紙の本
上野千鶴子とは何者か
2016/07/30 17:06
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投稿者:こけさん - この投稿者のレビュー一覧を見る
人間を抑圧する見えないものを、可視化する人である。ミヒャエル・エンデの『自由の牢獄』の中にある「ミスライムのカタコンベ」を思い出した。彼女は私たちを煽動する影の一人だ。私は一人の人間として、苦しみ続けよりよい変化を求める人間でありたいと思う。
紙の本
やや期待はずれ
2016/06/07 21:37
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投稿者:玉 - この投稿者のレビュー一覧を見る
上野さんの本で、岩波で、となるとかなり期待していたのですが、物足りなかったです。結局、どういうことを言いたかったのでしょうね? 岩波は、どうして出版したのでしょうね? 短い論考をただ集めただけなの?
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自著解題より
セックス音ハードルはたしかに下がった。女性に性欲があることは当然視されるようになったし、女性が快楽を求めることにもスティグマはなくなった。女性があからさまにセックスやマスターベーションを口にすることへのタブーも、なくなりはしないが、確実に少なくなった。結婚の前にも後にも外にも、女性がセックスを求めることに社会的な制裁はいちじるしく減少した。そうでなかった時代のことを思うと、隔世の感がある。だが、それはほんとうに女性にとって「性解放」だったのだろうか?
その反面、ジェンダーの非対称性がおどろくほど変わっていないことにも驚く。避妊の知識と技術が普及したのに、無知からではなく遠慮からパートナーに避妊を言い出せない女。「今どこに誰といる?」と恋人に訊かれてしょっちゅう写メを証拠写真としておくらなければならない拘束を、愛情ととりちがえる女。…(中略)…
性解放は女の性の自立と自律を求めるもののはずだった。だが結局、いくらハダカで向き合っても「ベッドの中」だけが解放区になるはずもない。ベッドの中には、ありとあらゆくる社会的・経済的・政治的な非対称性が持ち込まれるだけにすぎないことが、あれから四〇年経ってみれば、あらためてよくわかる。フェミニズムの標語、「個人的なことは政治的である」は今でも有効なのだ。
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1 おまんこがいっぱい(おまんこがいっぱい;セクシュアリティの地殻変動が起きている;もうひとりの毒婦;こじらせ女子の当事者研究―雨宮まみ『女子をこじらせて』文庫版のための解説)
2 性愛・この非対称的なもの(裸体の記号学―裸体の文化コードを読む;視線の政治学;オナニストの宿命;「セックスというお仕事」の困惑;想像を絶する大人達の抑圧)
3 “対”という病(恋愛病の時代;恋愛テクノロジー;「恋愛」の誕生と挫折―北村透谷をめぐって;ベッドの中の戦場;“対”幻想を超えて)
4 “対”という実験(ジェンダーレス・ワールドの“愛”の実験―少年愛マンガをめぐって;究極の“対”)
5 グッバイ・ダディ(フロイトの間違い;DADDY’S GIRL;存在する権利)
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1987-1998年論文をまとめた1998年版に、80年代-2010年代の時局発言を追補、半世紀にわたるセクシュアルティの地殻変動期を性的身体として生きた一人の女の歴史的証言。
性の抑圧やタブーは、文学やアートの源泉でもある。
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人は社会的ないきもので、幻想なくして発情することさえできない。「エロスとは発情のための文化装置」なのだ。そんな発情装置のからくりを知れば、性についての神秘性は剥ぎ取られる。
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東大名誉教授として、東大入学生への彼女の祝辞は、東京医科大学の受験における女性差別から、メタ知識の重要性で締め括る、とびきりクールで理知的なスピーチだった。ただのフェミニストではなく、知性を感じる公平な内容。
本著を開いて一瞬、そのギャップにびびるが、本質は同じ。女性器の名称を連呼し、隠された性の不自然さ、背後の差別意識をとことん追求する。女性の性欲を肯定したい。何故、昔の女性は性行為を苦痛に感じたか。女性が性快楽を自ら求めたら不都合でもあるのか。
女体が記号化されている、との表現は目を引いた。確かに、陰部だけで、強烈に扇情的な力を持つ女性器だが、それが肉体としての繋がりがイメージされず、パーツだけ、かつ、意味付けや記憶が無ければ、男性は恐らく発情しない。ただの肉の造形だ。しかし、それが発情装置として、文化的意味を持つようになる。性行為や性欲は、文化、制度の延長線にある、というのは共感できる内容だった。
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ヒトを「パンツをはいたサル」と呼んだのは栗本慎一郎だが、パンツ(=文化)という装置がなければ人がまともに発情できないことくらい、良識ある大人なら誰しも薄々感じている。あのパンツが気に入らない、このパンツが窮屈だなどと言い出せば、早晩間尺にあったパンツがどこにもないと途方に暮れるのは見易い道理だ。文化のカラクリを暴くのが社会学の使命だとしても、暴き尽くした果てに広がる荒涼たる砂漠に立ち尽くす覚悟が社会学者にあるか。
上野にその覚悟がない筈はない。だが性愛を巡る過激な闘いの果てに彼女が漏らした嘆息は限りなく深く、そして重い。「性愛についてありとあらゆる問いが解かれた後に、解くに解けない問いが残った。孤独の問題である。振り出しに戻った思いがする」。近代の「ロマンチックラブイデオロギー」は孤独を隠蔽し、支配と被支配の調和の物語を押し付ける。孤独をくぐり抜けない性愛は他者を要しないオナニストの性欲と変わりない。真の性愛を望むなら孤独を味わい尽くせ、そして他者との葛藤と交通に身を晒せというわけだが、そもそもフェミニズムが告発する「ロマンチックラブイデオロギー」なるものは、都市化の進展と共同体の解体が招いた孤独が出発点ではなかったか。であればまさしく「振り出し」であり、堂々巡りだ。
ジェンダーフリーとは男が「男」であることを、女が「女」であることを強いられることのない"自由な"社会だ。だがフロイディズムの家父長制的イデオロギーが暴露され、「セックスというお仕事」が市民権を得たとしても、「視る性」と「視られる性」の非対称性は簡単にはなくならない。そのことを知っている上野は自らの党派性をあっさりと肯定する。そして生き延びるために敵と見定めたものにケンカを挑み続ける。上野にとって社会学やフェミニズムはそのための武器であり、それ以上でも以下でもない。だが自らを党派的と公言する者にとことん党派的な者はいない。その挑発的なスタイルにもかかわらず、彼女の思想が清潔さを失わないのはそのためだ。
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上野千鶴子の主張から垣間見えるのは、もちろん豊富なソースを駆使した主張であることはたしかであるけれど、同時に現代風にさまざまなスパイスを加えて口当たりよくしてスパスパと短文で畳み掛けるように「斬って」いくやり方だ。よく言えば快刀乱麻の斬れ味で斬っていくから(ぼくもつい「斬られる側」にいることを忘れて)魅入ってしまう。反面、その論理(ひいては直感)の乱暴さに辟易したりもする(少なくとも、ぼくは「男」かもしれないが「レイピスト」になりたいと思ったことは1度もないので)。だが、このスパイスは慣れるとクセになる?