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ずっと京都市民で、町中で「〇〇の趾」のような石碑や立て看板をよく見かけるのだが、歴史が頭に入っていなくて、いつも素通り。
それが、変わったのが「源氏物語(現代語訳)」を読んでいる時だった。光源氏の行動範囲のあっちのお屋敷こっちのお屋敷がどのあたりだったのか、どのへんで物語が繰り広げられていたのか、自転車で市内を移動しながら気になりだした。
この本は地元のブックオフで見つけた。1997に発行された本の新装版として2014年に刊行されたもの。
建築、都市史専門の西川幸治氏と歴史記者、高橋徹氏が執筆され、建築出身のイラストレーター、穂積和夫氏が絵を描かれている。
全ての漢字にふりがなが打たれて文章が読みやすく、イラストが優しく、美しく、各時代の町並みや都や宮殿を斜め上から見下ろして書いた図のようなイラストとか、通りのなまえとか建物の名称も入った手描きの図面とかとても見やすく分かりやすい。「こんな本が欲しかった」と一目惚れ。
この本を読んで、京都盆地は平安時代だけでなく、太古から発展する要素がある土地であり、各時代で入れ替わり立ち替わり権力者も民衆も集まり、都市の歴史を地層のように重ねていったのだと改めて思った。
時代ごとに興味深かったこと。
渡来人による開発
奈良の葛城山周辺から賀茂氏が高い農耕技術を持って京都盆地に移り住み、京都の農耕を発展させた。賀茂氏は上賀茂神社、下鴨神社に祀られ、川の名前にもなっている。
古墳時代中・後期の五・六世紀には、盆地西部に秦氏など巨大な勢力を持つ渡来人が住み着いていて、蛇塚など多くの古墳が残っている。
盆地東部の伏見稲荷も農耕神で、秦氏の氏神である。
平安京の造営
794年、「山背国」は「山城国」に改められ、新都は「平安京」と名付けられた。平安京は東の鴨川、西の桂川の間の平野部に建設された。現代の地図に重ね合わせた平安京の地図を見ると、羅城門は桂川と鴨川のちょうど真ん中に位置していたことが分かる。
羅城門から真っ直ぐ北に延びる「朱雀大路」が平安京の縦の中心でメインストリート。朱雀大路を北に延長してみると船岡山に突き当たるので、朱雀大路は船岡山を基準にして作られたらしい。朱雀大路は今の千本通りの位置と重なるが、今の千本通りは“メインストリート“というよりどちらかというとごちゃごちゃした道。幅も千本通りはそれほど広く無いが、朱雀大路はものすごく広かったらしい。今の縦の中心の道は多分烏丸通りだと思うが、それは平安京ではかなり東の端のほうだった。
千本丸太町の交差点に「大極殿趾」の立て看板があるが、あまりピンとこない。
東西方向は吉田山から延びる一条通りが基準になったという説がある。東西方向のメインストリートは大内裏の南端を通る二条大路で、幅が51メートルもあり、二条大路の北には上級貴族の邸宅や官庁の建物があり、その南には一般貴族の邸宅や官人、庶民の住居が並んでいた。
都の人々の生活を支える市場は、七条付近に二箇所だけで、朱雀大路を挟んで対称の位置にある、東市と西市。今の京都中��卸売市場の位置に近い。
人口が集中した都では亡くなる人も多く、東の鳥辺野、北の蓮台野、西の化野、吉田山、西院、竹田、深草、衣笠山などに葬送地があった。鴨川の河原にも死体が放置され、庶民の葬送地となった。
船岡山の西を南北に走る千本通りの名のおこりは蓮台野への道に千本もの卒塔婆を立てたことによると言われている。
平安京の変貌
漢学者の慶滋保胤は「池亭記」に10世紀後半の平安京の様子を記録している。それによると「平安京の中心街路・朱雀大路を挟んで、西の右京はすたれ、人家は少なく、壊れる家はあっても新しく建てられる家はない。右京から去って行くものはあっても移り住んでいく人はいない。ただ、行くところのない者ばかりが暮らしている。一方、東の左京、とくに四条より北に人家が集中している。身分の高い人も低い人も金持ちも貧乏人も集まっている。」ということ。
右京は湿地で住みにくく、条坊制に従って建設された街路の中にも道としての機能を失い、空き地になったり、田畑に戻ったりしたものもあった。それに比べ、左京は京域をはみ出した鴨川のほとりや、北の郊外地に居住地が移り始めていた。
鴨川の治水にも力が入れられ、京域は東に拡大した。藤原兼家はかつての東京極大路よりさらに一町以上も東の二条京極に法興院を建て、その子の道長はそのさらに北の今の府立医科大学付近に法成寺を建てた。このことは平安京が東の京域外に拡大したことを都の人たちに強烈に印象づけた。
その後、今の左京区岡崎の付近の白河のあたり(平安神宮のあたり)が栄え、白河天皇の法勝寺、堀河天皇の尊勝寺、鳥羽天皇の最勝寺、崇徳天皇の成勝寺など相次いで姿を見せた。白河天皇は上皇になってからここを中心として院政政治を始めた。白河は東国への道路が粟田口から山科へと向かう道に接しており、政治的にも軍事的にも重要な位置を占めた。
里内裏
現在の烏丸通りから寺町通り、丸太町通から今出川通にある京都御苑は、もともと摂関家や皇后の実家、里第が集まっており、里内裏、里皇居と呼ばれた。
平安京の内裏は何度も火災にあい、その度に天皇は一時的に里内裏に移ったが、そのうち、内裏が再建されても賑やかな里内裏を愛用するようになった。里内裏が平常の皇居となったのは鳥羽天皇からで、南北朝時代の北朝の光厳天皇が皇居としたのが「京都御所」の始まり。
京都御苑の東北角の外側に紫式部邸跡地もある。思文閣出版刊行、社団法人紫式部顕彰会編の「京都源氏物語地図」というのを所有しているのだが、それを見ると源氏物語の中の「末摘花」邸や実在した貴族の紀貫之邸、藤原道長一条邸も京都御苑の中にある。京都御苑を少し南下した烏丸御池辺りには「源氏物語」の中で光源氏の住居だった二条院や女三宮邸、実在した在原業平邸など、上級貴族の館が集中していたことが分かる。また、京都御苑を少し東に行けば鴨川がある。東山、北山が季節ごとに美しく見える、鴨川のこの辺りが私は京都で一番好き。夕方に丸太町橋を西向きに渡る時に見える西山も美しい。
福原遷都
平清盛は1180年に今の神戸市の福原に都を移した。思うように都市計画が進まず、すぐに都を京に戻したが、その後、平安京は再興されず、鎌倉中心の武家政治へと以降した。
藤原定家が記録した「明月記」には都のあちこちで大火がおこり、大内裏が焼失しても再建されず、荒廃していった都の様子が書かれている。
その一方、焼け跡に商人や公地公民制度からはみ出した京童と呼ばれる人たちがあつまり、商業や製造業を活性化させ、新しい町集文化の担い手となった。
花の御所
1336年、足利尊氏は室町幕府を成立したが、その後、後醍醐天皇は吉野に向かい、幕府側と対立した。後醍醐天皇側が南朝、幕府側を北朝と呼ぶ南北朝時代となった。足利義満は烏丸通りから室町通りまで、上立売通から今出川通りまでの敷地に「花の御所」と呼ばれる邸宅を作って政治の本拠地とした。その後、相国寺を建立し、高さ109メートルの七重塔を作って、権威を誇示した。
応仁・文明の乱
1467年から1477年まで、京都盆地の東西に分かれ、陣地を築き、戦いを繰り広げた応仁の乱で、洛中洛外の建物の大半は焼けた。
この戦乱から公家や有名な僧侶が京都を逃れて地方へ移住したので、各地で雛祭りなどの宮中行事の大衆化がおきたり、小京都と呼ばれる街が出来たりした。
その一方、京都の市街地は公家や寺社が立ち並ぶ政治色の強い上京と祇園会の山鉾をだす鉾町を中心とした商業地区の下京に分かれ、上京と下京は南北を走る室町通りで結ばれた。戦乱の世を生き抜くために、街路を挟んで向き合う両側の町並みが「町」を作り、自衛のために堀を巡らせた「構え」という囲いを作った。
この本で京都の街並の歴史を解明するために昭和になってからの市電や地下鉄工事、大きな施設建築に伴う発掘で重要な遺跡が発見されてきたことを改めて知った。覚えているのは市営地下鉄東西線を作る話は私が生まれた頃からあったのに完成したのが約30年後だったこと。街中で大きな施設を壊して新しい建物を建てるとなるとまず更地にしてから「遺跡発掘」をするので、次の建物が完成するまでに2年くらいかかる。地下鉄工事も「発掘」に手間取ったらしい。そんな身近なことからこの本に書かれた内容にとても親しみが持てる。
また、京都には奈良に比べて時代がかなり下った建築物しか残っていないと思っていたが、その理由は人口が集中したゆえの火災や応仁の乱で殆ど焼けてしまったこともあると分かった。焼失してしまっていること自体、歴史の一部なのだ。
下巻も楽しみだ。