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投稿者:雄ヤギ - この投稿者のレビュー一覧を見る
本書は近現代史を研究する著者が、帝国海軍の太平洋戦争当時の最新鋭戦艦大和と武蔵の人気の差を解明することを目的としたもの。
前半部で武蔵建造から沈没まで記し、後半で戦後の武蔵の語られ方と文化消費のされ方、そして歴史との向き合い方などについて記している。
特に納得できたのは、歴史の当事者を、当事者というだけで事実を語ると考えることの危険性である。当事者も受けた教育や立場などによって事実ではないことを語ったり、あえて事実を変えたりすることもあるということは、その通りだと思った。
美化を拒絶する巨艦の悲劇
2017/11/15 09:29
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投稿者:miyajima - この投稿者のレビュー一覧を見る
2015年3月にフィリピンのシブヤン海の海底でその船体が発見されて大々的に報道された戦艦武蔵。
大和と並んで知名度の高い戦艦であるが、武蔵は大和と比べて地味な存在である。本書の目的の一つとしてその差がどうして生じたのかを問うことが挙げられている。
武蔵は大和に比べて生き残った者が多く、その沈没後の運命もさまざまであった。1000人以上が脱出に成功したが、その多くは引き続き劣悪な戦地に送られ半数以上が戦死した。それでも約450名が戦後を迎えることができた。ここに武蔵の生還者が自身の体験を美化できない理由がある。その中の一定数が特定の士官を長らく強く非難もしている。一方大和は短時間で爆沈した結果生き残りはわずか276名である。さらに4か月後に終戦となった。生き残った者が少ないことから多くの美談が作り出された。
戦後の高度成長期に大和のエリート士官たちの視点による海軍賛美(吉田満「戦艦大和ノ最期」など)がもてはやされた。「プレジデント」あたりの主要読者である50代ビジネスマンが仕事上くみ取るべき種々の「教訓」の源として消費可能であったからだ。一方、下士官主体の武蔵の物語は、遠い昔の貧しい日本の象徴にしかなれず、したがって彼らの消費に適さなかったわけだ。
さらに言えば、レイテ沖海戦で米機の投下する魚雷や爆弾を次々と回避して「冴える森下(艦長)の操艦の腕」と評されたのに対し、実践経験が乏しく直進を主張した猪口艦長の武蔵は次々と被弾して横転転覆した点は大和の格好の引き立て役、あるいは創意工夫を怠り競争に敗れたビジネスマンを重ねる扱いとなった。
武蔵の生還者たちは美化も否定もともに強く拒絶するものが多い。武蔵に対する他者からの意味付けの拒否だ。どういうことか?武蔵に対するマイナスの評価は「真実」ではないから拒否する。だが、自らの手でプラスの意味付けもまたできない。第二次大戦は負け戦であり武蔵は間違いなく沈められたからだ。だとすればそこには武蔵という物語を「脱文脈化」するよりほかに無いということなのだ。
武蔵に乗艦して戦争をした人にとって、なぜ自分がひどい目に遭ったのかを他ならない自分のために真剣に問えば問うほど武蔵は何者かであり得た。だが、そうではない人に向かい合った時にその物語は誰のものでもなくなるのだ。
戦艦大和と戦艦武蔵
2016/12/30 10:27
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投稿者:ゴジラ - この投稿者のレビュー一覧を見る
戦艦大和と戦艦武蔵は同型艦ではありますが、戦艦大和にばかり目がいきがちです。
本書は戦艦武蔵に注目したものです。
戦艦武蔵がどう語られてきたかについて述べられていて、戦艦大和がどう語られてきたかについて述べられている一ノ瀬俊也『戦艦大和講義』と併せて読むとより理解が深まると思います。
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1944年に完成、46センチの巨砲を備え、日本海軍の切札として期待された戦艦武蔵。しかし、資源不足の日本で武蔵はその巨体を持て余し、活躍することなく沈没。
武蔵の存在は悲劇なのか、喜劇なのか。本書では武蔵の不幸な運命の原因を探る。
よく比較されるのが戦艦大和。戦果をあげず沈没した点では共通しているのに、武蔵のストーリーはあまり知られていない。その理由は武蔵の沈没が物語性として陰鬱だったからだ。ゆっくりと沈没したため、爆発した大和に比べて生存者は多かったのだが、その生存者が日本へ送還された者と島に残って補充兵となった者に分かれたことで、生存者同志の一体感が失われた。戦後、生き残った者が武蔵のことを語りにくい雰囲気が生まれてしまったのだ。
大和と比較される不幸な戦艦武蔵。主人公となった吉村昭の小説でも戦闘中のことが触れられないのは、聞き取り取材ができなかったせいなのだろう。
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戦艦武蔵の語られ方について論じた一冊。
武蔵の艦歴や技術的特徴などには深く突っ込まず、むしろ武蔵に関する様々な言説から、武蔵の語られ方を読みときつつ、戦争や戦艦の様々な「ファンタジー性」に言及するなど、内容は多岐にわたる。
戦争を知らない我々が戦争や兵器をファンタジー的に捉えるのは当然として、当時の人々もまた同様であるという指摘は、なるほどと思える。
著者の戦艦に関する理解を知りたくて読んでみたんだけど、去年読んだ『飛行機の戦争』より面白かった。『飛行機の戦争』も読み直してみるか。
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海軍的なものへのノスタルジーが復古するトレンドには、警戒心を抱きつつ、吉村昭の小説以外ではあまりスポットを浴びることのなかった「武蔵」をめぐるトリビア、証言を集めている。
特に筆者がテーマとしているものは、別に「武蔵」に仮託する必然性は無さそうだった。
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「なぜ大和は脚光を浴び、武蔵は忘れ去られたのか?」という惹句を見て手にした一冊。
両艦について書かれた大量の文献を読み込んだことがよく分かる力作であるのはまちがいないのだが、どうにも違和感を禁じえない。その理由は二つある。
ひとつは、本書の目的が上記の疑問に答えることを通じて、なぜ人々が戦争にリアリティを持てなくなっていったのかを論じることにあるからだ。つまり、本書のタイトル、および惹句は、著者が書きたいことのイントロにしか過ぎないのだ。
もうひとつは、著者が凝った(妙な?)形容やフレーズを連発することだ。冒頭で大和が擬人化(アニメ・キャラクター化)されている事例を取り上げ、それ以降、本書の中では、戦争も大和も武蔵も「ファンタジー」だったという表現が多用される。また、両艦の乗組員が、戦後になって、戦争中の事実がゆがめられることへの反駁を覚えることを「事実への逃避」と表現する。いい形容やフレーズをひらめいたと思って自画自賛しているのだろう、という想像をしてしまうくらいの多用には、正直、辟易としてしまう。
「なぜ武蔵は忘れ去られたのか?」という冒頭の疑問には明確な答えを出しているだけに、こうした違和感から本書の価値が大きく損なわれてしまっているのが残念でならない。たとえページ数が半分になっても、両艦の差異だけに絞って書いた方がよかっただろう。
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「戦艦大和」とは異なり民間企業の製品である「戦艦武蔵」を深い理解するための決定版ともいうべき内容。
同型艦の大和と異なり、武蔵の映画などのメディアに取り上げられない、何故か?という疑問へ1つの回答をくれる。
大量の資料に裏付けられた大和との比較。
ドラマじみた戦場における感動シーンの戦記物に「あり得ない」という鋭い指摘には脱帽せざるを得ない。
本作終盤において、男臭い・ミリタリーとは真逆の美少女・萌えのゲーム「艦これ」にも触れ、現代に生きる我々に、社会比較学者として鋭い指摘を与える。
吉村昭の名作「戦艦武蔵」で納得していた浅はかな自分に、刺激を与えてくれた作品。
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いつものように良いテーマ。
しかし、何故かこの著者のレビューには必ず、テーマと中身が云々だの疑問に答えきれていないだの最後まで語られていないだの(意訳)といった謎のレビューを見かける。
そういう人は答えを与えてもらおうとするだけで自分で考える頭が無いのだろうか?
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とてもおもしろい。どういうことが起こったのか、ではなく、武蔵や大和について人々が作り上げる物語をどう考えるか、みたいな。ただそもそも人間の記憶ってのがそういうもんちゃうか、みたいな話が薄いか。
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戦艦大和と武蔵。姉妹艦それぞれの劇的な最期。対象的な戦後の描かれ方。珍しく二番艦の立場にスポットを照らし戦後ニッポンの戦争感を描く。
戦艦武蔵は大和に比べ、出番も少なければどうしようもなく悲劇的な描かれ方が多い。
単に時代遅れの大艦巨砲主義という見方だけでなく、開発の経緯、戦後ニッポンへの技術貢献なと多角的な視点から検証している。
戦後多く出版された書物のスタンスの比較は圧巻。
また証言における作為、歴史の事実についての難しさを感じる。