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〈事実をもたない歴史家は根もありませんし、実も結びません。歴史家のいない事実は、生命もなく、意味もありません〉
事実は、歴史家が語ることで初めて歴史になる。
という主張にかなーーり共感。
歴史家の主観が入る以上、絶対確かな歴史なんてありえないのです。
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『ある時代の偉人というのは、何か彼の時代の意思を表現し、時代の意思をその時代に向かって告げ、これを実行することのできる人間である。彼の行為は彼の時代の精髄であり本質である。彼はその時代を実現するものである。』
ヘーゲルの古典的な叙述
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2012年4月8日の読了時から改めて再読。
事実はみずから語る、という言い慣わしがあります。もちろん、それは嘘です。事実というのは、歴史家が事実に呼びかけた時にだけ語るものなのです。いかなる事実に、また、いかなる順序、いかなる文脈で発言を許すかを決めるのは歴史家なのです。(p.8)
歴史の書物を読む時は、歴史家の頭の中のざわめきに耳を傾けた方がよろしい。何も聞き取れなかったら、あなたが聾であるか、あなたの読んでいる歴史家が愚物であるかなのです。実際、事実というのは決して魚屋の店先にある魚のようなものではありません。むしろ、事実は、広大な、時には近よることも出来ぬ海の中を泳ぎ廻っている魚のようなもので、歴史家が何を捕らえるかは、偶然にもよりますけれども、多くは彼が海のどの辺で釣りをするか、どんな釣道具を使うか―もちろん、この二つの要素は彼が捕らえようとする魚の種類によって決定されますが―によるのです。(p.29)
「歴史を研究する前に、歴史家を研究してください。」今は、これに附け加えて、次のように申さねばなりません。「歴史家を研究する前に、歴史家の歴史的および社会的環境を研究してください。」歴史家は個人であると同時に歴史および社会の産物なのです。歴史を勉強するものは、こういう二重の意味で歴史家を重く見る道を知らねばならないのです。(p.61)
私が大切だと考えますのは、偉人とは、歴史的過程の産物であると同時に生産者であるところの、また、世界の姿と人間の思想とを変える社会的諸力の代表者であると同時に創造者であるところの卓越した個人であると認めることであります。(p.77)
歴史から学ぶというのは、決してただ一方的な過程ではありません。過去の光に照らして現在を学ぶというのは、また、現在の光に照らして過去を学ぶということも意味しています。歴史の機能は、過去と現在との相互関係を通して両者を更に深く理解させようとする点にあるのです。(p.97)
歴史は、歴史の外部にある或るものに根本的に依存していて、それによって、他のすべての科学から分離されるというようなものではないのです。(pp.122-3)
偉大な歴史家―というより、もっと広く、偉大な思想家と申すべきでしょう―とは、新しい事柄について、また、新しい文脈において、「なぜ」という問題を提出するものなのであります。(p.128)
人間が先輩たちの経験から利益を得ることが出来る―必ず利益を得るというのではありません―ということ、それから、歴史における進歩は、自然における進化とは違って、獲得された資産の伝達を基礎とするということ、これが歴史というものの前提であります。(p.174)
歴史とは過去と現在との間の対話であると前の講演で申し上げたのですが、むしろ、歴史とは過去の諸事件と私大に現れて来る未来の諸目的との間の対話と呼ぶべきであったかと思います。過去に対する歴史家の解釈も、重要なもの、意味あるものの選択も、新しいゴールが私大に現れるに伴って進化して行きます。(p.184)
歴史上、「われわれの注意を惹くのは、一つの国家を形作るような民族だけである」というヘーゲルの有名な言葉が、社会組織の一つの形態に独占的な価値を認め、嫌悪すべき国家崇拝の道を開いたと批判されるのは当然のことです。しかし、原則から見ますと、ヘーゲルが言おうとしているのは正しいことで、歴史依然と歴史との例の区別を言い現わしているのです。自分たちの社会をある程度まで組織化するのに成功した民族だけが原始的野蛮人の域を脱し、歴史に登場して来るのです。(p.188)
今日、ロシアの機械がもう原始的でないこと、これらの機械を計画し、組み立て、操作する何百万というロシアの男女がもう原始的な人間でないことを私たちは知っています。私は歴史家ですから、この後の現象の方が興味があります。生産の合理性というのは、それより遥かに重要なことを意味しています。すなわち、人間の合理化です。現在では、世界中で原始人が複雑な機械の使用方法を学び、それを通じて、考えることを、自分の理性を使うことを学んでおります。この革命は社会革命と呼んでも間違いではありませんし、私は現在の文脈の中で理性の拡大と呼びたいのですが、いずれにしろ、これはようやく始まったばかりなのです。しかも、それは、過去30年間における猛烈な技術的進歩に遅れまいとして、猛烈な速度で進んで来ているのです。これは、私たちの20世紀革命の重要な側面の一つだと思われます。(pp.215-6)
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歴史とは恣意的なものであるという考え方は心底納得できるし、万物に主観が介在しているという理解にも繋がったし本当に良いことしか書いていないな。良くわからない御託並べてる暇があったら客観性を帯びた主観から学ぶしかねぇ。人生において影響を与えられた本の一つ。
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英国の歴史家E.H.カーが、1961年にケンブリッジ大学で行った講演「歴史とは何か」を全訳したもので、今や「歴史哲学」を論じた古典の一つとも言える一冊である。
本書の中で繰り返される「歴史とは現在と過去との対話である」というフレーズは、その後本邦で発表された歴史学を始めとする数々の書籍でも引用されている。
私は、本書を読んだことにより、歴史とは「史実」と「解釈」が組み合わさって成り立つものであることを認識し、それ以降は、何らかの形で(本でもTVでもネットでも)提示される「歴史」の見方が間違いなく変化したし、極めて大きな影響を受けた。
著者はまず前半で、「歴史家と事実」、「社会と個人」、「歴史と科学と道徳」、「歴史における因果関係」といった切り口で、歴史の持つ普遍的な意味を以下のように論じている。
歴史家と事実~「歴史上の事実は純粋な形式で存在するものでなく、また、存在し得ないものでありますから、決して「純粋」に私たちへ現われて来るものではないということ、つまり、いつも記録者の心を通して屈折してくるものだということです」、「事実を持たぬ歴史家は根もありませんし、実も結びません。歴史家のいない事実は、生命もなく、意味もありません。・・・歴史とは歴史家の事実の間の相互作用の不断の過程であり、現在と過去との間の尽きることを知らぬ対話なのであります」
社会と個人~「歴史とは、ある時代が他の時代のうちで注目に値すると考えたものの記録であります」
歴史における因果関係~「歴史は、歴史的意味という点から見た選択の過程なのです。・・・歴史家は、歴史的に有意味な因果の連鎖を、多数の原因結果の多くの連鎖の中から取り出すのです。・・・別の原因結果の連鎖が偶然的なものとして斥けられねばならないのは、原因と結果との関係に違いがあるからではなく、この連鎖それ自体が無意味であるからです」
そして、後半の「進歩としての歴史」、「広がる地平線」では、20世紀半ばという時代を反映して、ヘーゲルやマルクスの目的論的歴史観・唯物史観への疑問、構造主義的な考え方を語っている。
「歴史とはどのように捉えるべきなのか」、「歴史にはどのように向き合うべきなのか」を知るために、必読の書である。
(2005年5月了)
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単純に歴史とは何かというだけではなく、歴史学全体を問う。講演であるためか、他者への批判が多いのに驚いた。哲学的な考察も必要で、読み終わったものの、内容に十分ついて行けず、もどかしい。
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歴史とは歴史家と事実との間の相互作用の不断の過程であり、現在と過去との間の尽きることを知らぬ対話なのであります。
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養老先生が「わたしは歴史がなんなのかよくわからない。」とどこかで書かれていて、また、どこかで「若い人はれきしがわからない。なぜなら、自分が過ごしてきた時間が短いから、時間が流れているという実感が持てないからだ。」というようなことを書かれていて、歴史ってなんなんだろうなと思っていた。
そしたら、たまたま見たサイト(http://readingmonkey.blog45.fc2.com/blog-entry-662.html)に紹介されていたのを読んで、何を思ったかこれは読んでみなくてはと思って読んでみた。
読んでいたら、ポパーさんの批判が出てきて、えっ!これってどういうことよ。と思いよくわからなかったので二回読んだ。カーさんは歴史も科学もその取り組み方は、まったく同じだとは言わないまでもそのやり方は実は似ているのだと主張されていた。それって、ポパーさんが科学的方法とは何かを説明したやり方と、わたしにはまったく同じに思えたから、理解に苦しんだのである。
して思えば、ヒトの理性というものは大まか同じようにして働くものだということか。まぁそれはそうだ。脳の構造は人はみな同じである。その仕組も同じでおかしくはない。しかし、カーさんやポパーさんほど脳のメモリーが多くて、クロック数が高い人は少ないように思う。凡人はそんな風には理性を働かせられないのも、これまた、避けがたい事実であろう…
ごく一部の人は悟ることができるが、人類の大多数は目覚めることはないのだろうか?まぁ、そんなものかもしれない。だから、注意深く生きていこうと思った。生きるって、やっぱり大変だ。でもだからこそ喜びもあると思いたいな。
Mahalo
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初めて知る歴史の見方ばかり。歴史は事実と言うより解釈だったり、作家を知る必要があったり、偉人を社会現象として見たり、歴史を科学として見たり。驚きの連続
歴史哲学の古典だけあって、講義録でも 読み応えある。何度も戻り読みしながら読み進めた
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1962年刊行。著者はトリニティ大学フェロー。
客観的事実の確定に対する努力を放逐してしまったら歴史学は成立しない。そして、過去の事実の確定作業は歴史学のみならず、法学・経済学・社会学など社会科学と呼ばれる広範な学問分野、現実の社会生活に広く関わる。
本書は、客観的事実の確定のみを優先する見解ではないが、その価値を十分踏まえたうえで、歴史学の在り方を広範に検討していく。
①事実と解釈、その相互作用。②社会と個人の関係、不即不離。③科学性。普遍化・抽象化・析出化。④因果関係論。⑤歴史的進歩の意味。特に、生物的進化との異同(差異性)など。
なるほど、社会科学に関わるものとしては必読、ということを十分信認しうる書である。
補足。
「事実を尊重せねばならぬという歴史家の義務はその事実が正確であることを確かめる義務(に止まるものではない)」(事実の正確性は所与の前提)。「歴史とは事実と歴史家の相互作用の不断の過程」とある。著者が事実の確定を決して軽んじているわけではなく、いやむしろ、それを所与の前提としている点を読み解けそうだ。
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途中までで一旦終了。歴史とは何かという問いに様々な側面から考察。
過去と現在の相互関係によること、歴史家その人もその生きている時代の産物でそれを知る必要があること、等々なるほどという部分も多い。
難解なところも多いので、要約でも良いかもしれない。
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「事実は神聖であり、意見は勝手である」
→これはガーディアン紙の編集長だったチャールズ・プレストウィッチ・スコットの言葉。事実を正確に把握することは難しいけど、そのたったひとつしかない事実へと辿り着くことが歴史の使命。たったひとつしかないがゆえに、事実は神聖なんだ。意見はひとそれぞれ自由に持てばいい。
「過去に対する歴史家のヴィジョンが現在の諸問題に対する洞察に照らされてこそ、偉大な歴史は書かれるのです。」
→事件を並べれば歴史になるわけではない。過去を歴史的に解釈するためには、現在起きている事件への考察が必要となるんだ。
「原因という問題に対する歴史家の見方の第一の特徴は、一つの事件について幾つかの原因を挙げるのが普通だということであります。」
→なにかの原因を探すとき、わたしたちはひとつ原因を見つけると安心してしまうけど、世の中ってそんなに単純ではないよね。いくつもの原因が複雑に絡み合った結果としてひとつの事件が起こるのです。
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身構えて読んだけど、翻訳が優秀であるせいか、非常に読みやすかったし、ウィットに富む著者の筆使いには親しみさえ感じる。著者は、懐疑論にも独断論にも偏らないよう心掛けているように思える。また、主観-客観図式における「どちらが先か」という議論よりも、相互作用の概念を用いることの方が有用性があると認識しているように読めた。冒頭から終章まで、“An unending dialogue between the present and the past.”のテーマが底を流れ、とても一貫性があり読みやすい。多くを学ばせて頂いた。
ただし、メタ的な話だが、この本を読むにあたっても本来ならば「当時」との対話が必要であることが実感される。当時の英国の思潮や社会科学における主要な言説などの知識がないと、この本で述べている内容の一部は理解し切れない。
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古い本であっても、中身に古臭さは感じない。
歴史とは歴史家と事実との間の相互作用の不断の過程であり、現代と過去との間の尽きることを知らぬ対話なのである。
僕たちが「歴史家を通じて」観測できる「歴史」は相対的なものであり、歴史そのものはダイナミックなものである、と理解。
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●歴史的事実というのは、歴史家の思想によって選択されたものだと本書は喝破する。これまで「事実」というものは、誰の作為もない純粋なものというような認識でいた。けれど考えてみたら、歴史に関わらず科学的論説に、その観察者の主観が一切入らないということはあり得ない話で、この本からは鋭い洞察を得られた。