紙の本
存在というものの不確かさを時間と空間の中に、記憶と脚を頼りに追いつづける
2014/12/26 12:36
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投稿者:abraxas - この投稿者のレビュー一覧を見る
初めて読んだ小説のはずなのに、既視感(デジャヴュ)のように、見覚えのある光景がちらちらと仄見え、聞き覚えのある口ぶりが耳に懐かしく甦る。何ひとつ家具らしいもののないがらんとした一室は『さびしい宝石』、探偵が相棒の口癖を思い出すのは『暗いブティック通り』、馴れ親しんだ界隈を歩いては女が歩いたはずだと確信するのは『1941年。パリの尋ね人』だ。なんのことはない。かつて読んだモディアノ作品で使われていた設定や背景を、まるで映画のセットや俳優を使い回すようにして作られた新作である。ふつうなら、がっかりしたり腹が立ったりしそうなものなのに、モディアノだと、馴染みの店に久しぶりに入ったようで妙に落ち着いて心地よい。これがモディアノ中毒なのだろうか。
ルキという名でカフェ・コンデの常連仲間に愛された女の正体とは。四人の話者によって語られる一人の女のそれぞれ異なる横顔。女を追いつづける男たちがパリ市街を歩き回る焦燥感に満ちた足どり。アイデンティティの不確かな女を核に、五月革命前夜のパリ、セーヌ左岸のカフェにたむろする男たちの在りようをスケッチし、かつて確かにそこに流れていた時代の風景を鮮やかに甦らせるパトリック・モディアノらしさの横溢した一篇。
モディアノは探偵が後を追うように、ルキの周りにいる男たちにルキについて語らせる。たしかに男の気をひく女なのだろうが、外面ではない。よく、心ここにあらずというが、所在のなさというか、どこにいてもそこが本来の居場所ではないような、ルキのそんなところが皆の注目を引いたのだろう。ルキは、モディアノ文学にはお馴染みの、舞台で稼ぐ母を持ち、かまってもらえないことから、夜間外出を繰り返す少女が大きくなった姿である。
小さい頃に親にしっかり面倒みてもらえなかったことが、長じてその子の自我に与える影響は強いものなのだろう。モディアノのオブセッションともいえる。《永遠のくりかえし》が、ここでもその主題となっている。探しても探しても確かな手応えとなって帰ってくることのない「私」という存在。それを見つけるための悪あがきがかえって自分を追いつめてゆく。過去の自分を知る界隈(カルティエ)から逃げ、年上の男やグル的人物を頼り、空っぽの自分を埋める何かを探す女。その女ルキの自分探しの顛末を、彼女に魅かれた男たちの証言でつづってゆく。
いくら言葉をつくしても彼女を知りつくすことができない男たちの無力感が色濃い。パリという都市を線引きし、異なる相貌を見せる地区を区切り、その中心に「中立地帯」を夢想する、作家自身を思わせるロランという同い年の青年がいちばん彼女の近くにいると思われたのだが、ルキはその手からもするりと抜け落ちてゆく。強い肯定の意を響かせるニーチェの『永劫回帰』とちがい、モディアノのいう《永遠のくりかえし》は、たぐってもたぐっても自分のもとによって来ない過去の空白の記憶を充填しようとする、報われない行為のように思えてならない。存在というものの不確かさを時間と空間の中に、記憶と脚を頼りに追いつづけるパトリック・モディアノの彷徨は終わることがない。
翻訳は原文の息遣いを感じさせるが、日本語の文章表記として斬新すぎる。縦書きで一人を1人、十月を10月、と書かれると違和感がある。それ以外にも「ジェスト」、「ボールポイント」のような日本語としてこなれていない外来語の使用頻度が必要以上に高い。これぞモディアノという翻訳をしようという意欲は買うが、翻訳は自分だけのものではない。構文はともかく、用語の選び方など、他の訳書とのバランスも考慮してほしいところだ。
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著者はフランスの現代作家の第一人者なんだそうです。タイトルに惹かれて手にとりました。フランス映画のような本でした。
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正直に告白します。
途中で読むのを断念しました。
ワタシには判りにくく、物語の進行が掴めなかった。
何年か後に悟りを開いた後で再度挑戦します。
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モディアノは『家族手帳』『サーカスが通る』の原文に当たったことがあるが、そのときの何とも言えないモディアノ文学のニュアンス、雰囲気などが本書の翻訳において損なわれておらず、まるで原文を読んだ時と同じ印象を受けた。そういった意味で訳者の『初めて本書を読んだ時の感動を伝える訳をする』という試みは成功していると感じた。
とは言っても、文学的に”読みにくい”翻訳であることは否めない。しかしこの味わいこそが、モディアノ作品の個性なのだから、この作品はこの翻訳で良いと思う。
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ヌーヴェルヴァーグの、そう、たとえば初期のゴダールなんかに撮ってもらいたいような映像感覚の、そんな物語。
カフェ・コンデに現れるミステリアスな若い女性「ルキ」とは何者なのか?4人の主語によるそれぞれの見方にて、時間と場所が錯綜しながら次第に明らかになる背景。しかし、背景が明らかになればなるほど、逆に離れていく「ルキ」という人物との距離感。とらえどころのない「ルキ」の行動がますます物語のミステリアスさを増幅してゆく。
フランス人の日常生活に溶け込んでいると思しきカフェを物語導入の舞台とし、パリの街並みを縦横に思う存分紹介してくれているにもかかわらず、主語の「語り」が感覚的で柔らかでありながらどこか神秘的で抑制の利いた文体が、逆にイマジネーションの世界かと見紛うほどに不可思議な感覚へ読者を誘ってくれる。
「ルキ」の現状からの逃避と脱出の繰り返しは、訳者解説にもある通り、本書のテーマの「永遠のくりかえし」を象徴する行為であり、絶えまなく漂流している若者の漠然とした心情をよく表現していたといえる。
パリを舞台にそのようなふわふわ感を大いに楽しませてくれる、そんな物語。
その訳者解説によれば、本書はモディアノの「ベスト盤」的な一作とのことで、4人の主語それぞれの語りがそれぞれの短編となって、これまでのモディアノ作品の魅力をぎゅっと凝縮したものとなってるという。そう聞かされてみれば少し得をした気分にもなった。(笑)
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初めて読んだ小説のはずなのに、既視感(デジャヴュ)のように、見覚えのある光景がちらちらと仄見え、聞き覚えのある口ぶりが耳に懐かしく甦る。何ひとつ家具らしいもののないがらんとした一室は『さびしい宝石』、探偵が相棒の口癖を思い出すのは『暗いブティック通り』、馴れ親しんだ界隈を歩いては女が歩いたはずだと確信するのは『1941年。パリの尋ね人』だ。なんのことはない。かつて読んだモディアノ作品で使われていた設定や背景を、まるで映画のセットや俳優を使い回すようにして作られた新作である。ふつうなら、がっかりしたり腹が立ったりしそうなものなのに、モディアノだと、馴染みの店に久しぶりに入ったようで妙に落ち着いて心地よい。これがモディアノ中毒なのだろうか。
「つまるところ、唯一の興味深いひと、それはジャクリーヌ・ドゥランクだった」。ルキという名でカフェ・コンデの常連仲間に愛された女の正体とは。四人の話者によって語られる一人の女のそれぞれ異なる横顔。女を追いつづける男たちがパリ市街を歩き回る焦燥感に満ちた足どり。アイデンティティの不確かな女を核に、五月革命前夜のパリ、セーヌ左岸のカフェにたむろする男たちの在りようをスケッチし、かつて確かにそこに流れていた時代の風景を鮮やかに甦らせるパトリック・モディアノらしさの横溢した一篇。
モディアノは探偵が後を追うように、ルキの周りにいる男たちにルキについて語らせる。たしかに男の気をひく女なのだろうが、外面ではない。よく、心ここにあらずというが、所在のなさというか、どこにいてもそこが本来の居場所ではないような、ルキのそんなところが皆の注目を引いたのだろう。ルキは、モディアノ文学にはお馴染みの、舞台で稼ぐ母を持ち、かまってもらえないことから、夜間外出を繰り返す少女が大きくなった姿である。
小さい頃に親にしっかり面倒みてもらえなかったことが、長じてその子の自我に与える影響は強いものなのだろう。モディアノのオブセッションともいえる。《永遠のくりかえし》が、ここでもその主題となっている。探しても探しても確かな手応えとなって帰ってくることのない「私」という存在。それを見つけるための悪あがきがかえって自分を追いつめてゆく。過去の自分を知る界隈(カルティエ)から逃げ、年上の男やグル的人物を頼り、空っぽの自分を埋める何かを探す女。その女ルキの自分探しの顛末を、彼女に魅かれた男たちの証言でつづってゆく。
いくら言葉をつくしても彼女を知りつくすことができない男たちの無力感が色濃い。パリという都市を線引きし、異なる相貌を見せる地区を区切り、その中心に「中立地帯」を夢想する、作家自身を思わせるロランという同い年の青年がいちばん彼女の近くにいると思われたのだが、ルキはその手からもするりと抜け落ちてゆく。強い肯定の意を響かせるニーチェの『永劫回帰』とちがい、モディアノのいう《永遠のくりかえし》は、たぐってもたぐっても自分のもとによって来ない過去の空白の記憶を充填しようとする、報われない行為のように思えてならない。
年上の知識人が集うカフェにも、隠秘学を奉じるギ・ド・ヴェールの主催する集会にも、ルキと呼��れる女の居場所はなかった。目印のように記される地名は今もあるのに、もうそこにはない店や学校。たしかにいたはずなのに、回想の中でしか立ち現れてこない一人の女。存在というものの不確かさを時間と空間の中に、記憶と脚を頼りに追いつづけるパトリック・モディアノの彷徨は終わることがない。
気鋭の翻訳は原文の息遣いを感じさせるが、日本語の文章表記として斬新すぎる。もしかしたら元の原稿が横書きなのかもしれないが、縦書きで一人を1人、十月を10月、と書かれると違和感がある。それ以外にも「ジェスト」、「ボールポイント」のような日本語としてこなれていない外来語の使用頻度が必要以上に高い。フランスには、モディアノ中毒という言葉がある。これだけ訳書が刊行されていれば、日本にもモディアノ中毒患者の数は少なくないと思う。これぞモディアノという翻訳をしようという意欲は買うが、翻訳は自分だけのものではない。構文はともかく、用語の選び方など、他の訳書とのバランスも考慮してほしいところだ。
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霞がかったような、あのころカフェで出会った彼女についての記憶を巡る物語。
思い出を語る人々の声は儚げながら輝いているように見える。
それは過去という定点の美しさからでしょうか?
なんだか心地よい読後感。
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逃げ去る時、誰かの前から消え去っていく瞬間にだけ、私はほんとの私自身だった。
ミニマリズムのエステティックといわれる、2014年のノーベル文学賞作家の短編集。文学だ。すごく…。
ミニマリズムというのはどうやら、日常の何でもないような風景を描写する中で表現していく手法らしい。
フランスのパリに生きるなんでもなくて、何者にもなれなかった人間の姿を描いていて、あまりになんでもないような事ばかり書かれている。でも、その文章は知らないうちに心に響いているらしい。
だから偉大な文学者なんだろう。
日本人は昔はミニマリズムの文化を持つ、繊細な民族だったらしい。そういえば、川端康成とか谷崎潤一郎とか読んでいてピンとこない、さざ波のような文学だな。
だから、モディアノは日本人向きらしい。
しかし、ミニマリズムのエステティックって、なんかエロいな。
____
p90 逃げ去る時、誰かの前から消え去っていく瞬間にだけ、私はほんとの私自身だった。
この一節はすごい心に響いた。
くだらねぇ糞みたいな世の中を生きるにはペルソナを被っていくしかない。そんな普段の自分は、私自身なんかじゃあない。じゃあ、本当の自分が出せるのはいつか、それは、誰もいなくなった時だ。その人と別れる時である。
人間関係という、重荷から解放されたとき、人は自分に戻れる。帰れる。だから、別れは必要なの。
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ヒロインをめぐる何人かのお話。ヒロイン自身が語り手となる章もあり。文章の美しさにうっとり。パリに行きたくなる。いつか原書で読んでみたいなあ。
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ルキをめぐる数人の人物による回想で語られる物語。
一言も美しいなんて書いていないのに、美しい人だとわかるルキ。儚さも美しい。けれど、全体に漂うメランコリックな空気が夏には重い。冬に読みたい作品。
プルーストはもちろん、ポール・オースターが好きな人にもモディアノはおすすめです。
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「逃げ去る時、誰かの前から消え去っていく瞬間にだけ、私はほんとの私自身だった。私のいい思い出はみんな、消え去った、逃げ去った思い出、それだけだった。」
「人はいろんなことを言う……。そしてある人々がある日消え去ると、人は彼らのことをなにも知らなかったことに気づくのだ。彼らがほんとうはだれだったのかさえ。」
「そう、それでいい。楽に行こう。」
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難しい....
雰囲気がもやっとしててきれいなのはいいんだけどな
と思ったのは何年か前。
いま、もう一度読んでみたい。
きっと感じるものが違うんだろうなと思う。
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探偵する学生と探さない探偵、そして4
今朝「失われた時のカフェで」を読み始め。元々の題は失われた若者或いは世代といったところで、プルースティックな味わいは訳者平中氏による。
モディアノの作品に共通する(らしい)誰かの人生を再構成するというテーマを扱った、美味しいとこどりの「モディアノのベスト盤」というこの作品、ダイジェストすぎてなんか作品の鍵がつらつらと出過ぎな感もある。もっといろいろ詰め込めたのでは?とも思うけど、それがモディアノの味なのかな(「イヴォンヌの香り」外では初体験なので、まだ確かなことは言えませんが)
男たち、女たち、子どもたち、犬たち。この途切れることのない流れの中で、通り過ぎた、あるいはさまざまな通りの彼方に消え去った彼らの中で、人は時おり、ある面ざしをとりとめたい、と希う。
(p15)
通りというのもモディアノ文学の頻出項目かな。今回彼らが探すのは通称ルキという若い女。始めの語り手の学生はカフェの別の客がつけてた客年鑑みたいなノートを元に彼女を再構成しようとする。
第二の語り手は彼女の夫から依頼を受けた探偵。でも探偵なくせに最後は彼女を失われたままにしておくことにする。
あなたは全てをでっち上げることができる。新しい人生。彼らはその真偽を確かめようとはしない。語っていくにつれ、この想像上の人生が、すばらしく新鮮な一陣の風が、そこを吹き抜ける。長い間ずっとあなたが息をこらしていた、閉じ込められていた、その場所に。とつぜん窓が開き、鎧戸は外海の風にカタカタ音を立てる。
(p28)
さっきのノートを借りた探偵は職業を美術出版者と偽る…とそこからの文章…今度試してみよう…ここにも出てくる「あなた」という語りかけは、語り手の区別を越えていて、モディアノが読者に直に語りかけてきているようだ。
僕にはすぐさま問題の核心に入ることなく、現場を偵察する習慣があった。
(p35)
これは探偵だけでなく、モディアノ自身にも言えるのでは、と思ってたら、次ページに「小説でも書くべき」と上司の批判が…
さて、この作品、語り手4人の構成で、この「4」というのもいろいろ変形で出てくる。学生の語りの最後に4語の単語(学校名)を繰り返してたり…その後もいろいろ。
第三の語り手は探し求められていた当のルキことジャクリーヌ。解説の冒頭の文章(ここでも通りが出てくる)も魅力的だけど、今回はここから。
逃げ去るとき、だれかの前から消え去っていく瞬間にだけ、私はほんとの私自身だった。
(p90)
「失われた時を求めて」も思い出させる(「逃げ去る女」)この文章。人は何かの瞬間の為だけに生きているのかもしれない。
(2016 03/27)
オートフィクションと密告
モディアノ「失われた時のカフェで」…実は4ではなく語り手は5だった…
少しずつ解説も読んでみる。モディアノ作品に限らないけど、オートフィクションという概念がある。日本語の訳はしばしば「私小説」となっているけど、もちろん日本の私小説とはかなり違う。「自らの人生そのものをフィクション化していく」(p��57)もので、日本の私小説とはベクトルが逆。オートフィクションは私を小説化、日本の私小説は小説を私化…あとはモディアノ作品のおおよその区切りとして1975年より前は今より「表現主義的」だったという。表現主義そのものではないが、今よりラディカルでそれは今日でも残っているという。何かわからない第二の語り手ケスレィの怒りなどはその一つか。
さて、モディアノには「1941年、尋ね人」という戦時中の人物再構成を主題とした作品があるけど、それに関してモディアノではない作品から興味あるのを一つ…といって作者名忘れたけど…「密告」というその作品は身近な人が自分の家族を密告していたと戦後偶然に気付くことから始まる歴史再構成。
フランスの戦後も終わっていない…
モディアノ読了(その1)
というわけで…
まず、語り手はやはり4でした。5部に別れてはいるけど、最後の2つは同じ語り手(ロラン)…ルキが本名ではないように、ロランも本名ではない(本人曰くもっとエキゾチックな名前だそう)。この辺も読み解く鍵かも。物語の後半はずっと中心に朗読会?があるのだが、その中心人物ド・ヴェールがこのルキとロランを無責任に引き込んだ(時代背景は1960年代後半)という研究者の指摘がある。そこら辺になると自分はよくわからないのだが、モディアノ自身の青春と重なる部分ではある。
そのド・ヴェールがロランに言った言葉から。
だれかをほんとうに愛した時は、そのひとの謎も受け容れなくちゃいけない
(p133)
その次のページ。
そしてある人々がある日消え去ると、人は彼らのことをなにも知らなかったことに気づくのだ。彼らがほんとうはだれだったのかさえ。
(p134)
前者の文はレヴィナスも参照する部分が解説にあり(その2へ)、後者はモディアノの主要テーマである人物再構成へとつながるのだが、解説ではなぜ「ある人々」であって「ある人」ではないのか、と問う(集団的記憶)。
あとは、作品中の「時間の滑り」。これもモディアノを特徴づけるものの一つなのだが、この作品でも、いつの時点から回想しているのか、その語っている時点が実は絶えず浮動しているのではという感覚がある。この語るという行為そのものも逃げ去る読感が自分には愉しめた。
残る解説はその2へ。
モディアノ読了(その2)
では、解説へ。
複数の視点による「一人称」からなるこの作品だが、その中心でヒロイン・ルキの人生がいわば「ブラック・ホール」のようにその別々のナラターたちの「物語」を引きつけ、結合する。どれもが彼女をめぐる記憶を紡ぐナラションだからだ。
(p170)
ブラックホールという言葉も作品中に出てくる。なかなか簡潔で手際のよいまとめ方なのだが、一つ気になるのは「結合する」のは誰か?というところ。ロランなのかケスレィなのか第1部の語り手なのか神なのかあるいは作者なのか、ひょっとしたら読者なのか。
私の中にある謎と他者としての謎…ややレヴィナスを応用しつついえば《他者》とはつまるところ謎であり、それが私の中にあろうと他者として存在しようと、謎であることには違いはない
(p175~176)
謎、もしくは《なぞの女》は「その自己の中にある解明しえない謎の外在化」に当たる。謎の外在化してたら他の人の外在化と交わってた…みたいな。
あと意外にもモディアノの最初期の愛読書はセリーヌみたい。この二人最初思ったより相性いいのかも。
(2016 03/29)
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パトリック・モディアノの比較的最近の小説。ラストに驚きますが、いつものように、謎のヒロインを巡る何人かの独白体の組み合わせで、巻末解説にもありますが、モディアノのベスト盤といった雰囲気の名作。
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なかなかキッパリ引けない線。背景に溶け込むような不明瞭な輪郭線で描かれた人物像って感じ。悪くない。とはいえ続くとちょっと飽きる。