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女のいない、または失った男たちのお話、短編集。
ビートルズの曲名2作が年を経た悲哀を感じさせて染みる。
やれやれ。
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タイトルの通り、彼女や奥さんを失った男の人たちの短編集です。
個人的に村上さんの本は好きというより、読むという感じで
登場人物の(主に男性の)そこはかとないけれど絶対的な自信に、自信が無いまま生きてきた自分はモヤモヤしてしまうのです…小さい人間ですね(笑)。
でもやはり文章力はさすがの一言で、「独立気管」なんかは男性の方がより共感して読めると思います。
青春の切なさを切り取った「イエスタデイ」と、神信心を思い出させられる「木野」が良かった。
村上さんの物語は、日本の作家には馴染みの薄い宗教や精神性の話が多いのもおもしろいですね。
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昔ハードカバーで読んだのを文庫で買い直して再読。村上春樹の短編集。内容はすっかり忘れていたいので、二度目もはじめて読むように楽しめた。初期3部作と同じ構造の短編があって、妙に興味深かった。また、忘れた頃に読み直したいな、と思う。
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文庫となったので改めて再読のため購入した村上春樹の短編集。女のいない男たちというタイトルから発想した、ショートが並ぶ。
女を失った男の物語、男女平等とか色々言われている世の中だけど、男が失うものは女であるというある種の普遍を小説にしているので、味わい深く、またふふっと笑ってしまう部分を残したメランコリックな内容になっている。数年前に読んだときにはどう思ったのだろうか。
今回読んで、印象的だったのは、「木野」だった。ストーリーの秀逸さ、そして現実の悲しみから逃げた男が、その悲しみに追いかけられ、現実として受け入れるまでの葛藤、そして葛藤していないことへの不安を導く。誰しも傷つくことはある、そしてそれを背負う人も、捨てる人もいる。捨てられずに抱えて、でも抱えてないフリまたは、葛藤していないと思い込んで生きていくこともできる。ただ、逃げられずに、いつか決着をつける時が来る。木野の話は、きっとそういうことなんだと思う。悲しくて、でも前向きだ。
もう一つは、「ドライブ・マイ・カー」もまた素敵なストーリーだ。無口な女性を運転手として雇う。何度も送り迎えをしてもらっているうちに、空気のような存在になり。その大切さに気がつくが、そのまま過ぎていく。たいせつなものや、価値観を交換していくうちに、自分が残した何かと一致するような気がして来る。奇譚に変容するその筋が気に入った。
もう一度、過去の自身のレビューを見て、なるほどなと思った。一つは、全く同じところに感動していること。もう一つは、じぶんの環境がガラッと代わり、当時は昔の女性に対するノスタルジーを感じていたんだが、今は過去を踏まえた自分を客観的に見ているんだなと。良い小説だ。
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出先で本屋にふらりと立ち寄ったら平積みしてあったので買った。村上春樹はほとんど読んでいるけれど、新作を待ちわびて飛びつく、という感じではない。たまたまどこかで目にしたり、ちょっとしたきっかけがあったり。刊行されてから何年か経っていることも多い。このくらいの距離感がちょうどいい。
相変わらずだな、と思いつつ、美味い米を食うようなつもりで読む。若い頃の、あのどことなくうまく世界にはまらない感じ、一人ぼっちで居心地の良い原っぱにいるみたいな感じは、薄れてきた。村上春樹も長いこと人間をやっているうちに、それなりに世界にハマるようになってきたのかもしれない。
それはそれでいいのかもしれないけれど。
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対話によって、語られる、男達の短編。
著者も言うように、箸休め的な文章なのだろうか、淡々と読んでしまう。読めてしまう。そんな文章の中でも、改めて、当著者は「心の奥のもう一歩奥の感情を、現実のものの様に、わかりやすく言語化できる能力」に長けているな。と思った。実際には自分でも分からないような、心の奥を表現することで、あたかも読者もその登場人物の心の奥が分かったような、気になる。
【学】
死んだ誰かのことを長く記憶しているのは、人が思うほど容易い事ではない→命日を記録しよう
コルク・フィー(コルクケージ、コルクチャージ)として5千円払うから、このワインをここで飲んで構わないか?
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たまたま一時的に、日本に帰る用があって、1泊しかしなかったから、どこに寄って何を買おう、という余裕がほとんどなくて、戻りの成田空港でたまたま見つけたこの本を購入し、読むこととする。
この本の感想以外に、色々書いてしまいそうなんだけれど、
元々予定になかった帰国だったので、親にも誰にも知らせずに、ひっそり来て、ひっそり帰った。
3ヵ月ぶりの帰国。そんなに長く外国に滞在していたわけでもないのだけど、わたしは、この3ヵ月、ほとんど日本食を口にしておらず、そのため日本食が食べたくてしょうがなくなっていた。大学時代にカナダに留学した時は、10か月以上日本に帰れなかったので、それを思うと何とも滑稽。日本食なんて、お金を出せばいくらでも食べられる。お金も別に、ない訳ではない。でも「お金を多く出せば食べられるもの」としての日本食を、何だか食べたくなくて、わたしは、日本食が恋しくなると、小説のご飯のシーンを読んだり、 youtubeで日本食を紹介している番組を観たりしていた。
その「日本食の恋しさ」を解消する絶好のチャンスだったのに、わたしはその滞在で、一切日本食を口にせず戻ることとなった。
なぜか。
この一時帰国の1週間ほど前に、母にメールをしたことがきっかけだった。
そのメールを送る少し前に私は、現地で韓国産のお蕎麦の乾麺を安く手に入れたのだが、「麺つゆ」が高かったので、現地の魚のブイヨンのようなものとお醤油を合わせて「麺つゆ様のもの」を作ってそのおそばを食べたのだけど、しょっぱくて麺つゆの代わりにはならなかった、という経験をした。それを母にメールし、「お母さんの作ってくれるお蕎麦が食べたいなぁ」漏らしていたのだ。
母は律儀な人だから、次に私が帰国した時に、必ず私が喜ぶものを作ってくれる。だから、ひっそり一時帰国した時に、手近な日本食を食べてなんとなく満足することが、母に対する裏切りみたいに思えて、わたしは日本食を口にすることができなかったのだ。
バカだなぁと、自分でも思う。
日本食が恋しいのと同時に、わたしはきっと、母や家族が同じくらい恋しかったのだと思う。
カナダでは、なかったなぁ。楽しかった。幸せだった。少なからず、今思えば、私の生き方を変えてくれたものだった。そこには今も交流を続けられる友人にも出会うことができた。
心を寄せられる存在が、少なからずいたのだ。
少なからず、寂しさを紛らわせ、その寂しさを見えない形で共感し合える存在が。
私は今きっと、
とても孤独なのだと思う。
誰かにそばにいてほしくて、でもそれは、誰でもいいわけではなくて、わずかでいいから、重なり合う部分のある人でほしくて、でもそれが叶わなくて、安易にも、それを故郷の母に求めてしまったのではないか。
「女のいない男たち」
「木野」という話が、印象に残った。
帰国時に泊まった、天井の低い狭いホテルを思い出した。今の住まいにいる、虎猫ちゃんが最近姿を見せてくれなくて、寂しいなぁと思っているのを思��出した。海を泳いだ時に海中を泳ぐウミヘビを思い出し、雨上がりの湿った地面を這う大きな蛇が、室内に入ろうとしたのを、門番が退治するのを見たことを思い出した。
ここ3カ月以内に自分に起こった、このお話に似たことを思い出した。
ここを去ろうと、思った。
でもそれと同時に「これはまた『逃げ』なんだろうか」とも思った。
わたしは、何かに向き合うことを、回避しているだけに過ぎない「逃げている」人間なのだろうか、と。
逃げたくなんか、ないと、思おうとしているに過ぎない、口先だけの逃げている人間に過ぎないのではないか、と。
私が逃げている人間だとしたら、
逃げることも相当苦しい。
私が逃げている人間だとしたら、
逃げない選択とは、どのような選択なのだろう。
私が逃げている人間だとしたら、
もう、行き場はないということは、確実。
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村上春樹のことを好きな方にはごめんなさい。少し嫌なこと書くかも・・。私はノルウェイの森など結構好きだった方ですが、これは集中できなかった。著者の作品では楽曲や作曲家、その他趣味の深さを示すような引用が多い。それは万人が知っているものではないことが多く、知っていると格好いい・・みたいな感じを受ける。長編ではあまり気にならないけど、短編で次々に出てくると、それらなしで作品を良いものにすることはできないのかなど、ひねくれた見方になってしまう。悪くいえば自分の趣味を作品の中でひけらかしているようにも見える。村上春樹というブランドですから、としてしまえばそれまでですが、私はイスラエルでのスピーチ『もし、硬くて高い壁と、そこに叩きつけられている卵があったなら、私は常に卵の側に立つ。いかに壁が正しく卵が間違っていたとしても、私は卵の側に立ちます』に感銘を受けてより好きになったので、あまり知らない趣味のこと、訳がわからない感情の揺れをそのままのらりくらり書いた話は少しがっかりしてしまいました。
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女に裏切られたり、捨てられたり、失ったりした男たちの6つの短編集。
村上春樹の世界はいつもどこか象徴的で不思議なところに置き去りにされる感じがするけど、今回は「シエラザード」「木野」にはその不思議感をいつもよりは少なめに感じた。
表題作の「女のいない男たち」にいたっては、頭のなかの思考がぐるぐるしているのを覗き込んでいるような話。エムが旦那に語ったかもしれないことを想像している箇所がエロなのか変態なのか何を言いたいのか、そんな思考もそれはそれで面白かったが理解はしがたい。
「シエラザード」と「木野」は面白かった。
シエラザードの語る奇妙な話が気になった。木崎は傷つくときに傷つくことができず、何かを抱えている。身に迫っている得体の知れないものがその何かなんだろうか。どちらもはっきりと言えない惹かれるものがあった。
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孤独な男たちの短編集。
短編だろうとやっぱり村上春樹らしく暗くて分かりづらい(褒めている)。
読むときの気分によって感じ方が変わってくるのだろうか。
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独立器官と木野。特に、木野のストーリーがぐっときた。 何事も中途半端で、最終的に自分が傷ついていることに気付くことが出来て良かったと思う。自分のことは自分にしか分からない。私も何をやっても中途半端であることが多いので、一つ一つの物事に・自分に真剣に向き合い やっていかないとな、と思えた。
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でもどれだけ理解し合っているはずの相手であれ、どれだけ愛している相手であれ、他人の心をそっくり覗き込むことなんて、それはできない相談です。そんなことを求めても、自分がつらくなるだけです。しかしそれが自分自身の心であれば、努力さえすれば、努力しただけしっかり覗き込むことはできるはずです。ですから結局のところ僕らがやらなくちゃならないのは、自分の心と上手に正直に折り合いをつけていくことじゃないでしょうか。本当に他人を見たいと望むのなら、自分自身を深くまっすぐ見つめるしかないんです。
(ドライブ・マイ・カー)
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面白かった!!
なんだか、今までの「よくわからんけど読み物として面白い、やっぱりこの文章が好き」って面白さでなく、わかりやすく易しい面白さ。
村上作品の男性たちって、物語の途中で女性がほぼ必ずいなくなってしまうとおもうのだけど、この短編集は既に女性を失っているところから始まっている。そしてやっぱりわたしは村上作品の、美しく身勝手な女性たちが好きだな。
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根津美術館の近くのバーが、「ドライブ・マイ・カー」と「木野」で出てくる。月の比喩は、「羊をめぐる冒険」でも用いられているし、全体的にモチーフも似通ってはいるが、よくぞ飽きずに書けるという畏怖はある。同じモチーフを何度も繰り返すのは、村上にとっては通勤経路のようなものなのかもしれない。目的地にたどりつくために通っている、というような。また、「シェエラザード」のタイトルは「やつめうなぎ」に変更した方がいいのではなかろうか。タイトルについて村上はいつか自身が敬愛して翻訳し続けた短編作家レイモンド・カーヴァーを批判していたのに。
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果てしなく村上春樹。ただ、やはり近年ぽい書き味で読みやすさが強め。「太陽の南...」とか「ハードボイルド...」のような題材だけど、「海辺の...」以降の書き味。自然発生的というより実験的な匂い。嫌いじゃない。