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敗戦中のレイテ島(おそらくフィリピン)での日本兵の生存記。
もっとひどいものかと思っていたけど、場所によるんだろうな。
物資の補給も途絶えた中でも、生きるか死ぬかで殺気立ちお互いに奪い合いをするほどひどくはない。
そんなことをするより、相互に少しの不信感や反発間を持ちながら共生したほうが命をつなぐ可能性が高いのだろう。
無人の村を一人さまよう場面がひどく哲学的で、いろんな思いがめぐる。
あの場面だけは戦中の現場に一枚フィルターがかかったような感覚がした。
後半の「猿」や手榴弾の件は、どうしても主人公が彼なりの哲学を持っていた事が裏目に出たように思える。
肉体的に生きていく事と、哲学を持った人間として生きていく事の狭間を感じさせる。
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もっと気になる言葉がたくさんあったんだがどこら辺に書いてあるか忘れた。
とりあえず主人公の考えは私としては結構共感できるんだけど、狂人か……うーん。
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安易なカニバリスム賛美ではないが、人肉を食べるということの重さが伝わってくる作品。
戦争文学の代表作の一つで、描写と心理描写のシンクロが美しい。
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読んだら忘れられない衝撃的な名作。
迫真するリアリティと、非現実的な戦場を経て、人肉を食すか否か。人の境界線への命題へ真っ向から突き当る。
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既に死んでいる人間を食うことと生きている植物などを殺して食うこととどっちがましなのでしょうね。
食うことに良い悪いがないことは当然ですけど。
それでも、人間を食うという行為にはストッパーが働くようです。
経験したくはない状況です。
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敗戦が濃厚となってきた頃、フィリピンで隊から追放された田村一等兵は死ぬことを潔く決めたり、仲間に出会ったり食糧を見つけたり助けられたりしたらまた生きようと思ったり。しかし段々彼の状況は過酷に輪をかけたようになってきて、ついに仲間の兵士の肉を食べてしまおうかという境地にまで追い込まれるのだけど……
私はてっきり人肉を食べてしまいましたな話だと思って小説を読み始めたら全く違う。死という未来を受け入れたが故に田村の至った思想や感慨、あらゆる彼の見方がまさに大正〜昭和期の純文学ってこんな感じじゃない? と思わせるものでした。ただの戦争文学じゃない! 深いなあ。しかし、やはり設定が設定ですので人を殺すこと・人が共食いをしてしまうこと・戦争ということ、などなどに大変ページが割かれている。「神」というものがなんであるか、ということを集中的に書いている感じもしました。特に最後のくだりなんかはものすごく面白かったなあ。テキスト・視点論的にもすごく面白い文章だと思いました。
八月は戦争文学読む、と決めておいて本当よかったです。大変面白かったです。
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映画の『ヒカリゴケ』を見たので読んどこうと。
戦争体験文学人肉嗜食小説として有名な一冊。
『ヒカリゴケ』の方はひどかったけども、野火は文章がちゃんと綺麗で整然で最初思っていたより面白く読めました。
文章がきれいだから教科書とかにも載ってる?
こういうグロトラウマ系は自分の意思で読む方が絶対いい。
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日本軍とアメリカ軍の戦いが行なわれたフィリピン・レイテ島が舞台の小説。
日本軍はアメリカ軍の10分の1程度の数の兵を武器も食料もろくに持たせずに送り込んだ。その中の一人がこの小説の主人公田村上等兵であった。
レイテ島上陸後、持病の結核が悪化した田村は5日分の食料をわたされ病院に向かった。病院に5日分の食料を出した田村は3日後に治ったと言われて復隊した。分隊では5日分の食糧を持っていった以上は5日は置いてもらえと言われ病院へ引き戻された。
病院への帰路の途中、野火を見た。現地ののフィリピン人の焚く野火だ。以後飢餓と闘う田村の頭に不安の象徴的なものとして野火がたびたび現れることとなる。再び戻った病院ではもちろん入院を拒否された。病院で受け入れてもらえない田村は、同じような境遇にある数人の兵士と病院の隣の林で過ごしていたが、その後一人で飢えに苦しみながら、熱帯の山野をさまよう。
飢えに追い詰められた日本兵の間では死体や仲間を殺して喰うことが広まりつつあった。死体の一部が不自然になくなっている多くを田村は見た。
その後病院の所で出会った永松・安田に再会し、その永松から猿の肉と称するものを薦められ食べた。田村は真相を知らなかったがそれは永松が殺した日本兵の肉だった。永松と足の悪い安田は二人でずっと生きながらえてきたが、ついに永松は安田を撃ち殺した。それを目撃した田村は銃を取り上げて永松にねらいを定めた。そのとき、後ろから誰かに後頭部を打たれ田村は気絶した。人肉を食べたい気持ちにが高まりつつあった田村であったが、最後は思いとどまったのだ。敗戦後、田村は記憶喪失になり病院に収容されたのだった。
こんな感じのあらすじである。戦争という極限下における人間性について、人肉を食べることの是非を採り上げ、書かれた作品である。この是非について私は語ることをしない。というか状況が想像を絶していて何も言えることがないのである。しかし、戦争の是非がどうであれ後世に絶対に残さなければならない作品であることは間違いないし、それゆえにこの作品を知らなければ恥ずかしいとも言えるだろう。
本文中の、
「人間はどんな異常の状況でも、受け入れることが出来るものである。」
「飢えも、食物を得る困難も、問題ではなかった。人間は何でも食べられるものである。あらゆる草を、
どんなに渋く固かろうと、虫を喰った跡によって毒草でないと知られる限り、採って食べた。」
「私はいかに自分の肉体を養う要請に出づるとはいえ、すべて有機物から成り立っている食物を食べることを、その有機物以前の所有者であった生物たちに、まず詫びるのである。私としては、むしろ少しも自責なくこれを行なっている、人間共が不思議でならない。人間同士の愛と寛大、つまりヒューマニズムについて、あれほど大言放語している彼らがである。」
「戦争を知らない人間は、半分は子供である。」
といった言葉が心に強く響く。
この本を読んでより多くの人に「生きる意味」を考えて欲しいと思う。
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負傷兵として戦いそのものからは外れながらも、戦争の前線をかいくぐって生き延びていく話。後半では、究極の状況で人が人を食べることの意味、是非に焦点があてられている。
著者の実話を書いているのかと思って読み進めていたが、戦争体験は活かされているが違うのかな?
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結構衝撃的な本。所謂カニバリスムが題材です。
これ授業で読まなきゃいけなかったんだけど、先生の解説で新たな事実を知ってしまって・・・。
当時衝撃的だったのを覚えています。
きっと全てを理解した上で読むとまた面白いんでしょう。
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敗北が決定的となったフィリッピン戦線で結核に冒され、わずか数本の芋を渡されて本隊を追放された田村一等兵。野火の燃え広がる原野を彷徨う田村は、極度の飢えに襲われ、自分の血を吸った蛭まで食べたあげく、友軍の死体に目を向ける……。(裏表紙より一部引用)
生誕100周年で、何かと話題になっていたのですがなかなかお目に掛かれず。先日古本屋で発見したので手に取りました。
戦記だと思ったのですが、カニバリズムをもテーマに含んでいたとは。
そういえば武田泰淳の『ひかりごけ』を読んだときに、レビューで比べて書かれていたような気がしました。
文章自体は読みやすく、情景も細かく書かれています。
戦場は壮絶です。ありありと浮かんできました。
これまで、南方系の戦記は水木しげる氏のものしか読んだことがなかったので、新境地でした。
田村は数々の場面も生き永らえたものの、最後の安田と永松との再会以下がかなりえぐいというか、恐ろしかったです。
極限状態で生き延びるというのはこういうことか!と。
主人公・田村がフィリピン人女性を殺してしまったときのシーンから引用です。
「銃は国家が私に持つことを強いたものである。こうして私は国家に有用であると同じ程度に、敵にとっては危険な人物になったが、私が孤独な敗兵として、国家にとって無意味な存在となった後も、それを持ち続けたということに、あの無辜の人が死んだ原因がある。」
戦争ってホントなんだろう。
人の在り方も、人生も、価値観も変えてしまう。
こういう作品は絶対に読み継がれていくべきものだと思います。
今の豊かな社会に生まれた日本人は、今も、どこかで誰かが飢餓状態になっていて、人が戦場で倒れていることを忘れています。
星4つなのは、最後が個人的にあんまり気に入らなかったので・・・。
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そんなに長くはありませんが、重く深い話でした。
著者大岡昇平の戦争体験をもとに書かれた、カニバリズムをテーマとした作品です。
描写が文学的でありながら、とてもリアルでした。
美しい自然、惨い戦争体験、そして徐々に狂っていく主人公の哲学や宗教心。
飢えた身体が求める人肉。
「食べていいよ」と許可を得た身体に伸べる右手と、その手を抑える左手。
どこからか聞こえた声に従って立ち上がり屍から遠のく。
極限状態にある人間の姿。
そんな状態からは程遠い私には理解できないほど、驚くほどそれは強く、そして弱い。
死を容認にしたはずの命の、生への衝動と神への信仰。
死を受け入れた時、人は誰も哲学者になるのかもしれない。
平和ボケした日本人にオススメです。
戦争とはこういうことなんだと。
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戦時中、食料不足で人を食べる話
という印象からは程遠い、淡々とした興味深い内容。
已むに已まれず生き延びる為に死体の肉を食う
のと
生き延びる為に人間を狩って食う
のは違う気がする。
が、自主的に食べたのではなく
人に食べさせられたのだからそれはカウント外
というのは言い訳じみており
語り手を狂人としたのがミソである。
人は肉を食う時、どういう区別をつけているのか。
人は倫理にもとり、牛や豚なら良いが海豚や犬は微妙
だったり
焼き鳥屋で雀は食うが、飼っている雀は食わないだったり。
肉体のサイズだけではなさそうだ。
ある小説の主人公は、考えた末「友達であるか否かでは
ないか」と答えた。
が、友達でない、赤の他人に突然襲いかかる事件はあっても
それは多くの場合食べる為ではない。
ならば、何故なのか。
何故、人の肉は食べては駄目なのだろう。
遭難や戦時などの非常事態に於いて
人の肉を食ったところで、私には否定する気は全く起きない。
批判出来るとすれば、食われた本人だけのような気がする。
もし自分がその立場にいたら、倫理に反するという理由でなく、単に気持ち悪いという理由で食べない気がする。
そんな理由がどうでも良くなるほどの極限状態にいたら、
自分がどう判断するかは予測がつかないが
逆に自分が死んだら、食ってもいいよと言うだろうと思う。
ただ、食う為にまだ生きているのを殺されるのは嫌だ。
それはエゴだろう。
自分が生きる為に他の命を殺すなんて。
しかしそれなら、人は人以外の様々な命を日々殺して食いつないでいる。
それは、エゴではないのだろうか。
一生で何十万と命を犠牲にするほど、人間は生きる価値
のある生命体なのだろうか?
確かに、色々と考えさせられる作品。
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「しかし銃を持った堕天使であった前の世の私は、人間共を懲すつもりで、実は彼等を食べたかったかもしれなかった。野火を見れば、必ずそこに人間を探しに行った私の秘密の願望は、そこにあったかも知れなかった。」
季節柄タイムリーな1作。
重い!!重いよぅ。
どよんどよんとしながら読んでしまったけれど、
物語でありながら、どこか本当であるように思える。
いや、本当のことなのではないか?
とにかく、そこにあるのは悲惨さ、苦しさ、悲しさ。
ネガティブな言葉が次々と並んでしまいそうだ。
そこから何を学び取るのか、、
【8/8読了・初読・先生蔵書】
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これ程に無駄な文章のない小説を知らない。題材は作者の強烈な体験に基づいており、今を生きる我々には想像を超える…
フィリピンやビルマなど、仕事で行くが、やはり日本人には戦争の事実を忘れてはいけない事を痛感。