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『人はパンがなければ生きていけない。しかし、パンだけで生きるべきでもない。私たちはパンだけでなく、バラも求めよう。生きることはバラで飾れねばならない。 ウィリアム・モリス 』
p27
ウサギ狩りに行く人はウサギが欲しいわけではない。
『「ウサギ狩りに行くのかい?それならこれをやるよ。」そう言って、ウサギを渡すのだ。
さてどうなるだろうか?その人は嫌な顔をするのに違いない。
答えは簡単だ。ウサギ狩りに行く人はウサギが欲しいのではないからである。
人は獲物が欲しいのではない。退屈から逃れたいから、気晴らしをしたいから、ひいてはみじめな人間の運命から目をそらしたいから、狩りにいくのである』
P36
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友人の勧めで読み始めた一冊。
教えてもらってなかったらまず読んでなかったろうと思う。
最初から最後まで突き放すことなく丁寧にガイドしてくれて、前述の議論をさりげなく振り返り「あぁ、そういやそういう話だった」と思い出させてくれるのでストレスなく読み進めていくことができました。
これは(あとがき読む限り)たぶん編集者さんの手腕なんやろうなと。うーん。凄い。
肝心の内容について。
結論部分から言えば、
「そうそう!!学ぶ楽しみってこういうことだよね!!」
ってこと。
その楽しみは訓練しないと手に入れられない。
みたいな話も腑に落ちる。
これからの思考にあたって色んなエッセンスを貰った気がします。
それ以外の部分では、これまで哲学が議論してきたことが載っており、少しだけ哲学の世界に触れられたような気がします。
おもしろいなー。
今年はほんとにいい本と良く出会う。
嬉しい。
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有名な哲学者(ラッセルやハイデガーなど)の主張をベースに、著者がそれに異議を唱えながら、「暇」と「退屈」を哲学的に考えていく。哲学の本にしては、具体例も多く、わかりやすく面白かった。
考え方の過程が書かれており、著者の脳内を覗いているようだった。哲学には、答えはなく、様々な考え方がある。全てを飲み込むのではなく、自分で考えること、人に流されないことも哲学をすることなのだと思う。
著者の講演を聞いたが、めんどくさそうなオッサンだなと思った。他の人の考えに触れること自体は面白い。比較的、読みやすく書かれているところは評価出来る。哲学するってこういうことなのかな。
暇と退屈とは何か。国や社会が豊かになれば、そこに生きる人たちには余裕がうまれる。ひとつは金銭的な余裕。もうひとつが時間的な余裕。われわれは裕福になり、暇を得た。
人は暇を得たが、暇を何に使えばよいのか分からない。このままでは、暇の中で退屈してしまう。なぜ人は暇の中で退屈してしまうのだろうか?そもそも退屈とは何か?
こうして、暇のなかでいかに生きるべきか、退屈とどう向き合うべきかという問いがあらわれる。〈暇と退屈の倫理学〉が問いたいのはこの問いである。
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2015年9月20日に開催された第1回ビブリオバトル全国大会inいこまで発表された本です。予選D会場発表本。
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この本は、転職が決まり有休消化で暇を持て余している頃に読んだ。人間は暇と退屈に悩み、苦しむものらしい。自分の人生の岐路になるだろう時期に、このような本を読んだのはいい経験だったかもしれない。
『ファイト・クラブ』という映画が紹介されている。そのうち見てみたい。
この映画では、”暇なき退屈”を生きる主人公が描かれているという。矛盾するようだけども、確かにそういうことはある。仕事に忙殺されているので、暇ではない。でも退屈だ。本当にこのままでいいのだろうか、と心の中で退屈の声が鳴り響く。それをかき消すために、色んな遊びをしたり買物をしたりと気晴らしをする。でも、満たされない。
暇や退屈と言うと、割と日常的なゆるい言葉と思っていた。それを真面目に哲学して、人はどう生きればいいのかといった話にまでなっている。人間は退屈と戦い、気晴らしをして生きているようだ。
「人生は死ぬまでの暇つぶし」と言うが、趣味も仕事も遊びも、結局は退屈を解消するための気晴らしなのかもしれない。そんな中で幸せだと思えるものを見つけられればいい。
Wikipediaにも「退屈」のページがあった。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%80%80%E5%B1%88
うまくまとめることはできないけれども、ざっと印象に残った箇所をメモしておく。
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・人類が目指してきたはずの豊かさ、それが達成されると逆に人が不幸になってしまうという逆説。
20世紀初頭のヨーロッパでは、既に多くのことが成し遂げられていた。これから若者たちが苦労して作り上げねばならない新世界など、もはや存在しないように思われた。若者にはあまりやることがない。だから彼らは不幸である。新興国はそうではない。
・”豊かな社会”では、「好きなこと」は生産者が操作している(広告、マーケティング)。「楽しいもの」を提供されている。主体的に探し、好きになっていない。労働者の暇が搾取されている。
・ウサギ狩りに行く人は、ウサギが欲しいのではない。気を紛らわせてくれる騒ぎが欲しい。そのために、わざわざ苦労して出かける。
・人類が狩猟採集から定住生活を開始したことで、能力の過剰が生まれ、暇と退屈が生まれた。能力の過剰は文明の発展をもたらした。
・消費社会と退屈。浪費と消費の違い。
・「環世界」の概念。人間と動物の違い。
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曖昧なもの、曖昧な関係、曖昧な状態、曖昧な印象を、その割り切れなさのままに、留保し、ありのままに受け止める能力、それをつけていきたい。何に置いても。
僕が行っている「感覚」とか「自然」というのは、単なる「盲目」に過ぎない。節穴なくせに、一切その外部を許容しない傲慢な態度が、ここのところ続いている。全く良くない。もっと真摯に世界と向き合う「気概」を持つこと。わからないことを、わからないと認めて、その溝を埋めて行く作業をしていくこと。謙虚な気持ちを持ちながら、偉大な作品な質を知覚できる努力をすること。てんでダメだ。
ここ数年、僕は忍耐力がなくなってきている。大学4年の時は、もっと真摯に「わからない自分」を認めていた。もっと必死だった。判断せずに、わからないままに保留していた。今の僕はうぬぼれている。生き甲斐や将来よりも、楽しさや喜び。そこには絶対的に「反発」や「未知」「わからなさ」がある。そこから逃げていてはいけない。
ともかく、「ためになる」ことでも、「正解(に見える)」ことでもなく、今の自分がどうにも惹きつけられること、気になる事、やっていて楽しいこと、そういうことに、毎日瞬間瞬間、従事しよう。「間違」っているのを恐れるより、楽しさの方が正しい。全てにオールマイティーで、欠点を消していく必要はない。専門性を磨く。
「自分」は「今」、「愉しいこと」「面白いこと」に注力する。「欠落している部分」を埋めるために苦行するのではなく、「今の充足」を最優先する。つまり人の目を気にしないこと。「名声」や「安定」や「職業」や「将来」を気にしても、今は輝いてこない。「今の自分」を輝かせることが何よりも大事。間違っているなら、そのうち内部生命が修正してくれる。とにかく正解は今にしかない。そこからしか積みあがっていかない。
〇以下引用
不思議だったのは、彼が楽しんでいるようには見えないことだった。彼の声は明かに周囲にいる人たちに向けられていた。それは何というか、自分を見て欲しいとの思いが込められた声だった。自分はサッカーの試合に集中している、と、彼が全力で周囲に訴えかけている、そんな風に見えた
→自分も同じようなことをしている気がする。アートを、それだけ真には観れていない。
その番組を見て、番組が進める場所に行って、金銭と時間を消費する、さてそうする人々は、「好きなこと」をしているのか?
生産者が消費者に「あなたが欲しいのはこれなんですよ」と語りかけ、それを買わせるようにしている
文化産業が支配的な現代においては、消費者の感性そのものがあらかじめ制作プロダクションのうちに先取りされている
暇を得た人々は、その暇をどう使ってよいのかわからない。何が楽しいのか判らない。自分の好きなことが何なのかわからない
なぜ暇は搾取されるのだろうか、それは人が退屈することを嫌うからである。人は暇を得たが、暇を何に使えばよいのか分からない。だから与えられた楽しみ、準備・用意された快楽に身を委ね、安心を得る
→このところ���平日の自分の日常はまさにこれだ。まったく消費しているだけ。そこには「わからない」ものに対しての免疫の欠如がある。「わからない」ものや、違和感のあるものを、そのままに享受する、判断せずに浴び続ける、あの大学4年生の時の方がよほど、自分は世界に対して真摯だったような気がする。今はうぬぼれている。そしてひねくれている。「わかった」とか「愉しい」ところには必ず、摩擦やそれだけのストレスがかかてくる。それがあるから、楽しいし、わかった時の「!」という世界の開口が愛おしくなるのだ。今の自分は環境に甘えて、そういう摩擦を一切排除したところで、ダラダラ環世界の中で退屈しているだけだ。そこに喜びがないから、他人に依存したくなるし、過度によく見られたいと思ってゐる。顕示したくなる。本当に自分がそれに喜びを感じてゐる。日々充実している、物事をわかっている、物が見えているのなら、人にそれを誇示するよりも、そういう自分の時間こそを、大事にするはずなのだ。
ウサギ狩りに行く人はウサギを欲しいのではない
退屈というのは人間がけっして振り払うことの出来ない病である。だが、にもかかわらず、この避けがたい病は、ウサギ狩りと賭け事のような熱中できるものがありさえすれば、簡単に避けられるのだ。
君は、自分の「欲望の原因」と「欲望の対象」とを取り違えている
人間が退屈という病に陥ることは避けがたい。にもかかわらず人間は、つまらぬ気晴らしによってそれを避けることができる。そしてその結果、不幸を招き寄せる
いま。若いヨーロッパ人は退屈で死にそうになっている。彼らを見ていると自分はこう考えざるをえない。彼らは「何としてでも何かに苦しみたいという欲望」をもっている、と
ここで言われる事件とは、今日を昨日から区別してくれるもののことである
退屈しているとき、人は「愉しくない」と思っている。だから退屈の反対は楽しさだと思ってゐる。しかし違うのだ。退屈している人間が求めているのは愉しいことではなくて、興奮できることなのである。
→何か起きろ、何か起きろと僕は確かに思ってゐる。それは結局自分の楽しさを外部に預けている、疎外だ。
★幸いなるかな、快楽を求めることのできる人。彼らは事件をもとめることがないだろう
彼は熱意の傾けられた道楽や趣味が、大半の場合は根本的な幸福の源泉ではなくて、現実からの逃避になっているとも指摘している
→やることのない時の消費、時間的消費。僕もしてる。
「新世界の建設」という外から与えられた課題が、パスカルの言う意味での気晴らしでないとどうして言い切れようか。「新世界の建設」は高尚な課題であるから、ウサギとは違うのだろうか?いや同じである。それは厄介な気晴らしの可能性さえある
→持続可能なーとか、社会的なー、とかも同じだな。そういう大義のもとで、熱中してるのが、本人にとって、決して本当に良い状態であるかということは、誰にもわからない
退屈しているとき、その人は必ず暇のなかにいるのだろうか?それとも退屈しているからといって、必ずしも暇のなかにいるわけではないのだろうか?
暇であることは、かつて高い価値が認められていた
→仕事や外的なものに僕の生活も今、疎外されている。別に忙しいことや、仕事が周りから廻ってくること、呼ばれることだけが人生でない。そういう状態に、今ないことを、決して憐れんだり、また卑下したりする必要はない。むしろそういう所にある弊害をも考慮する必要がある。人に求められることばかりの人生を、僕は望まない。それよりも、もっと世界と深く関わりたいし、驚いてゐたい。その時間をじっくりと確保したい。「自分の」人生だ。
暇と退屈の混同
暇を生きる術を知らないのに暇を与えられた人間が大量発生した
→僕も「暇を生きる術」を、今知らない。消費と使い捨てばかりしている。そして、「いつか暇がなくなる」日がくることを、勝手に待ち望んでいる。そこに外的なことを想定している。全く良くない。結局自分を外部に依存している。
暇と退屈を直結させないロジックを彼らは与えてくれる。
★暇のなかにいる人間が必ずしも退屈するわけではない
→今までの僕は、どこかこれが直結するものだと思い込んでいる節があったと思う。時間があることを、有意義に捉えていなかった。もっと誇っていいし、それを有意義に使う人生を模索したい。そしていつも「今日の一日」が、「人生のずっと」になっても良いのだと、そう思える時間の体積のさせかたをしたい。
こうして現れるのが、レジャー産業に他ならない。レジャー産業の役割とは、何をしたらよいか分からない人たちに「したいこと」を与えることだ。人々の欲望そのものを作りだす。
→僕も多かれ、少なかれ、これに翻弄されている。自分の中に声や、成長を軽視している
十九世紀のはじめには、自分の欲しいものが何であるかを広告屋に教えてもらう必要のあるひとはいなかったであろう
仕事が充実することはたしかにすばらしいかもしれない。だが、仕事が充実することと、「仕事が充実するねきだ」と主張することは別の事柄である。
「仕事が充実するべきだ」という主張は、仕事においてこそ人は充実していなければならないという強迫観念を生む。
→これ、まさしく自分のことだ。仕事で充実することばっかり目指している。仕事なんて人生の一部分しかすぎないのに。だから暇があると困る。仕事に関係がないから。その使い方がわからない。仕事でしか人生を充実させることができないと思っているから。全くそんなの嘘だ。ひとつの疎外に、自分はいる。
モデルチェンジによって退屈しのぎ、気晴らしを与えられることに馴れきっている
浪費はどこかでストップする。しかし消費はとまらない。消費にへ限界がない。消費はけっして満足をもたらさない
人は消費するとき、物を受け取ったり、物を吸収したりするのではない。人は物に付与された観念や意味を消費するのである。
→いわゆる消費に関してもだけれど、人に会うことや、「大義を掲げた」企画を作ることも、これになりうる。ホリック。
記号や観念の受け取りには限界がない。だから、記号や観念を対象とした消費という行動は、けっして終わらない
浪費と消費の違いは明確である。消費するとき、人は実際に目の前に出て来た物を受け取っているのではない
消費社会として、浪費されては困るのだ。なぜなら浪費は満足をもたらしてしまうから
消費は贅沢などもたらさない。消費する際には人は物を受け取らないんだから、消費はむしろ贅沢を遠ざけている
消費には限界がないから、それは蜿蜒と繰り返される、延々と繰り返されるのに、満足がもたらされない
彼らが労働をするのは「生き甲斐」という観念を消費するためなのだ。
→僕もこれになっている。
この暇なき退屈を生きる彼は、それをブランド品の消費という典型的な消費人間の行動によってやり過ごそうとしている
自分で自分のことを疎外している
消費者が自分で自分たちを追いつめるサイクルを必死で回し続けている。
本来的なもの は大変危険なイメージ。なぜならそれは強制的だから。
これは何か違う、こういう状態にあるべきではない、と感じるのは当然のことである、そう感じられたならその原因を究明し、それを改善するよう試みるべきである。(これと「本来性」という観念を結びつけないこと。個的なところで、その原因を探ること)
→今がまさにこれだ。
その概念について問うことで心を揺さぶられたり、こころが捉えられたといった経験がないならば、その概念を理解したことにはならない
私たちは、退屈のなかから哲学するしかない
→なので、今は脱皮のチャンス
第一形式のような退屈を感じてゐる人間は、仕事の奴隷になっているということだ。それは大げさに言えば、時間を失いたくないという強迫観念にとりつかれた「狂気」に他ならない。仕事熱心で時間を大切にしているのだから真面目なように見える。しかし実はそうではないのだ。それは大いなる俗物性への転落
→自分にも思い当たる。なんでもかんでも「仕事」のためになるかならないかでやってる。
★本当に恐ろしいのは「なんとなく退屈だ」という声を聞き続けること。私たちが日常の仕事の奴隷になるのは、「なんとなく退屈だ」という深い退屈から逃げるため
→ここから逃げていてはいけない。僕は日々「退屈」と思ってゐる。そこには「可能性」がある
パーティーは、そもそものはじめから退屈を払いのけるために考案されていた。なんとなく退屈だという声を聞かないですむように、あのパーティーは行われていた
人間はなんとかしてこの声を遠ざけようとする。わざわざ命を危険にさらすために軍職を買って戦場に赴いたり、狩りや賭け事に興じる。だが、そうした逃避も退屈の可能性そのものに対しては最終的には無力である。人間の奥底からは、「なんとなく退屈だ」という声が響いている
→facebookとか見てると、みんな充実してるなぁと思ったり、波がなくてすごいなぁと思うけれど、実際は充実してない、退屈してるから、あぁやって宣明せざるをえないんだろうな。みんな退屈を忌避しているだけ。退屈を聞かないでいるために、むやみやたらにどこかに行ったり、興じたりしているだけだ。
退屈こそは人間の可能性の現われ
素人にとっては石などただの石ころである。しかし鉱物学者は何の価値もなさそうに見えるその石ころを熱心に眺める。そして分類する。同じ石でもまったく見え方が違う。なぜなら鉱物学者は鉱物学者の環世界に生きているから
→ここに人間は入っていける。大学4年生のときに、それは経験している。今の僕には、分からない世界を、分からないままに、入っていく努力がない。小説、詩、映像、写真、わかりたいのに、わかろうとしていない。怠惰だ。そして身近には、それを確かにわかっている、見えている、決めている人がいる。その落差に愕然とするのだ。
環世界に生きるとは、動物のような「とらわれ」の状態、一種の麻痺状態に生きることを意味するのだ
→僕はまさに麻痺している。感覚が鈍い。鈍すぎる。なのに自分の感覚を信じすぎている。そのことが恐ろしい。別に世界を広げても何にもならないだろう。でもそこにしかない喜びを味わわないのは全く惜しい。世界を知れずに終わってしまう
あらゆる生物には環世界の間を移動する能力がある
人間は他の動物と同様に環世界を生きているけれども、その環世界を相当な自由度をもって移動できる。
人間は環世界を生きているが、その環世界をかなり自由に移動する。このことは、人間が相当に不安定な環世界しか持ち得ないことを意味する。人間は容易に一つの環世界から離れ、別の環世界へと移動してしまう。一つの環世界にひたっていることができない。おそらくここに、人間が極度に退屈に悩まされる存在であることの理由がある
→そして今の僕はずっと同じ環世界に佇んでいようとしているのだ。
人間は比較的容易に環世界を移動する
→その「容易」すら拒絶しているのが今の自分
人間は世界そのものを受け取ることができるから退屈するのではない。人間は環世界を相当な自由度をもって移動できるから退屈するのである
→いろんな自分がいて良いし、どれも別に「本来的」な自分でもなんでもない。その幅や変形こそを大事に。その都度変形する。器用に。ちっちゃな自分の観念的な在り方に縛られない。捨て去る。慣れる。
退屈しているのなら決断しろ→眼をつぶり、耳をふさげ、いろいろ見るな、いろいろ聞くな、眼をこらすな、耳をそばだてるな
→僕、毎日これやってるな。
★人間は普段、第二形式がもたらす安定と均整のなかに生きている。しかしなんとなく退屈だという声が途方もなく大きく感じられるとき、自分は何かに飛び込むべきではないかと苦しくなる。そのときに、人間は第一形式に逃げ込む。周囲に無関心になり、ただひたすら仕事、ミッションの奴隷になることで安泰をえる。好きだからやるというより、打ち込むことで。
→危ない。僕は今これをやろうとしていた。そうじゃない。あとは、「役に立つ」「立たない」で、忍耐を拒否しすぎ。
好きで物事に打ち込むのとはわけが違う。自分の奥底から響いてくる声から逃れるために奴隷になった
新しい環境に入っていくことは、たとえて言えば肝試しに似ている。肝試しの最中は、暗闇のなかである。ものがよく見えない。そんななか、どこから何が出て来るのかわからない。身心は緊張し、強烈なエネルギーが必要とされる
新しい環境は人に考えることを強いる。そうやって考えるなかで、人は習慣を創造していく。習慣が獲得されれば、考えて対応するという煩雑な過程から解放される。習慣を創造するといは、環境を単純化されたシグナルの体系に変換すること
→ぼくはこの「新しい環境」に入る前にやめてしまうから、何にも習慣も進歩して行かない
★人間はものを考えないですむ生活を目指して生きている。
哲学者たちは、これまで、人間はものを考えることを好むと述べて来た。しかしそれはまったくの間違いである。人間はめったにものを考えたりなどしない。
ならば人間がどういうときにものを考えるというのか?ドゥルーズはこう答える。人間がものを考えるのは、仕方なく、強制されてのことである。「考えよう!」という気持ちが高まってものを考えるのではなくて、むしろ何かショックを受けて考える。考えることの最初にあって、考えることを引き起こすのは、何らかのショックである。ということは、考えることを引き起こすものは、けっして快適なものではない。→不法侵入
→たしかに、自主的に「成長しよう」とか「考えよう」としてやってゐるときほど、何にも入っていない。考える行為は、もっと受け身なところ、または暗部から始まる行為だと思う。病や死などもそれかもしれない。
人は習慣を創造し、環世界を獲得していく、そうすることで周囲をシグナルの体系へと変換する。なぜそうするのかといえば、ものを考えないですむようにするためである。四六時中新しいものに出会って考えていては生きていけない。
ならば逆に、人がものを考えざるを得ないのは、そうして作り上げてきた環世界に変化が起こったときであろう。つまり環世界に何か新しい要素が不法侵入してきて、多かれ少なかれ、習慣の変更を迫られる、そうしたときであろう
★ものを考えるとは、それまで自分の生を導いてくれた習慣が、多かれ少なかれ、破壊される過程と切り離せない
→僕は怠惰だから、こうならないと(危機的なものが外部からやってこないと)、考えようとしない。でもそれで良いのかもしれない
生物にとっての快とは興奮の減少。不快とは興奮量の増大。生物はつまり、ある一定の状態にとどまることを快と受け止める
★生物が興奮量の増大を不快に感じるという事実は、ここまで環世界論を通して論じてきたことに一致する。習慣は人間を一定の安定した状態に保つ。何かを反復することで習慣が生じる。-ということは、何かが快いからそれを反復するのではなくて、反復するから習慣が生じ、それによって快が得られるのである。だが快原理による説明はおそらく生物全般の一般的傾向としては正しいのだろうが、人間についてはさらに説明を追加しなければならない。なぜなら、この快の状態は、退屈という不快を否応なしに生み出すからである。人間は習慣を作りだすことを強いられている。そうでなければ生きていけない。だが、習慣を作りだすとそのなかで退屈してしまう。
→習慣を守れない自分を���じることはない。それからいつでもはずれるのは良い。しかしまた習慣が全くないのも問題であることは念頭に置いておきたい
人間であるとは、概ね第二形式の退屈を生きること、そしてたまに第一形式に逃げてまた戻ってくること
★第二形式のような気晴らしと退屈の絡み合ったものを生きる。退屈しつつも、様々な気晴らしを恒常的に自らに与える。退屈さもあるが、楽しさもそれなりにある。これが人間らしい生である
→僕は、退屈と充実を二極化していた。本来の日常はそれが混在したもので、完璧な退屈もなけれな、完璧な充実もない。その間を生きることが大事。その混合から眼をそらすとき、僕は自分の世界に逃避して、退屈も充実もないところにいってしまう
★人間はおおむね退屈の第二形式の構造を生きている。そこには投げやりな態度もあるが、同時に、自分に向き合う態度もある。つまりそこには、考えることの契機となる何かを受け取る余裕がある
→これは「曖昧」なところ、行ってみれば「退屈」でもあり「充実」かもしれないところにしか、自分を開いていく何かはないということを示している。美術展に行っても、人に会っても、何にもならないかもしれないけれど、けれど、その曖昧なものを曖昧なままに享受しようとする主体性が必要だ。「どうせ何にもないよ」で、僕は片付けすぎていた。もっと主体的に「かもしれない」というところに、自分を委ねて行く必要がある。「どうせ何もないよ」は、自分が一生変わらない。絶対的な<面白さ>なんてない。もしあるとしても、そこに至るには無数の「退屈」がある。「退屈」と「面白さ」は表裏一体で、どちらかを忌避しようとすれば、どっちも受け取れない。これは人との会話もそうだと思う。僕は二元論で考え過ぎてゐた。
第三形式への逃避は、非常に恐ろしい事態を招く。そこに逃げ込んでしまうと、ものを考えることを強いる対象を受け取れなくなってしまう
人間が環境をシグナルの体系へと変換して環世界を形成すること、つまり様々なものを見たり聞いたりせずに生きるようになることは当然である。大切なのは、退屈の第三形式の構造に陥らぬようにすること。
人間は自らの環世界を破壊しにやってくるものを、容易に受け取ることができる。自らの環世界へと「不法侵入」しにやってくる何かを受け取り、考え、そして新しい環世界を創造する
「分かった!」と思えるときがある。人は何かが分かったとき、自分にとってわかるとはどういうことかを理解する。「これが分かるということなのか」という実感を得る
★だから大切なのは理解する過程である。そうした過程が人に、理解する術をmひいては生きる術を獲得させるのだ
→この過程には忍耐がいる。人はいくらでも変われる。29歳で固定化していては何とも仕方ない。いつかの「わかる」にしっかり忍耐する。分かりたいのであれば、出来るはず。
逆にこうした過程の重要性を無視したとき、人は与えられた情報の単なる奴隷になってしまう。こうしなければならないからこうするということになってしまう。
→このままだと僕はこれになる。結局は「慣れ」、でも「慣れ」るのが��ても人間にとっては困難な課題なんだろうな。
「分かった!」という感覚をいつまでたっても獲得できない。ただ言われたことを言われたようにすることしかできなくなってしまう
★贅沢を取り戻すこと
→まさに。今の自分は消費ばっかり
★楽しむことは、しかし、けっして容易ではない。容易ではないから、消費社会がそこにつけこんだのである
→「楽しむことは、容易ではない」、そのことを深く、強く心に刻んでおくこと。しばらくのテーマだ。今の僕は楽ばっかりしようとしている。消費社会の申し子だ
★教育は以前、多分に楽しむ能力を訓練することだと考えられていた。これは楽しむためには準備が不可欠だということ、楽しめるようになるには訓練が必要だということ
→僕はこのことを、ここ何年か忘れていたような気がする。
漢文が読めなければ、漢詩は楽しめない
贅沢を取り戻す→気晴らしを存分に享受すること、人間であることを楽しむことである
人間は気晴らしと退屈のまじりあいを生きている
人は日常的に、環世界を再創造している
何かにとりさらわれても、すぐにそこから離れてしまう。環世界に何かが「不法侵入」しても、すぐさまそれを習慣によって見慣れたものにしてしまう。
ならばどうすればよいか?より強いとりさらわれの対象を受け取れるようになるしかない。
→これは「意識的」にやっていくしかない。第二形式。
もう既に分かっているものからは、生まれえない。わからないものにこそ。
楽しむことは思考することにつながるということ。楽しむことも、思考することも、どちらも受け取ること
食べることが大好きでいる人間は、次第に食べ物について思考するようになる。映画、、、
思考は強制されるものだと述べたドゥルーズは、映画や絵画が好きだった。「なぜあなたは毎週末、美術館に行ったり、映画館に行ったりするのか?その努力はいったいどこから来ているのか?」という質問に「私は待ち構えているのだ」ドゥルーズは自分がとりさらわれる瞬間を待ち構えている。「動物になること」が発生する瞬間をまっている
→僕はここを勘違いしていた。「待ち構える」ためには、あくまでも「狩り」にいかなければならない。つまり当たらない限り、当たらない。それをせずに、「自然」という言葉で、努力を放棄し、結果「考えたり、開いたり」する契機を自分で逃していたように思う、仮に「退屈」になるかもしれなくとも、どういう(狩り)はしっかりしていこう。
自分にとって何がとりさらわれの対象であるのかはすぐには判らない。
世界には思考を強いる者や出来事があふれている。楽しむことで、思考の強制を体験することで、人はそれを受け取ることができるようになる。人間であることで、動物になることを待ち構えることができるようになる
人間であること(退屈⇅充実)を楽しみ、動物になることを待ち構える≒退屈してしまう人間の生と向き合っていくこと
退屈とどう向き合って生きていくかという問いは、あくまでも自分に関わる問いである。しかし、退屈と向き合う生を生きていけるようになった人間は、おそらく、自分ではなく、他人に関わる事柄を思考することができるようになる
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前半では、暇と退屈について人類史的系譜をたどったり、「疎外」概念を現代によみがえらせることの必要性が論じられていますが、ハイデガーの『形而上学の根本問題』における退屈論を批判的に検討する後半の議論が、本書の中心となるように思います。
ハイデガーはこの書のなかで、ユクスキュルの環世界論や哲学的人間学の成果を批判的に継承し、人間と動物のあいだに絶対的な差異を認めることで、動物的な環境への「とらわれ」から自由になった人間が、そのためにかえって退屈に悩まされるようになったという筋道を描き出しています。そのうえで、この自由を積極的に受け止めなおすための決断主義が主張されていると著者は解釈しています。
これに対して著者は、人間と他の動物とのあいだに絶対的な断絶を認めず、せいぜいのところ人間は、他の動物に比べて比較的自由に環世界の移動をおこなうことができるというべきではないかと主張します。しかし、比較的慣れ親しんだ環世界に突如として「不法侵入」のように衝撃がもたらされ、それによって人間が「とりさらわれ」、その対象について思考することしかできなくなると著者は述べ、ここに暇と退屈という人間の条件とうまくつきあっていくためのヒントを見いだそうとしています。
前半の労働論やポストモダン的な消費社会論の限界を批判している箇所は、おおいにうなずきながら読んでいたのですが、けっきょくのところ著者の立場がこれらの問題をどのように克服しえているのか見通すことができずにいます。あるいは、絶望することなく、決断主義に走ることもないやり方といえば「逃走」することしかないのではないか、という先入見があるせいなのかもしれませんが、著者の主張の持つポジティヴなメッセージがはっきりとつかめないもどかしさを感じています。
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國分功一郎さんの『暇と退屈の倫理学』を読んだ。大好きな本でこれまでに何度か読み返しているが、増補新版は初めて。なので、付録の『傷と運命』を初読み。國分さん知的態度にいつも学ぶのはハイデガーのような哲学の巨人にも当たり前のように批判的態度で臨み、ロジカルかつクリティカルにその誤りを指摘できること。そして、当たり前を人間本性に照らしながら思弁すること。学生の頃から、論よりその態度に影響を受けてきた。
「退屈を回避する場面を用意することは、定住生活を維持する重要な条件であるとともに、それはまた、その後の人類史の異質な展開をもたらす原動力として働いてきたのである」。(『人類史のなかの定住革命』33頁)いわゆる「文明」の発生である。p93
人は消費するとき、物を受け取ったり、物を吸収したりするのではない。人は物に付与された観念や意味を消費するのである。ボードリヤールは、消費とは「観念論的な行為」であると言っている。消費されるためには、物は記号にならなければいけない。記号にならなければ、物は消費されることができない。p152
環世界論から見出される人間と動物の差異とは何か?それは人間がその他の動物に比べて極めて高い環世界間移動能力をもっているということである。人間は動物に比べて、比較的容易に環世界を移動する。p296
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著者のツイッターをリツイートしているツイッターでこの本を知った。
タイトルに惹かれた。正に今の私にピッタリなタイトルではないか。私のための本ではないか。
わかりやすい言葉で書かれているので、どんどんページが進んだ。でも、いちいち止まって考えることが多かったので、そんなに早く読み終えたわけではない。
言葉はわかりやすいのだが、内容がそんなにわかりやすくはないので、どの程度私に理解できたのかわからない。でも、著者の言う通り、読み通したこと自体が「暇と退屈の倫理学」の第一歩、なのだろう(と書きつつ、あまりそれもよくわかってないのだけれど)。
「自分を悩ませるものについて新しい認識を得た人間においては、何かが変わるのである。」
私は「新しい認識を得た」のか。はなはだ頼りない。大丈夫か、私。
最後についていた増補の部分もとても良かった。どの程度理解できたのか、こちらも怪しいのだけれど。
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暇の定義は人によって違う。私は暇が好きだ。と言っているが暇なく忙しい。第一、読書する時間は暇なのか暇じゃないのか難しい問題だ。
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退屈するとは何か、なぜ退屈に陥るのか、それは克服可能か、について論じられています。退屈は人類が定住生活を始めた頃から起きており、現代においては退屈をターゲットにした産業による消費社会が生じてより虚しくなる悪循環が起きている、という問題提起から始まります。ルソーやマルクスやユクスキュル、ハイデガーといった哲学者や他分野の学者の学説を吟味しつつ著者の持論の退屈論を展開しています。すごくかいつまんでまとめると、人間は本来的に退屈する存在であってそれを凌ぐべく気晴らしをしても結局退屈してしまう。適度に撹乱し、新たな刺激を得て今を楽しむのが大事だと僕は解釈しました。最後のほうはやや抽象的で退屈に対する処方箋がうまく読み取れませんでした。
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宗教の信徒は、いわば決められたルーティンをこなすことで、退屈をしのぎ、同時に心を落ち着けているのだな、ということを思い出した。
P66
先進国の生活が「幸せである」に疑問符が付くのは、「便利」と混同してるからだと思う。便利が幸せに結びつくのは、便利の前の「不便な状態」と今の「便利な状態」の差を知っているときだけ。
P90
定住の開始が様々な不和をもたらしているという印象を受ける。幸せの観点から言えば、昔の方がよかったのかも。でも、今こうして様々な知識に触れられること、それが可能になったのはつい最近で、それは先人たちの技術発展に支えられていることが僕の幸せにつながっている。
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哲学的な側面があるが、著者の世界観が今迄になく新鮮。
仕事に対してどう向き合っていいか分からないときに、読んで良かった一冊。定期的に読み返したい。
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『なぜ暇は搾取されるのだろうか?それは人が退屈することを嫌うからである。人は暇を得たが、暇を何に使えばよいのか分からない。このままでは暇のなかで退屈してしまう。だから、与えられた楽しみ、準備・用意された快楽に身を委ね、安心を得る。
では、どうすればよいのだろうか?なぜ人は暇のなかで退屈してしまうのだろうか?そもそも退屈とは何か?
こうして、暇のなかでいかに生きるべきか、退屈とどう向き合うべきかという問いがあらわれる。〈暇と退屈の倫理学〉が問いたいのはこの問いである。』
意図的なのか、「倦怠」、「飽き」、についての考察が足りないような気もするが、暇と退屈に関する歴史的、経済的、哲学的、人間学的、倫理学的、と多方面の考察を展開していて面白い。ヘーゲルを扱っているが肩苦しくならずに、すらすら読めるので退屈しない。暇潰しにはちょうど良い。
さて、ヘーゲルにおける退屈の第三形式としての「なんとなく退屈」に対する「決断する」という解決は、確かに危険であるし、第一形式との循環関係から逃れられないという指摘はもっともだが、退屈から逃れる「決断」の先にどんな「生」があるのか、ここを深く深く考えるもの楽しいのかな、と思ってみたり。
暇と退屈に対する3つの結論とは、
1.暇と退屈への理解が深まったところで、そのことにより何かを為すべきことなど何もないということ。
2.「単なる消費者」に陥らずに人間らしく、「贅沢に浪費」することを生活に取り戻すこと。
3.動物のように、「とらわれ」、楽しみ考えること。
結論は特に特別ではないが、全てを読んだ後に感じるものは、世界は退屈ではない、ってことなんだと思うな。
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図書館から借りて読み始めたのですが、読み進めることができませんでした。國分さん、ごめんなさい!他日を期します。