紙の本
丁寧かつ分かりやすい
2015/08/31 10:31
4人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:タヌ様 - この投稿者のレビュー一覧を見る
遊びをせんとや生まれけん、というフレーズに魅かれ、日本の中世での歌謡を少し理解したいと思い、いくつか出版されているなかから本書を選択した。
書き下し文と現代語訳の組み合わせで編集されていることがポイントだった。現代語訳はこ日本語としても十分味わえる洗練度であり、注釈のレベルも再検索するような不親切なものではなく丁寧に、きっちり編集されている。これは編者のお人柄がでているつくりであろう。よき人をえたものある。
仏教関係の歌が多くそういうそうい時代であったことへの理解、そして日本の各地で歌われた拡がり、生業や恋愛の歌など、幅広く編纂した上皇の貪欲さを空恐ろしくすら思った。
紙の本
平安時代末期に流行した歌謡を集めた一冊です!
2020/04/12 12:00
0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:ちこ - この投稿者のレビュー一覧を見る
本書は、平安時代末期に編まれた歌謡集で、当時流行した歌謡を収集して、後白河法皇が編纂したと考えられている一冊です。例えば、私たちが聞いたことがあるものとしては、「 遊びをせんとや生れけむ、戯れせんとや生れけん、遊ぶ子供の声きけば、我が身さえこそ動がるれ」や「舞え舞え蝸牛、舞はぬものならば、馬の子や牛の子に蹴させてん、踏破せてん、真に美しく舞うたらば、華の園まで遊ばせん」などがあります。こうした歌謡の担い手は、当時の社会の底辺を生きる女性芸能者であったということですが、その魅力に取りつかれた後白河法皇は、周囲に眉を顰められながらも、遊女や傀儡女を召しては習い、狂おしいまでの熱中ぶりであったと伝えられています。同書を読まれて、当時の流行歌謡、あるいはそれらを担った者たちの心情を味わってみては如何でしょうか。
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・植木朝子編訳「梁塵秘抄」(ちくま学芸文庫)を 読む。口伝抄は当然として、私は梁塵秘抄自体をまともに読んだことがない。有名なのはどこにでも出てゐるし、有名でないものは適当に拾ひ読みするだけである。さうかうしてゐても全体を通して読んだことはないし、読んだことにはならない。詩集、歌集の類はそんなのばかりである。実を言へば、この植木朝子編訳 版も全訳ではない。抄訳である。「はじめに」には150首ほどとある(9頁)から、現存の4分の1強といふところ、全く多くない。むしろ少ないと言ふべき か。しかし、私のやうな読み方をする人間には、かういふのの方がむしろふさはしいのかもしれない。大きく法文歌と神歌に分かれる。最初に少しだけ別の歌体がある。梁塵秘抄のエッセンスはきちんと収められてゐるのであらう。
・法文歌はホフモンカと読む。要するに仏教歌謡である。ごく大雑把に言つてしまへば現在の御詠歌如きものであらうかと思ふ。仏教の教義を内容としてゐる。 私にはおもしろくはない。しかし、かういふのがこれだけ存在したといふことは、このやうな仏教的指向が強かつたといふことを示してゐる。時代が時代である。現代とは違ふ。所謂末法思想の支配する時代である。11世紀半ばには末法の世に入つてゐる。藤原道長の少し後の時代である。梁塵秘抄の後白河法皇はそ れより更に100年後といふあたり、末法の世に生き末法の世に死んだ人である。そんな世に生きる思ひはどのやうなものであつたかと思ふ。その一端を教へてくれるのが法文歌なのであらうとも思ふ。本書所載法文歌直前の今様は「釈迦の月は隠れにき 慈氏の朝日はまだ遥か そのほど長夜の闇きをば 法華経のみそ照らいたまへ」(20~21頁)である。時代と思考がよく分かる。末法の世は仏にすがつて生きるしかないといふのである。こんな内容の歌が流行つたので ある。何と不幸な時代であることか。これは貴族も庶民も変はらない。今様はもともと庶民のものである。「本来歌い捨てにされるはずであったはやり歌に夢中 になった院は、保守的な貴族らに眉をひそめられながらも遊女や傀儡女など身分の低い者をそば近くに召しては今様を習い云々」(「解説」325頁)、さうして後白河院は記録した。全体像は不明ながら、法文歌は200首を超える。多いのであらう。現存からすれば多い。たぶん、先の今様からしても、さういふ指向、思考が強かつたに違ひないから、法文歌は多かつたのであらう。現代の私達には考へられないことだが、さういふ時代である、さうして仏すがって生きるしかなかつた。適当に頁を開くとこんな歌、「はかなきこの世を過ぐすとて 海山稼ぐとせしほどに 万の仏に疎まれて後生我が身をいかにせん」(90頁)。こ れは漁師か猟師か、殺生の罪を犯して生きる人間の嘆きである。いや「深刻なおののき」(同前)とある。この時代の人にとつて、たとへ生きるためであつても、殺生は重大な罪であつたらう。院自身はそれを犯すことはなかつたかもしれないが、末法の世ゆゑに、「万の仏に疎まれて後生我が身をいかにせん」といふ 心情に共感できたのであらう。そこから再び「いにしへ童子の戯れに 砂を塔となしけるも 仏に成ると説く経を 皆人��ちて縁結べ」(40~41頁)、つまりは法華経信仰に至るのである。末法の世、これなくして生きられない、そんな心情が法文歌から知れる。本書の解説にはそのあたりが丁寧に説明されてゐる。 私は他の注釈書を知らない。これが最良であるのかどうか分からない。それでも文庫でとつつき易い書だと思ふ。本書は歌が時代とともにあるといふことを明快に教へてくれる歌謡集であり、注釈書であつた。
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平安時代末に大流行した今様を時の帝王、後白河院が編纂。
全てが七五調というわけではないけれど、すとんと節回しが入ってくる。本書は梁塵秘抄の中の代表的な今様を解説。関連する短歌や近代詩歌も紹介している。どんなふうに昔の人は詠っていたんだろうか。うたわざははかなきものだなあと思う。