紙の本
ナチ時代の科学者の行動・発言は,けっして過去の話だと決めつけるわけにはいかない
2024/04/28 14:37
0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:kapa - この投稿者のレビュー一覧を見る
アカデミー賞受賞作映画『オッペンハイマー』を見た。「原爆の父」理論物理学者ロバート・オッペンハイマーの原爆開発から、広島・長崎の惨状を知り、その破壊力に苦悩し、後に核兵器の国際管理の必要性を訴え、水爆への抗議活動を行うに至るまでの変化を映像化したもの。3時間近い大作だが、見ごたえのある映画であった。これを見て敵国ナチス・ドイツにおける原爆開発とドイツ物理学者の関係が気になった。そこで旧著であるが、本書を思い出して再読してみた。戦争における科学者の社会的責任は何か、この古くて新しい課題をヒトラー政権下でドイツの物理学者たちがどのように活動したかを綿密かつ明快に解き明かしている。
アインシュタインら当時のドイツ物理学者が大勢登場するが、中心人物はマックス・プランク、ピーター・デバイ、そしてヴェルナー・ハイゼンベルクという三人のノーベル賞受賞者。立場や考えは違うが、それぞれ何らかの形でナチ政権の民族差別的科学技術政策を後押しし、また、結果的にユダヤ人迫害にも手を貸すことになってしまった。プランクはヴィルヘルム時代からの伝統である「教養」にしたがって良心的に法と秩序を重んじたために、デバイはオランダ国籍の維持という個人的な生活関心事項を最優先したがゆえに、そして最若手のハイゼンベルクはドイツ物理学を世界一にしようという野望を抱いたがゆえに。ナチ国家におけるドイツの物理学の例が示すのは、ドイツの科学者たちが「政治に無関心」というふりをしても、科学的な思考そのものへの政治の影響を防ぐことはできず、結局彼らがほとんど政治に圧倒されてしまい、結局はその技量や組織をいかに体制に順応させたかということにつきてしまう。しかし、これに関して議論を始めると、現在の我々は、問題をナチス・ドイツから切り離してより狭い範囲に限定し、科学それ自身とより密接に関連させて考えるということになりがちで、おそらくもっとも問題なのは、科学は根深い不合理や過激な主義主張に対して障壁となるという慰め、「神話」にしがみついてしまう。しかしナチ期の科学と政治の関係をみる上では、いやがおうにも科学者たちがヒトラーのために核爆弾を製造する用意があったか、そしてそれは可能であったか、と言うことが重要な問題の一つなのだ。科学者とナチやヒトラーとの関係はいまなお深刻な問題なのである。そして「神話」は崩壊したのである。
科学を人間活動の優れた形態として理想化することは今日でも科学者の意識のなかに深く刻み込まれている。この仮定の裏に潜む危険な自己満足の最適な例がナチ時代におけるドイツ科学の歴史に赤裸々に現れている。事実1930年代におけるドイツ人物理学者たちの振る舞いを見れば、ドイツの宗教指導者、作家、芸術家、実業家、そして政治家の一部がナチ支配に対して個人的に多大の犠牲を払って、またときには命を懸けて強い反対の声を上げた一方で、ドイツ科学者にはそれに匹敵するものは何も見出せない。概して科学者たちは反対の声を上げなかった。なぜなら科学者たちはナチ体制に理解を示していたからだ。この時代の科学批判することは、結局現在の我々が後知恵的に言えることであって、それはヒトラー政権という特異な時代の過去の話であって現代の話ではない,ましてや自分とは関係ないことだと思う科学者も少なくはないのではないか。ナチ時代の科学者がどう行動し,何を発言したかは,けっして過去の話だと決めつけるわけにはいかない。オッペンハイマーの苦悩もしかし。科学者のみならず,現代の我々の行動こそが問われているのだと思い知らされることになる。
紙の本
ヒトラーを科学大国ドイツの物理学者たちはどう考えたのか
2023/05/28 14:40
0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:ichikawan - この投稿者のレビュー一覧を見る
ナチスというとファナティカルというイメージであろうし、ヒトラーは知的さからは程遠い印象である。ではそのヒトラーを科学大国ドイツの物理学者たちはどう考えたのであろうか。ヒトラー当人よりもヒトラーに付き従った人間の方が恐ろしいのかもしれない。
投稿元:
レビューを見る
プランク、ハイゼンベルク、デバイを中心に…とあるが、それ以外にも実に多くの同時代の科学者が取り上げられている。デバイは前者2人と比べて知名度が低いが、かなりの紙幅を割かれている。ハイゼンベルグにも第11章が丸々割かれているが、プランクについては…筆者はプランクにちょい同情的で、余り責めたくないみたいだ。
戦時下での学者達の道義的責任、は然程珍しいネタではないが、第12章と終章になってやっと筆者の考えが盛られる。前置き長いって。でも最終的にはアシロマ会議まで話を持って行き、コレは過去の話じゃなくて、遺伝子やらAIやらに通じると警鐘を鳴らす。
特に印象に残るのは、ゾンマーフェルトの指導力リーゼ・マイトナーの脱出劇、パウル・ロスバルトの活躍、が生き生きと描かれる第7章から、X線から中性子の発見へと続く第8章。
優秀な頭脳が高潔と結びつくわけではないのは自明だが、しばしばそのように後悔してしまう。むしろ、「政治的に幼稚である」ことは、科学者にとって特段恥ずべきことでは無いとの共通認識がまかり通っているらしいことを再認識すべきか。まぁでも、学者が世俗に振り回されずに、研究に没頭したいと願うのはそれほど悪いことなのか?
投稿元:
レビューを見る
第二次大戦中の物理学の動きについて、よくマンハッタン計画当時のオッペンハイマーのロスアラモス研究所の方の記述は見かけるのだが、それが形成される原因ともなったナチス、アーリア物理学の側の思想、政治的動きなどが描かれていて、少し全体像が見えてきた。
権威主義的に統制された中で生まれていったアーリア物理学はある意味で絶対性、完全な客観性というものを念頭に置いたデカルト主義のようなものが原因でこのようなことになったのかもしれない。何れにせよ、学問や論理、言語といった起源に近いところにいるユダヤ系の発想は学問の深いところに根ざしているために、ある意味ではアイデンティティクライシスに陥りがちではあると思う。ヘブライズムとギリシャ文化を無視して国に固有の学問を作ろうというある意味ではアイデンティティへの希求的な行いだったかもしれず。。
ハイゼンベルグは「私たちが見ることができることに対しても非常に正確な制限を加えている」これって直観主義と絡むな...
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/ 不確定性原理
>今日コペンハーゲン解釈として知られている量子物理学に関するその見解は数世紀にわたって続いてきた古典的先入観を諦めて数学に降伏するものだった
ボーアの重要な概念は「相補性」。量子系に関する2つの見かけ上矛盾するような記述も異なる観測状況では正しいとされる。時には波のように見え、時には粒子のように見えることに何か深い意味があるわけではなく、その二重性こそが本来備わる性質
>物理は当時比較的新しい分野だったのでより保守的な伝統的学問分野においてユダヤ系の伝統を持った学問の発展を妨げているという偏見に悩まされなかった
>ボーアの重要な概念は「相補性」。量子系に関する2つの見かけ上矛盾するような記述も異なる観測状況では正しいとされる。時には波のように見え、時には粒子のように見えることに何か深い意味があるわけではなく、その二重性こそが本来備わる性質
>ハイゼンベルグは不確定性原理によって因果律が無意味になったことをはっきり証明したと言った。決定論と因果律の完全放棄を求めた。
ボーア:相補性、マンハッタン計画
ハイゼンベルグ:決定論と因果律の完全放棄、ナチス
>西洋の没落―世界史の形態学の素描〈第1巻〉形態と現実と
>しかしこんなことがあって結局このシュペングラーは相対主義的とみなされていて。芸術や文学だけでなく、科学や数学もそれが生起した文化によって形作られ、それ以外の外では意味がなく実際理解不能...そして彼の国家主義、歴史的宿命はヒトラーに投票させたが、のちに方向を変える
>ヒルベルトはユダヤ人数学者、理論物理学者が消えたあと政府高官に「非アーリア系が消えて、ドイツの数学はどうだ?」と聞かれて「ないも同然です」と言ったようだ
ヘルマンワイルは形式主義から直観主義に転んだ後、ブラウワーの数学の制約の多さから再び形式主義に戻っているのか...まあ数学ってそもそも形式主義というにはある。何かしらブラウワーの持つ直観主義的数学が不完全なものだったとしても..
>ドイツの1/4の物理学���がユダヤ系であったために解雇され、権力と影響ある幾つかの地位は常に従順であったために昇進した二流の人間によってしめられた
「科学の自由についてのあらゆる点において、科学への奉仕は国家への奉仕でなければならず、科学的成果は人々の文化に役立たなければ意味がない」「重要なことは何が真理かを決定することではなく、それが国家社会主義の革命精神に適っているかどうか」
ヒトラーの発言には「客観性」「自立性」「必然」と言った言い切り表現や確実性への希求が感じられる
科学の自立性、象牙の塔的態度が原爆投下をもたらしたと結論づけている...でも昨今の専門分化は表面上は産業と協力している場合もあるけど、何か別の問題を引き起こしている節もあるよな..結局狭い専門に閉じこもるという意味での象牙の塔はおこっている。何かしら開かれた科学ではなく
投稿元:
レビューを見る
1933年の公務員法はドイツの物理学者たちに特に難しい状況をもたらすことになった。というのも1933年の時点で彼らの約4分の1は、そしてその大半が非常に優秀であるのだが、公式には非アーリア人だったからだ。この状況は他の科学分野と比べていっそう深刻だった。なぜなら比較的新しい分野であった物理学は、より保守的で伝統的な学問分野においてユダヤの伝統を持った学問の発展を妨げているというような偏見に悩まされることは少なかったからだ。反ユダヤ法による排除に直面した者には、アインシュタインなどがいた。アインシュタインはヒトラーが政権を奪取した時にはアメリカに滞在しており、もうドイツには戻らないと明言した。
投稿元:
レビューを見る
フィリップ・ボール作ということで読んでみた
科学者だけでなく、1930年代に一般的なドイツの人々がどのような心理状況だったかを掴むことができる
最終的な帰結としてドイツの事例から、現代においても科学進歩への倫理的なアプローチを考察すべき、との主張で、こういった議論に興味がある人には良いテーマかと思った