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難しいけど面白かった。
本の中で書かれてある所謂『西田中毒』になりそうな
かんじを受けます。ただ、西田本人が言っているという
ことですが、非常に難解な文書だそうで、読めるか
どうかはわかりません。
歎異抄や、仏典・御経など日本の精神・難解な考え方、
究極の屁理屈的な理論は非常に面白いと思います。
色即是空空即是色。人は人であらずして人である。
永遠の今。無常。絶対の無。無私。。。
そういえば、西田幾太郎氏は京都の哲学の道の
由来の人物。
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私は、古今東西の思想家、哲学家の考えを佐伯啓思氏の頭脳でフィルタリングしたものを読むのがお気に入りである。
過去、西田幾多郎の著作は読んだことはない。
難解な西田ワールドを稀代の思想家が関西人特有のユーモアを交え、読み解いている。
西田幾多郎の観念、佐伯啓思の観念、信じるか信じないかはそれぞれの読者の任せるしかない。
私にとっての「善き人」は佐伯啓思という偉大な思想家なのである。
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西田幾多郎は難しいから読むのはよそうと思っていたのだけれど、やはり気になって手にしてみた。雑誌に連載されていたこともあり、意外と読みやすそうだった。それで購入。しかし読み進めるとやはり難しい。だいたいどの章も最初は読みやすく、すぐに急激に難しくなる。もう本当に何となく、自分なりの受け止め方として、物理学に引っ張り込んで感じたことを書きとめておく。無から有が生まれるということについて、古典的には、質量保存の法則を持ち出すまでもなく、何もないところからは何も生まれない。もっとも、過去には生物も自然にわいてくるという発想をしていた時代もあったでしょうが。さて、量子論的な世界観では、ハイゼンベルグの不確定性原理によって、無から一時的に有が生まれることはあり得る。物質と反物質が同時に発生することがあってもよい。宇宙の創生期にはそういうことが爆発的に起こったことだろう。通常の世界でも、常時、生まれては消えをくり返しているのだろう。無というのは静というのとはちょっと違うように思う。そういう発想で行くなら、難解な論理を持ち出さなくても無をうまく説明できそうな気がする。どうなんだろう。(とんでも…な議論をしていたらごめんなさい。)
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西田幾多郎の評伝あるいは西田哲学の入門書というよりは、西田幾多郎(西田哲学)を絡めて著者の自論を開陳したエッセーという感じ。著者の独善的な考えに過ぎないのではないかという部分も散見された。特に「第五章 特攻精神と自死について」は読んでいて不快になった。しかし、「於いてある場所」の説明は非常に飲み込みやすかった。
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【2015_002】
およそ100年前の京都大学で独自の哲学を探究し、唯一の日本発の哲学を打ち立てた西田幾太郎。その文章の難解さで知られる「西田哲学」を、佐伯啓思がかみ砕いて解説する。といってもじゅうぶんに難しいのだが。
グローバリズムが喧伝されて日本独自の思想など旗色の悪くなってきた今だからこそ、西洋の哲学や倫理を知った上でのローカルな知性を守らなければならない。おそらくそんなつもりで筆者は西田哲学を読み返したのだろう。妻子を次々に亡くし深い悲しみの中で西田は決してニヒリズムに走らず、その虚無の中にこそ日本の精神があると考えた。「情」を持つことこそ日本文化の特性だと考え、その特殊性を守ることの重要さを説いた西田。グローバリズムのひとつの理想は民族や国民国家というものを解体して融合していくことにあると思われるが、本当にそんなことが可能なのか?またそうなった方がいいのか?ということはいちどきちんと議論するべきであり、「好むと好まざるを問わず、時代は既にそう動いているのだから」グローバリズムを推進する、というのは知性的なふるまいではない。いちど立ち止まって考える勇気を持たねばならない。
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西田哲学に関するエッセイといった感じの本。独特の難解な用語を平易にしてくれているが、だからと言って入門書ってわけではない印象。
ただ、純粋経験のところや読んでいるうちにわかったような気持ちになるところについては大きく共感できた。
色即是空、空即是色の部分というか、有と無のところはまだ自分自身がきちんと理解しきっていないのだなと痛感した。
また原典にあたりたくなった。
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著者が西田幾多郎の言説を用いてエッセイを書き、各章を緩やかに連接した新書。西田を本格的に読む前に雰囲気を感じようと読み始めた。当初の目標どおり独特の言い回しや語句をごくわずかだが、知ることができた。佐伯が今日の大学に身を置く中で持つ問題を彼なりに解決し、スパイスとして西田を適宜引く。始終このリズムで進む。本書は西田幾多郎の入門的な本ではないが、本書の読者は、いつかその世界に踏み出そうとするだろう。
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西田幾多郎の哲学入門書というより、それを下敷きにして、これからの大学教育が直面する問題について思考したエッセイという感じ。
なので、このタイトルは、いささか内容とそぐわない。いささか期待はずれ。
途中で読むのをやめた。
国際力教育から大学の自治を守ろう、という意味あいで、西田や小林秀雄やらを引用したかったのだろうが。
まず、この著者のようなただの西洋哲学の解説者でしかない学者たちが、学生に生きる為の哲学を教えなかったせいで、大学の意義が問われていることに向き合ってほしいものだ。
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西田哲学は、無の哲学と呼ばれている。彼の人生上の苦難や悲哀と無関係でない。キリスト教で言う絶対者は、仏教的には本質的には「無」となる。
過去の思い出なくして我というものは、ない
裏と表の社会 天武天皇が「日本書紀」(表)を編線させたときに同時に「古事記」(裏)も同時に編線された。裏である出雲の国譲りがなければヤマト王権による国の統一はなかった。
我々日本人の中に敗北してゆくもの、西郷隆盛・源義経・後醍醐天皇・楠正成など、貶められた者への深い共感をもっている。一方で西洋の「勝つこと」を目指し、他方で時代に取り残された去るものへの愛着が抑えがたくある。
「哲学は悲哀から始まる」自分の経験に発し経験に戻ってくるべきもの
日本文化の核心とは、己を空しくし、無私や無我にたって事物に当たる精神。
「伝統」とは、ただ過去の保守ではなく、今ここでの世界性をもっていなくてはならない。「永遠の今の自己限定として物を創造し行くのが伝統である」
西洋の論理は、「物の論理」で日本の論理は「心の論理」だ。日本の論理は、主体を無化し、無化することで、歴史的現実へ実践的に参与する。日本文化の象徴は皇室である。
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著者は経済思想の専門家で、中西輝政とともに、京都大学で教鞭を取る保守派の思想家として知られています。本書は、京都学派を代表する西田幾多郎の哲学を、著者自身の文明批評的考察と絡めて、比較的自由に語った本です。
著者は「あとがき」で、本書は西田哲学の解説書ではなく、「私自身の関心と西田哲学を交差させた評論的エッセイです」と述べています。ただ、同じく「エッセイ」に近いスタイルで書かれた「幻想のグローバル資本主義」シリーズ(PHP新書)のアダム・スミス論やケインズ論が非常に深い洞察を示していたのに比べると、本書では哲学的な議論の扱いに素人っぽさがめだつように思います。『日本文化の問題』や「世界新秩序の原理」など、文明論や時評的な性格のテクストに関しては、それでも著者自身の考察とうまくつなげているように思えますが、「純粋経験」や「場所」といった西田の哲学的な議論に関しては、議論にぎこちなさを感じるところがあります。
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以前、善の研究を読んだ時は何が何やらさっぱりで、何が言いたいのかよく分からなかったのですが、本書の解説により、随分と理解が進みました。
なるほど光と影の関係で、西洋は光を重視し、対する日本は影を重視するということで、すなわち『無』を見つめるのが日本文化だと言います。谷崎潤一郎の『陰影礼讚』なんかは特に陰の素晴らしさをこの上なく表現している本なので、一読の価値ありです。
ふと思ったのですが、素材の味を生かした料理が日本的で、調味料や味付け加工が多いのが非日本的と言われればそうなのかなぁと。自我が強いと色々よく見せようとして加工する、無我だと我がないから有りのままを出す……そんな考えもできるのではないかと思いました。
日本精神というか、仏教の諸行無常の精神が日本精神となっているように感じます。逆の因果です。仏教が伝わらなかったら、この無の精神はどうなったのだろうかと思います。で、仏教の発祥は日本ではないので、日本文化というよりは仏教文化という方が、もしかしたら適切なのかも知れません。
グローバル化した現在、日本的文化は圧倒的に弱いです。無の思想というか、黙っていては何も分からないから、コミュニケーションの取り方が他国と比べて全く違います。僕個人としては、どちらも必要だなと思ったりします。『言わなくても分かるでしょ?』と敢えて言わなかったりするし、反対に『いや、言わなきゃ分からないでしょ』と思ったりもします。ちょうど今はその過渡期にあって、あと数十年もすれば、殆どの人が後者になるんじゃないかな~と思います。『言わなかったら、それは無いのと同じだ』と。それはそれで阿吽の呼吸が無くなって寂しく感じます……。
明らかにするのが西洋で、明らかにしないのが東洋だとすると、僕が興味を持っている古武術は、科学的トレーニングとまさしく陰陽の関係です。古武術は科学的トレーニングの対極にあるような気がします。現代科学では解明できない人体の驚くべき力の発揮は、言葉では説明できない驚異の能力だと思います。
自分を無くす、禅の修業をすると、自分の周りの関係が見えてきて、感謝するようになると聞きます。やり方は簡単で、一週間座禅を組むだけです。そうすると、思考が自分の事から他人に向けられるようです。これは自分を解放する面白い手段で、時間があればやってみたいと思うのですが、なかなか……。
僕の評価はA+にします。
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西田哲学の解説ではあるが著者の主張(反グローバリズム)が強く反映されている向きがあり,西田の著書の注釈以外の部分はその辺りを汲んで読む必要がある.
そもそも元が難解ということもあって,丁寧に説明されてもなかなか理解が進まないところが多かったが,さしあたり雑把な要点としては,自己や他のものを無に帰することにより,それそのものが持つ性質が自ずと見え,特に自己についてはそうして見出した性質に対しての評価や批判を捨てて「物となって行う」ことが,我々の本来あるべき姿である,といったところのようである.
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【由来】
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【期待したもの】
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※「それは何か」を意識する、つまり、とりあえずの速読用か、テーマに関連していて、何を掴みたいのか、などを明確にする習慣を身につける訓練。
【要約】
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【ノート】
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【目次】
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西田幾多郎に関する本を読んだのは本書で2冊目。
(西田本人が書いた本は数ページ開いただけで諦め・・・)
著者が経済学の教授であるということに興味を惹かれて手に取ってみたが、あとがきに、今まで遠ざけてきた西田幾多郎の本をたまたま読んでみたら一晩で読み切ってしまったとあり、その思いが随所に感じられ、こちらまでワクワクした気持ちで読み進められた。
いろいろな事柄を例にして、そこから西田哲学につなげていく書き方は分かりやすく、とくに「無」について書かれている部分はとてもかみ砕かれていて、イメージがつきやすい。
また西田哲学だけでなく、その背景や日本と西洋の対比、宗教など、多岐にわたって論じられているところに哲学以外の視点を多分に感じる。
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む、難しい〜
かなり噛み砕いて説明してくれているとは感じるものの、「絶対無」が出てきたあたりから疑問符が付き始めました。
わかりそうで、わからない、、、