、あらかじめ決められた勝者が勝つことになっている。プロレスに勝敗はなく、あるのはリングという舞台の上での演技だけだ。力道山は台本を投げ捨て、台本通りに演ずる木村を不意打ちで襲っただけである。
木村は、負けたわけではない。
力道山は39歳でヤクザに刺殺されたが、木村は晩年になろうとも、力道山を許すことはなかった。たった一度の敗北に苦しみながら生き続けていた。
力道山の��略によって木村が失ったものは、あまりにも大きかった。柔道を命を賭けた武道としてとらえ、その世界でトップ中のトップを獲った木村にとって、全国民の前で恥をかかされたことは、力道山を殺すことによってしか償われないことだったのではないか。
木村政彦は、なぜ力道山を殺さなかったのか?
1 木村政彦伝説
木村の強さの秘密は「強く柔らかい腰」である。強い腰があれば相手のパワーに崩されない。柔らかな腰があれば相手の思わぬ動きにバランスを崩されない。
この腰を作るために徹底したのが、二つの特殊な打ち込み稽古だ。ひとつはモミジの巨木への打ち込み。もうひとつは竹林の中での柔らかい若竹への打ち込み。
立ち木への打ち込みは、師牛島辰熊の現役時代の伝説的稽古法に倣ったものだ。牛島塾のモミジは高さ10メートル以上の巨木だ。その幹にロープを縛り付けて、腰の当たる部分には古い座布団を巻き付けて打ち込んだ。打ち込むたびに予想以上の痛みが脳天まで突き抜け、100回でその場にへたり込んだ。次の日は200回、さらに次の日は300回と増やしていき、最終的には一本背負いを1000回と釣り込み腰を1000回、合わせて2000回の打ち込みを毎日やるようになった。
腰から背中にかけて皮が剥け、その血が木の幹を赤黒く染めていた。かさぶたができても次の日には破れるので、また出血し、いつまで経っても治らない。しかし、半年もする頃には腰の皮膚は足の裏のように角質化して、どんなに打ち込みをしても怪我をしなくなり、逆に木の幹のほうが凹みだした。そして、ある日、ついにこの木は枯れてしまった。
他のライバルたちより三倍以上稽古をすれば、抜かれることはない。それが木村の考える「三倍努力」だ。
木村は乱取りだけで毎日100本をこなした。ゆうに9時間はかかる。まず警視庁へ朝10時から出稽古へ行き、昼食を食べて拓大で3時間、そして夕方6時から講道館、そのあと深川の牛島塾に戻ってくるのは夜11時である。
夕食をかき込むと、ウサギ跳びをしながら風呂に行き、またウサギ跳びで帰ってくる。すぐに腕立て伏せを1000回やって、そのあとバーベルを使ったウェイトトレーニング、巻き藁突きを左右1000回ずつ、さらに立木への数1000本の打ち込みである。布団に入るのは午前2時過ぎ。そしてそこからまた頭の中でイメージトレーニングが始まった。眠ってしまいそうになると自分で体をつねってその痛みで奮起しイメージトレーニングを続ける。眠るのは4時過ぎである。睡眠時間は3時間もなかった。
木村の頭の中にはオーバーワークという言葉はなかった。それは師の牛島辰熊も驚くほどの練習量だった。
異常な練習量によって、78キロだった木村の体は80キロを大きく超え、巨大な筋肉に包まれていった。完成された木村に敵はおらず、1939年には、全日本選士権で史上初の三連覇を果たした。
2 天覧試合制覇
全日本選士権後、木村は第三回天覧試合の指定選士に選ばれる。当時の天覧試合は、全国民が注目するとてつもない大試合であった。現在の五輪やサッカーW杯どころではない。昭和天皇をエンペラーとして戴く大日本帝国の、大東亜共栄圏最強の男を決める世紀の祭典であった。
木村と牛島の稽古は壮絶を極めた。
後に木村はこう述懐している。
「オレは本当に人間だろうか。もしそうなら、何か人間としての幸せがあるはずだ。たまには楽しさを味わってみたい、と何度も思った」
牛島も言う。
「彼には死の極限ともいうべき訓練をした。鍛えがいのある男と見たからこそ、他のやつ以上のことをさせたのだ」
そして木村は22歳で、第三回天覧試合を制した。第一回、第二回に優勝を逃している師匠、牛島辰熊の雪辱を果たす戴冠だった。
3 プロ柔道旗揚げ
木村は戦前から実に13年もの間、全日本王者として君臨した。そしてあの昭和11年5月31日の阿部謙四郎戦以後、15年間不敗のまま引退したことにされたのだ。
本当は引退したわけではないが、柔道の歴史が木村を引退させてしまったのである。もちろんそれは講道館柔道史における最大の汚点といわれるプロ柔道旗揚げがあったからだ。
戦後の柔道界は、GHQによって武徳会が解散させられ、またGHQによる学制改革に伴い旧制高校が無くなることによって高専大会も潰えた。この二大勢力の消滅によって、柔道界は講道館の一人勝ちになっていく。
東大の松原教授はこう語る。
「もともとひとつの町道場でしかなかった講道館が『自分たちは平和勢力である』とGHQを説得し、武道の中で一番先に解禁に近い形になった。そこで講道館の創ったある種の神話に、待ったをかける者がいなくなった。『講道館中心史観』がもたらした言葉の空間が、今の柔道界を支配しているんです」
講道館=全柔連がGHQにその場を取り繕うような形で「柔道は武道ではなくスポーツである」と断言してまで柔道を復活させた経緯を検証・総括できていないことが、実に60年たったいまでも柔道界を混乱させているのだ。
昭和24年に全柔連が制定したアマとプロに関する規定の中では、学校か企業で教える柔道教師以外は、柔道に関わって金銭を得ることはできないとされている。しかし、当時は指導教師を抱えるような余裕のある時代ではない。
このままでは柔道家が食えなくなる。牛島が木村を誘ってプロ柔道を旗揚げしようとしたのは、そうした経緯があってのことだった。
結成式は昭和25年3月2日。団体の正式名称は「国際柔道協会」と決まった。
旗揚げ戦は盛況のうちに終わり、講道館もこの時点ではプロ柔道に対し好意的な意見を寄せている。
では、なぜ牛島・木村師弟は死ぬまで柔道界で排斥され続けたのか。
理由は2つある。
ひとつめの理由はプロ柔道が失敗し、崩壊したからである。成功すればそれを戦後柔道復興のために利用しようとしていたのは嘉納履正館長の発言内容から明らかである。後の講道館=全柔連は「プロ柔道」に冷たくしたのではなく「失敗したプロ柔道」に冷たくしたのだ。
もうひとつの理由は、柔道界の大派閥を率いていた三船久蔵の存在がある。
この2つの理由が総括できていないので、現在も柔道界は意味もなくプロアレルギーを持っているのだ。
プロ柔道組織が崩壊したのは、プロ組織に興行専門家がおらず、運営が成り立っていなかったからだ。旗揚げ戦後、資金を貯めぬままいきなり地方巡業を始めてしまい、選手の遠征費を捻出できなくなった。
加えて、木��が国際柔道協会を放ってプロ柔道の新団体を旗揚げしてしまったのも崩壊の要因だ。自身も資金の捻出に苦労していたという側面はあるものの、結果的には、木村は師を裏切って海外に逃げたのである。