紙の本
繰り返し読みたくなった本です。
2022/06/01 16:00
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投稿者:satonoaki - この投稿者のレビュー一覧を見る
日本語が、対談の中心にあるにせよ、生き方や世界観など、さまざまな話が繰り広げられている。
考えは各自違って当たり前、そこから何を学ぶか…そう思いながら読むと、たいへんおもしろい。
この本に出合えて良かった。
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【美しい? 不便? 乱れてる?】テレビでおなじみ金田一先生が研究室を飛び出した。桂文枝、三谷幸喜、糸井重里らと、日々変化する日本語の魅力と難しさを語った。
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「文藝春秋」に掲載されていた対談をまとめたもの、
話し相手は、加賀美幸子、桂文枝、谷川俊太郎、外山滋比古、内館牧子、安野光雅、ロバート・キャンベル、きたやまおさむ、三谷幸喜、出口汪、糸井重里、土井善晴、吉本ばななの13人
外山滋比古:早期英語教育より母親の言葉
内館牧子:テレビドラマの言葉の問題(方言や役割語、歴史的なことばづかいをどこまで使うか)
三谷幸喜:芝居の言葉、芝居の作法
出口汪:国語教育
糸井重里:コピーで売ってやろうはよくない
吉本ばなな:小説は書けても詩は書けない娘と、すばらしい詩を書けるけど小説はだめな父
など、興味深い話題満載。
自分と同じ日本語教育&言語学の世界の人が言葉の達人と話すわけだから、言葉への姿勢、聞き出したいこと、感心することなどの感覚が近くて(日本語の変化についての見解のしなやかさなど)、気持ちよく楽しめる本だった。
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【対談相手】加賀美幸子、桂文枝、谷川俊太郎、外山滋比古、内館牧子、安野光雅、ロバート・キャンベル、きたやまおさむ、三谷幸喜、出口汪、糸井重里、土井善晴、吉本ばなな
*一人一人が短いので、ちょっと物足りない感じがする。
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「文藝春秋」に連載されていた金田一先生と主に言葉を扱う職業の第一人者たちと日本語について語り合った一冊。日本語の持つ力を改めて認識させてくれるとともに、新たな問題点や、自分の国語力を高めるヒント、きっかけを見つけることが出来る良書。
それぞれの分野で好きな著名人を取り上げてくれている率が高いのも良かった。
対談相手の13人を以下、備忘で記しておく。「」は対談後に金田一先生がまとめで書いた1ページの”見出し“のひと言;
加賀美幸子(元NHKアナウンサー)「何より息遣いを大切にしてきました」
桂文枝(落語家)「笑いっていうのは恰好良くないといけないと思います」
谷川俊太郎(詩人)「語彙は数ではなく質だと思っています」
外山滋比古(英文学者)「敬語は自分のためにあるのです」
内館牧子(脚本家)「言葉はその人を現す個性です」
安野光雅(絵本作家)「美しいと思い続ける人間でありたい」
ロバート キャンベル(日本文学研究者)「日本語自体がとんでもないビッグデータ」
きたやまおさむ(精神分析医)「発話が控えられるようになっている」
三谷幸喜(脚本家)「芝居って言葉じゃないと思うんです」
出口汪(現代文講師)「その文章を子供たちに読ませたいかどうか」
糸井重里(ほぼ日刊イトイ新聞編集長)「室町時代でもウケるかな」
土井善晴(おいしいもの研究所代表)「料理というのは素材を不味くすることなく調理する」
吉本ばなな(作家)「(翻訳本の)タイトルが変わっちゃってたことがありました(笑)」
金田一先生が対談相手から引き出したポイント(上記)と自分が読んで付箋を付けた位置が違う所が多くてちょっと面白かった。
桂文枝は、桂枝雀との想い出を語ってくれているのが嬉しかった。枝雀の「自分は羊飼いや」と、自分のレパートリーとする噺、それを覚えることをそんなビジュアルで捉えて、羊が一頭でも丘の向こうに行くと連れ戻すのが大変(忘却の彼方に消えていくイメージだろう)、常に羊に目を配り世話をする感じで落語のネタを絶えず反復練習していたに違いない。
詩人(谷川俊太郎)の感性は人の弱いところへの理解が温かい。
“「めくら」は差別用語になってますが、僕はすごく正直で美しい言葉だと思う。ところが、「目の不自由な人」と書き換えると、そこに偽善が生まれて、とつぜん醜く感じてしまいます。”
この指摘は大賛成。また、近頃のなんでも「かわいい」と言ってしまう風潮にも、
“人間の一種の対抗策でしょ。幼児退行してエネルギーを蓄えておかないとやっていけないのかなと。今、会社にせよ、政治にせよ、社会では硬い言葉が中心ですよね。それだけじゃ、人間の身体はもたないんですよ。”
と、言葉の裏にある心理を読み解く。
その点では、外山滋比古も、レストランの店員の「コーヒーででよろしかったですか」についても、英語の例(Do you go? Will you go? Would you go?)を出して、
「現代形を未来系、過去形や疑問形にしたりすると、丁寧になる。ウエイトレスの肩を持てば、多少日本語としておかしくても、彼女なりに敬語の心���持っているんですよ。」
と頭から否定したりしない。むしろ金田一のほうがそれらの言葉について「どうですか?」と否定的な反応を引き出そうとしているにも拘わらずだ。
画家の安野光雅の対話では「民族語彙」という言葉で、同じひと言でも発する国民、その文化的背景で思い描くビジュアルが異なるという面白い話を紹介している。安野曰く、
「確かに、昔の絵には格言や暗喩が込められていることがあったようです。たとえば、ブリューゲルの絵がそうです(中略) 絵解きという点では、ブリューゲルの作品ほど手応えのあるものはないでしょうね。」
今度、ブリューゲルの絵はそういう観点で鑑賞してみよう。
ロバート・キャンベルとの対話は、この部分が面白い。
キ:「私の育ったNYでは、赤信号を待っている間、知らない人と話をします。「昨夜のヤンキースの試合、酷かったよね」とか。これは、自己防衛でもあります。」
金「日本は同一言語というのが大きいのかな。日本で黙っていても悪意は感じないが、ニューヨークだと恐怖感を与えかねない。」
内館牧子や三谷幸喜の対話では、金田一の日本語に対する硬直した発想が際立ち、TV人のほうがより柔軟に言葉を捉え、言葉だけに頼らないことで誤解を回避したり、より理解を深めようとする工夫、というかテクニックに長けている。生きた言葉を商売道具にしている人と学究の徒との違いだろうか。
出口汪(現代文講師)は、知らない人だった。著作をちょっと読んでみたい。
「私は、日本語を世界に輸出する時代が来て欲しいと思っているくらいです。」
糸井重里はもうさすが圧巻だったな。
「効力のある言葉とそうでない言葉の違いはわかります」と言いきり、吉本隆明が「人間の知性は4世紀までに出そろった」というの聞いて、ならばと「室町時代でもウケるかな」というところから発想を開始しているという。それでいて、謙虚に
「僕は、言葉も企画も、いつでも全部「受け手」になって発想します。読者側から考えて、何か喜ばれることはないかと探すのが起点なんです。投げ手というよりは、キャッチャーミットを持っていて、その音を楽しんでいます。」
という姿勢もいい。さすがだ。
吉本ばななの、自分の作品を評して
「文学の形を借りたセラピーだと自分では思っている」
というのは、なるほどだ。
「「その人が本来のその人になる」お手伝いをずっとしてきたと思っています。」
すごく分かる。
だから「文法を勉強して、ちゃんと書こうという気がない」と言って金田一が「えーーーっ!」となるシーンは笑える。
また、ばなな本もいくつか読んでおきたいな。
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日本語について、話すということについて秀穂氏が対談取材したもの。言葉を扱う脚本家や作家など。それぞれがなかなかの切り口を示している。異色きたやまおさむ、やはり精神科医として論じている。
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この人たちが語る「日本語大好き」な話を読みたくて
手に取った。
加賀美幸子さんの話は、さすがだなぁと改めて美しい日本語の
使い方について、考えさせられる。
他にも
谷川俊太郎さんの
「語彙は数ではなくて質だと思っています。」
安野光雅さんの
「文学作品に接することは、筋書きだけでなく、詩から受けるような「美しさ」に心を動かされる感情を培うことでもあります。」
など、心に残る言葉が多かった。