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紙の本
肉体的極限と精神的葛藤の果てに見た『神』が田村一等兵を見つめる
2009/12/06 19:16
5人中、5人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:toku - この投稿者のレビュー一覧を見る
<あらすじ>
敗北が濃厚になったフィリピンのレイテ島で結核に冒された田村一等兵は、病を理由に本体から追放された。
軍医たちが患者たちの持ってくる糧秣で食いつないでいる情況の病院でも、動ける田村は受け入れてもらえない。
田村は野火が立ち上るフィリピンを激しい飢餓に襲われながら彷徨い、草木を食べ、自分の血を吸った蛭を食い、やがて死んで間もない兵の屍体へ手が伸びる。
ぎりぎりのところで踏み留まった田村が極限状態で感じたものとは……
<感想>
私のレベルでは読み切れなかったように思う。
物語はほとんどを『私』という一人称で進められる。
インテリの田村は極限状態において目に映ったものや感じたことを分析し、掘り下げ、考察するという哲学的な思考を行うため、肉体は悲惨な状況にありながら思考は別の世界にあるような印象を受け、読み手の立ち位置がフィリピン戦線と精神世界に分かれてしまう感覚になり、小説の世界に入りきれなかったことに、読み切れなかった理由がある。
また極限の飢餓、『猿の肉』を食べてしまった罪悪感、無意識の倫理観の板挟みの果てに感じた『神』は、理解するのが難しい。
田村の頭にふとよぎった、草木に到るまで殺生し食べてしまうことを悪とする考えかたは、殺生を禁ずる仏の教えを越えた究極の『神』の考えと思えなくもない。
そしてその考えの果てに、死んでいるものならば……と考える田村の意識は、極限の飢えがもたらしたものとも考えられる。
他にも物語の終わり近くで田村が感じている『神』もあり、その価値観が理解できずなかなか複雑だ。
この作品は色々と考えさせられ、理解が難しいので、もう少し文章を味わうようにして読み進めていけば、また違った感想が得られると思う。
また時間をおいて読んでみたい。
ただあまりのめり込みすぎると、日本に帰りたくても帰ることができず異国の地を当てもなく彷徨う状況に自分の感覚も入り込んでしまいそうで、怖い気もする。
解説については少々期待はずれだった。
解説者は簡潔にまとめれば少なくすむ内容にも関わらず、大岡文学と小説の定義などを語り、「野火」については作家として試みた実験とし、その実験内容について持論を展開し、「俘虜記」などを引用して大岡作品がどういうものかなど長々と説明している。
内容について言及してる部分はほんの一握りで、理解が難しいだけに、もっと内容に突っ込んで野火の『味わい』方など解説していて欲しかった。
<映画「野火」について>
物語はほぼ原作に沿ったものになっているが、描こうとしているものは別であり、同じストーリーで表現の違う作品を比べるのも面白いかもしれない。
原作では田村の精神的な部分を中心に描いているのに対し、映画ではインテリ田村の内面描写はなく、極限状態にありながら人肉を食べることを拒否する『人間』の姿が映し出されている。
農夫がいるであろう野火へ向かうところで終わいるラストや、『猿の肉』のシーンでは展開そのものが違うので、表現の違いが見いだし易くなっていると思う。
映画での船越英二演じる田村一等兵はとぼけた感じが漂っていて、妙な脱力感を感じさせる。一見ぼーっとしていて淡々と演じているようにも見えるが、何も考えられないほどの極限状態における田村を表現しているようにも思える。
この点も原作と異なる部分である。
ラスト手前、殺したばかりの安田の肉を喰った永松の姿は、獣のようにも見え鬼気迫るものがあった。
この人でなくなった松永の姿は、ラストの田村の行動を際だたせている。