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村上ファンである職場の同期から借りて読んだ一作。
社会人一年目、組織人として生きることの辛さについて考えるようになった私は、生きたいように生きればよいと村上春樹から励ましをもらった気がする。
とはいえ、やはり勤め人の身であるから、どこまでは自分らしさを持ったままでよいのか、どこからはマナー違反となってしまうのかわきまえる必要があるのだが…。もしも彼が私の立場にいたらどう行動するのだろう。
また、河合先生との関係について述べた「たびたび会って話をしたが、何を話したのかよく覚えていない。でもそれでいいんじゃないか。いちばん大切なものはむしろ、我々がそこで何かを共有したという物理的な実感だったという気がするんです。」(忠実な引用ではない)という言葉に共感した。
親しくしてもらっている人々と、そういう実感をもってながく接し続けていけたら幸せだなあ。
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言葉には力があるから、正しく使わなければいけないんだよ、ということをしっかりと言葉を尽くして、この人が語ることによる、深い安心感。
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村上作品をあらかた読んでいる人にとってはお馴染みのお話がメイン。けれども、一冊にきちんとまとめられていたことはいままでなかったと思うので、改めてまとまって読むと感じるところがあった。まず、以前の私はわりと盲目的に、ここで言われていることを信じていたのだなとおもう。でも今では、小説を愛するには複数の方法があると知っている。分析的なものを頭ごなしに否定する必要はないと思ってる。春樹の推奨する判断せずにただ受け取る、という営為が、もっと危ういなにかに似てしまう可能性もあると思う。春樹自身の問題ではなく、春樹の読者が、思考停止に陥る可能性はおおいにある。批評も批判も受けつけずただ感じるがままに、みたいな。でも、そんなことは彼も言われるまでもなくわかってるはずで、彼をここまで硬直化させてしまったのは日本の文芸批評だとも思う。私は柄谷のことが大好きだけど、柄谷の村上批判は不当な部分が確かにあった。厳しすぎた。ただ、柄谷にはどうしても春樹を否定しなければならない理由があったのだとも思う。それは、革命の時代の後にどう振る舞うかの差異にあったとおもう。革命の時代を知らない私には想像することしかできないけど。
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これを読んでさすがに村上さんだ、尊敬に値する人だとつくづく思いました。小説を書き始めてから35年余り、その年月を職人とも言うべきスタンスで真摯に向き合ってきた村上さん。真面目で誠実な生き方をしてきたからこそ、日本だけでなく世界中の人に読まれる作家になったのだと思います。これを読むと自然に快い気持ちにさせられます。オリジナリティーについて語ってくれる章で、その人にとって必要でないものを見極める時のコツをこう言っています。「それをしているとき、あなたは楽しい気持ちになれますか?」…
今まで書いた小説の裏話なども沢山あり、楽しみながら小説を書いていると言う村上さんの物語は、この後どんな風になるんだろうと楽しみです。
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『ノルウェイの森』を読了出来なかった過去。かれこれ10年ほど経ちウイスキーを嗜む年頃になった折り、知人を介して昨年同著者の旅行記『もし僕らのことばがウィスキーであったなら』を知り立て続けに本書と出会った。職業論。否、素晴らしき人生論也。
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風の歌を聴け を書き始めたきっかけから始まり、持続、書き方、習慣、開拓するために海外へ出ていくことなど、興味深いことが語られている。
なかでも目をひかれたのは、
「書くべきことを持ち合わせていない」
つまり、「なんだって自由に書ける」と言っていたことだ。
自分が何を求めているのかという視点ではなく、何かを求めていない自分、何かを求めていない自分とはそもそもどんなものか?それは蝶のように軽く自由。にもかかわらず、何をしたいと願うようになれば、自分の本来の姿を目にするかもしれない、、という箇所があり、なるほどそうかと思った。
なぜ、村上さんは世界で読まれるようになったのか、、それは本書の315ページから書いてあることが答えになっている。国を超えた、人間という生き物が必要としている物語…ということだろう。
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村上作品がどのようにして紡ぎ出されているのか、その一端が垣間見れて面白い。
書かされてるのではなく、書きたくて書いている、そして物語の転ぶままに、ありのままに「筆記している」からこそ、流麗で自然体な文体、本能的な物語が書けるのだなと。
余談ですが、走ることに対するスタンスが私と酷似していて、すごく共感。笑
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自分は文字を書き、それを何度も改定しないと自分の意見を月並みに表現できない。という観点には共感。前半であった村上春樹の小説の書き方、一度書き上げ、2度頭からゴリゴリ修正をし、妻に見せ指摘箇所を修正、それから全体を修正し…と、一つの物語を作るのにはこんなにも修正のプロセスがあるのか…しかし、自分ももし小説を書くのであればこれと同じようにやってみた方が良いと思った。
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小説家になるつもりはないですが、村上さんの文章を久しぶりに読みたくて図書館で借りました。
小説を書き始めた頃のこと、どうやって独自の文体を作っていったのかや、アメリカ進出についてなど、村上さんの小説の裏話がたくさん書いてあり、興味深かった。
一気に読み進めたが、読み終えるのがもったいなくて最後の方はゆっくり読んだ。
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村上春樹さん自身が語る「村上春樹論」。作家デビューから現在までの軌跡や文章を書くことの想いを、自らの言葉で語り尽くす。新たな村上春樹を知ることができる貴重な一冊。
肉声を聞くことがあまりない人だけに、文学への考え方や想いが十分過ぎるほど伝わる一冊だった。癒しとか優しさ、逆に非情さとか冷酷とは違う、独特な世界観がどのような過程で生まれるのかが、少しわかったような気がする。
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だいたい眉に唾をつけます 作家というのは基本的にエゴイスティックな人種 揶揄嘲笑の類を浴びせられる 白血球が体内の異物を排除しようとするかのように、そのアクセスをはねつけようとします。 概して鷹揚であり寛容 文学部映画演劇科 間口の広い表現形態 視覚化も言語化もできない種類のもの ゼロサム社会 なかなか芽の出ない新人が一人自由契約になる 活況を呈し ある種の自然淘汰は適宜おこなわれている 将来を嘱望 壮麗なテーマ・ミュージックつきで、リングに上ってきたのです。 アクチュアル現実的に 新進作家 ヴィークル乗り物 限りのないパラフレーズ置き換えの連鎖です。開けても開けても、中からより小さな人形が出てくるロシアの人形(マトリョーシカ)みたいなものです。 小説家にとって「落ち着くべき場所にすんなり落ち着く」というのは、率直に言わせていただければ、「想像力が減退する」のとほとんど同義なのです。小説家はある種の魚と同じです。水中で常に前に向かって移動していなければ、死んでしまいます。 小説を書かずにはいられない内的なドライブ。長期間にわたる孤独な作業を支える強靭な忍耐力。それは小説家という職業人としての資質、資格、と言ってしまっていいかもしれません。 リングへようこそ。 国分寺駅の南口に店を開きました。それが一九七四年のことです。 シンクロニシティー 不渡り 一国一城の主 学園闘争の嵐が吹きまくってた頃 内ゲバ ノンポリの学生が一人殺害されました 後味の悪い失望感 正しいスローガン 美しいメッセージ モラルの力 すべては空虚な言葉の羅列に過ぎない 言葉が一人歩きしてはならない。streetwise「都会を生き抜くための実際的な知恵を持った」 柄の大きな先生 人生のライトモチーフ どれだけ忙しくても、生活がきつくても、本を読むことは音楽を聴くことと並んで、僕にとって変わることのない大きな喜びであり続けました。その喜びだけは誰にも奪えなかった。 千駄ヶ谷 1978開幕戦 芝生のスロープがあるだけ デイブ・ヒルトン 赤鬼チャーリー・マニエル 何の脈絡もなく何の根拠もなく 啓示 Epiphany「本質の突然の顕現」「直感的な真実把握」エピファニー 当時はまだワードプロフェッサーもパソコンも普及していませんでした 風の歌を聴け それは実に奇跡的な、素晴らしいシーズンでした。 英語のペーパーバック 外国語で書く効果の面白さを「発見」し、自分なりに文章を書くリズムを身につけると、僕は英文タイプライターをまた押し入れに戻し、もう一度原稿用紙と万年筆を引っ張り出しました。そして机に向かって、英語で書き上げた一章ぶんくらいの文章を、日本語に「翻訳」していきました。翻訳といっても、がちがちの直訳ではなく、どちらかといえば自由な「移植」に近いものです。するとそこには必然的に、新しい日本語の文体が浮かび上がってきます。それは僕自身の独自の文体でもあります。僕が自分の手で見つけた文体です。そのときに「なるほどね、こういう風に日本語を書けばいいんだ」と思いました。まさに目から鱗が落ちる、というところです。 「おまえの文章は翻訳調だ」 余分な修飾を排した「ニュートラルな」、動きの良い文体を得ることでした。僕が求めたのは「日本語性を薄めた日本語」の文章を書くことではなく、所謂「小説言語」「純文学体制」みたいなものからできるだけ遠ざかったところにある日本語を用いて、自分自身のナチュラルなヴォイスでもって小説を「語る」ことだったのです。言語の持つ可能性を思いつく限りの方法で試してみる 幾分大袈裟に言えば、日本語の再生に繋がっていくはずだと信じています。 小説を書いてるとき、「文章を書いている」というよりは寧ろ「音楽を演奏している」というのに近い感覚がありました。僕はその感覚を今でも大事に保っています。それは要するに、頭で文章を書くよりは寧ろ体感で文章を書くということなのかもしれません。リズムを確保し、素敵な和音を見つけ、即興演奏の力を信じること。 明治通りの千駄ヶ谷小学校 伝書鳩 それは論理的というよりは、殆ど直感に近いものでした。 苦役として小説を書くという考え方に、僕はどうしても馴染めないのです。 「群像」の新人賞 画期的な出来事 些か「トゥーマッチ」もっと平たく言えば「え、こんなものでいいんですか?」ということですね。 コンセンサス そういうしきたり かえって場がしらけそう 文藝春秋ぶんげいしゅんしゅうはそれを商売としてやっている 「芥川賞作家」という「肩書き」 ただの村上春樹である(でしかない)というのは、なかなか悪くないことです。 総人口のおよそ5%くらいではないかと僕は推測しています 手近にYouTubeがあろうが、3Dビデオゲームがあろうが、暇があれば(あるいは暇がなくても)進んで本を手に取る。そしてそういう人たちが二十人に一人でもこの世に存在する限り、書物や小説の未来について僕が真剣に案じることはありません。 選挙で言えば「浮動票」その窓口=ショールームのひとつを今のところ芥川賞がつとめている ワインでいえばボジョレ・ヌーボー 僕のバイアスがかかった世界観で左右 そういう努力をしないのはひとえに僕の怠慢であるかもしれません 自分の仕事に割く時間とエネルギーが奪われることを意味します 褒賞 一律に論じることはできない。だから一律に論じてほしくもない。ストラヴィンスキーの『春の祭典』 レファレンス=参照事項 ライターズ・ブロック 人々の心の壁に新しい窓を開け、そこに新鮮な空気を吹き込んでみたい。 記憶の自然淘汰 抽出 蒐集 イマジネーションというのはまさに、脈絡を欠いた断片的な記憶のコンビネーションのことなのです。 融通無碍な状態 カフカ迷宮の悪夢 僕にとってはエッセイというのは、敢えて言うならビール会社が出している缶入り烏龍茶みたいなもので、いわば副業です。 E.T.即席の通信装置 それ以外に僕らが他の惑星と連絡を取り合うための手だてはないのです まず「説明しない」ご存知のように、ジャズにとって一番大事なのはリズムです。的確でソリッドなリズムを終始キープしなくてはなりません。そうしないことにはリスナーはついてきてくれません。 同じ88鍵のピアノ ひとつの重要な示唆 あるいは無限に近い可能性が存在 フリー・イントロビゼーション=自由な即興演奏 音楽を演奏するように文章を書けばいい 「軽量級」のマテリアル 組み合わせ方のマジックさえ会得すれば アーネスト・ヘミングウェイ 体験の与えてくれるダイナミズム 「健全な野心を失わない」 世界はつまらなそうに見えて、実に多くの魅力的な、謎めいた原石に満ちてます。小説家というのはそれ��見出す目を持ち合わせた人々のことです。そしてもうひとつ素晴らしいのは、それらが基本的に無料であるということです。あなたは正しい一対の目さえ具えていれば、それらの貴重な原石をどれでも選び放題、取り放題なのです。こんな素晴らしい職業って、他にちょっとないと思いませんか? 通常営業行為=ビジネス・アズ・ユージュアル カウアイ島のノースショア 出版社の編集者は日本の場合、専門職とはいっても、結局のところサラリーマン 観測定点 「第三者導入」プロセス どんな文章にだって必ず改良の余地はある 頭の火照りを適度に冷やす 「自分がある程度正気を失っている」ということだけは自覚しておかなくてはなりません。そして正気を失っている人間にとって、正気の人間の意見は概ね大事なものです。 あなたの本を読むのは結局のところ世間なのですから。あなたが世間を無視しようとすれば、おそらく世間も同じようにあなたを無視するでしょう。 総力戦 オールアウト 出し切った 「養生する」期間 「時間によって勝ち得たものは、時間が証明してくれるはずだ」と信じている 時間を大事に、慎重に、礼儀正しく扱うことは取りも直さず、時間を味方につけることでもあるのです。女性に対するのと同じことですね。 もしその語られた物語が、力の及ぶ限りにおいて最良のものでないとしたら、どうして小説なんて書くのだろう?結局のところ、ベストを尽くしたという満足感、精一杯働いたという証、我々が墓の中まで持って行けるのはそれだけである。 「時間と潮は人を待たない」 向こうに待つつもりがないのなら、その事実をしっかりと踏まえた上で、こちらのスケジュールを積極的に、意図的に設定して行くしかありません。つまり受け身になるのではなく、こちらから積極的に仕掛けていくわけです。 温泉の湯の深い温かみ 「実感」にまさる基準はどこにもありません 「キッチン・テーブル小説」と個人的に(勝手に)名付けています 普遍性があるかないかは、あなたが決めてください。 「筋肉は落ちやすく、贅肉はつきやすい」というのが僕らの身体にとっての、ひとつの悲痛なテーゼ(命題)となります。 「作家は贅肉がついたらおしまいですよ」 それが物理的な贅肉であれ、メタファーとしての贅肉であれ。 つまり肉体的運動と知的作業との日常的なコンビネーションは、作家のおこなっているような種類のクリエイティブな労働には、理想的な影響を及ぼすわけです。 ただでさえ文芸世界には、肉体的鍛錬を小馬鹿にする風潮がありました。 その文句は今でも、「僕にとってとにかくやらなきゃならないことなんだ」というのが。 ニューロンの形成についての科学記事 身体が素直に感じることに注意深く耳を澄ませるのは、ものを創造する人間にとっては基本的に重要な作業であったのだなと痛感します。精神にせよ頭脳にせよ、それらは結局のところ、等しく僕らの肉体の一部なのです。 心の闇の底に下降していくこと 大きなビルディングを建てようとすれば、基礎の地下部分も深く掘り下げなくてはならないのと同じことです。 トロロープ フランツ・カフカ 人の毀誉褒貶 一方に傾いた秤は、必然的にもとに戻ろうとします。フィジカルな力とスピリチュアルな力は、いわば車の両輪なのです。 類い稀な天才 神戸の港近くの古本屋 英語のペパーバック なにし��好奇心がすべてです 僕より英語の試験の成績が良い生徒がいっぱいいるけれど、僕の見たところ、彼らには英語の本を一冊読み通すことなんてまずできません。 ドストエフスキー『悪霊』 巨大な脳内キャビネット アスペクト=様相 本当の意味で生きた登場人物は、ある時点から作者の手を離れ、自立的に行動し始めます。 新しい小説を書き始めるとき、僕はいつもわくわくするのです。今度はどんな人々に巡り会えるのだろう、と。 昇華 自浄作用 村上龍 中上健次 橋を焼いた 人生の正念場 店を売却 『羊をめぐる冒険』こそが、長編小説家としての僕にとっての、実質的な出発点であったわけです。 もし全員を楽しませられないなら自分で楽しむしかないじゃないか 峻烈な自己相対化作業 メインラインをヒットするというのはアメリカの俗語で、静脈注射を打つ、要するに相手をアディクト(ドラッグの常習者)にしちゃうことです。 ニューヨーカー 僕は自分の書くものが「外国文学の焼き直し」だなんてちっとも思わなかったし、むしろ自分は、日本語のツールとしての新しい可能性を積極的に追求し検索しているつもりでいたので、「そう言うなら、僕の作品が外国で通用するかしないか、ひとつ試してみようじゃないか」という挑戦的な思いは、正直言ってなくはありませんでした。 逆に貶されてラッキーだった 共産主義体制の崩壊 物語というのはもともと現実のメタファーとして存在するもの たまたまグローバルにうまく機能した 僕自身が翻訳者(英語→日本語)でもあるので、翻訳者の味わう苦労とか喜びとかは、我が事として理解できます。 旗印 新しいフロンティア ダブル・スタンダード=二重規範 コスモポリタン的な傾向が強い 僕の作品は今のところ五十を超える言語に訳されています 1994年ボストン近郊 プリンストン大学 昔の東西ベルリンみたいにまったく行き来がありません 河合隼雄『未来への記憶』さば捌かれ 敬して遠ざけ 総理大臣アイム・ソーリ 駄洒落を言うことは河合先生にとっては、いわば「悪魔祓い」のようなものだったのではないかと僕は考えています。 因みに僕にとっての「悪魔祓い」は走ることです。 講演原稿を書くつもりで 「自伝的エッセイ」という扱いを受けることになりそう その驚きをできるだけピュアに保ちたいという強い思い あらためて系統的に思考し、それなりに俯瞰する メッセージというよりは寧ろ思惟の私的プロセス
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村上春樹が、いかにして小説家としてやってきたかのエッセイ。
なんか話し口調だったので、どこかで講演したのかと思ったら、このスタイルが書きやすかったからだって。
でもって、まぁ、常々日本のマスコミには変な評価されてるよねって思ってたけど、それを裏付けるというか、それだからこそきちんと海外に向けて動いたことがわかって、やっぱり春樹は真面目だよねと思ったのである。
うん、この真面目さが、日本の今まで小説家、ぽくないのがマスコミの気に入らないところなんじゃないかな。
で、タイトルだ。
<職業として>
この言葉は、重い。
お仕事だから、嫌なこともあるし、ノルマも締切りもあるし、なにより責任もある。
って、大人だから当然だよね。
日本人って、どこかそういう<大人としてあるべき>ものが欠落している気がする。
そういうものに対してのアンチテーゼのように感じた。
ってもやっぱり、好きなことを仕事にできるっていうのは、恵まれてるし好きだから努力できるってことはとってもとっても大事なのだと思う。
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これこれ!私が好きな村上春樹ってこれなの!というのが読み出したときの率直な感想。不思議な物語とか 登場人物とかが好きなのかなー と今までは思っていたけど、もしかしたら基本的にめんどくさい考え方をする(ことによって出てくる文章を書く)村上春樹が好きなのかもしれない ね、という思いのもと 大変楽しく読みました。
数年前の新刊のときに、こんな終わり方はわたしの好きな村上春樹じゃない!と思ったけど、それはそれでよいのでしょう、とも なんとなくすっと受け止められた。また 新作を手にとってみよう。
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久々に村上春樹さんの自伝的エッセイを読む。
いつも同じスタイルで肩の力の抜けた自然体でわかりやすい文体は読むのに疲れない。
有名であるが故に批評の対象となりやすい著者の数々の作品とその背景について、実に冷静に対処されていると思う。
注目される文学賞についての考え方、好きではなかった学校について、その教育方針について。
「フィジカルな力とスピリチュアルな力は、いわば車の両輪なのです。」…第七回 どこまでも個人的名フィジカルな営み。
たまには久々に長編を読んでみようかな。
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春樹ファンなら必読ではないでしょうか。それから小説を書く人にとっても。
春樹氏の半生の話(ほぼ自伝)、小説が生まれてくる過程、どれもこれも大変興味深い。春樹氏は、あくまでも自分の場合はこうだ、という書き方をしているけれど、十分参考になる。では自分の場合はどうすればベストなのだろう、と考えるきっかけや手がかりを与えてくれるし、ものごとにきちんと向き合う姿勢を見せてくれているから。