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体つき体の動かし方に生活や考えが反映されている。
考えずに動く体。考えていては遅くなる。数値化しにくいもの。
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誕生日のユルい決意として「人と争わない・競わない」とした数ヵ月後に、この本読むねんもんなぁ。意識することで出会うものってあるよなぁ。
ここんとこ、山に行くと下りより登りが断然面白いのである。ついこないだまで「しんどい思いは出来るだけ少なくして、いい景色や美味しい空気を味わいたい」と思っていたのに、いや、今でも時として「俺なんでこんなしんどいことしとんねやろ?」と脳裏に思い浮かぶのだが、それでも登りが楽しい。
登山口からちょいと歩いて、本格的な上り坂になってしばらく経つと、身体が熱を帯びてくる。衣服を調整して、水分を含み、靴とザックの紐を調整して再び登りだす。肩と腰にかかるザックの重み、無駄な横揺れを防ぐために胸の前で腕を組み、横揺れしようとする動きを足の振り子に変えていく、身体をやや前傾し、その重心を支えるために足が自然に前に出る。つま先と膝の方向を極力合わせて、段差は大股にならず小さく刻む…
この一連の流れが綺麗にかみ合った時の気持ち良さ。山道が持っているリズムに自分の歩みがあてはまったしっくり感。この感触を知ると、ワーッ、ダーッって降りてしまいそうになる下りにはない味わい深くて嵌まるのである。
で、この本である。合気道の内田樹さんと、ラグビーの平尾剛さんの運動やトレーニングに関する対談をまとめた本である。
現状、日本の体育やスポーツというのは「勝利」であったり「数字」であったり、数値化してその数字の向上を目標しているが、2人はそれを認めない立ち位置で対談していること。内田さんは合気道の人(合気道に試合はないらしい)だからともかくとして、平尾さんはラグビーの人なのに、それをするかぁというのが新鮮。
成果としての勝利やトライ数、キック成功率は認めるが、その数字を追いかけることを最終目標とするのは違うんじゃないか、ということである。
身体を動かすのは本来とても気持ちがいいことで、それは子供がじっとしておらず、動き回って走り回っていることでも分かるだろうと。で、体育にせよスポーツにせよ、その気持ちよさをもっと教えて行くことに意義があるんじゃないかということ。
そう、そういう気持ちのよさは、多くの人が経験したことがあるんじゃないだろうか?
逆上がり、うんてい、跳び箱、前転、スキップでも、シャーペンの浪人回しでも、一番最初に出来た時の達成感とか快感とかって凄く気持ちよかったやん。
数字だけが、人と競い勝つだけがスポーツじゃない。昨日できたことが今日出来る喜び、自分が思う通りに身体が動くようになった快感。ただ単純に飛んだり跳ねたり転がったりする野生の気持ち良さ。それもまた正しいフィジカルの悦びだと、この本にはそういうことが書いてあり、やっぱり俺は「人と争わず、競わない」方向で楽しんで行こうと思った次第。
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付箋を貼りまくって何度も読みたくなるような本。
こういうの、スポーツで子供をどにかしようと思っている親御さんに、
今!読んでほしいと思う。
合気道の内田さんと、ラグビー日本代表だった平尾さんとの体をめぐる話。
2007年の対談と2014年の対談。
19年間のラグビー生活の中で得た経験を言葉に落としていくことは、
その人にしかできないし、誰のものでもない貴重なもの。
第一線でスポーツをやっていた人が、教育に向きあって、
自分の経験を言語化していく勉強をしていくことって
客観的で誰にでもわかるような形で教えてくれるというのは
とても意義のあることだと思う。
感覚でしか分かっていない、感覚としてもまだちゃんと感じていない、
個人の経験で済まされてしまうようなものの中に
誰にでも共通している、数値化できないけれどとても大切なものがたくさんある。
今のスポーツ教育の中では置き去りにされているものの中に、
その人が豊かに生活していく、
生き延びていくために必要な知恵が山のようにある。
身体に対する信頼や愛情、興味などに裏打ちされた二人のやりとりは
とても健全で気持ちがいいもの。
子供をとりまく今のスポーツの状況の歪んだ姿、怠慢な構図に悲しくなる。
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フランス文学・思想の研究者であり現在は武道家として指導をおこなっている内田樹と、元ラグビー選手であり現在は教育者である平尾剛の対談です。
『バガボンド』の井上雄彦と内田の対談でもおなじように感じたのですが、優れたスポーツ選手であるばかりでなく、内田の身体論の深い理解者でもある平尾を相手にしていることで、内田の語り口もいつも以上に生き生きとしているような印象を受けます。ただ、両者のあいだに対立点はなく、もっぱら平尾が内田を身体にかんする知の先達としてそこから多くを学ぼうとするスタンスをとっているためなのか、読者の立場としては二人の議論にしばしば置いていかれてしまうように感じてしまうところがあったのも事実です。