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「北町貫多」の行く末は?
2017/03/13 14:54
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投稿者:燕石 - この投稿者のレビュー一覧を見る
この著者の持ち味とも言えるお下劣ぶりは影をひそめ、藤澤清造や田中英光への敬愛を機縁に小説を書き始めた頃の「初心」に立ち返る決意を述べた、マジメな短篇連作。
芥川賞受賞後の宴のような日々の後に訪れた、「本が売れない」やるせない現実に揺れる作者本人の心の迷いを切々と訴えることは、自称「スタイリスト」の作者には堪え難いものがあるだろう。にもかかわらず、書かざるを得ないのは、やはり「そろそろネタ切れか?」という感を強くする。
狷介な己を持ち続けようとする姿は、文字通り「藤澤清造の没後弟子」そのままだが、師匠清造の行く末は狂凍死だった。さて、「北町貫多」の行く末は?
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【私小説の一本道を行く――鬼気迫る作品集】厳寒の深夜、師・藤澤清造の終焉地に佇む北町貫多。惑いを経て、歿後弟子の初志貫徹を願う――予定調和とは無縁の至誠あふれる四作。
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描かれているのは2015年。時代も違えば、全てにおいてこれまでとは趣を大きく異にしている。目新しさが自然に意識を前のめりにさせる。恥のかき捨て的アルバイト稼ぎが、自身の出発点たる思いの意識を稀薄にする。頭の片隅で不手際を認識しつつも、立ち止まって、省みることができず流される。本来の基であった支柱が押されてずれてしまった感覚。何のために書いているのか。懊悩が胸に迫ってくる。著者は落伍者には落伍者の流儀があると行動を決意する。初志に立ち戻らなければならないとの立志の覚悟が清々しい。
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ここまで鬱々とした私小説を久々に読んだ。いや、私小説そのものが久しぶりだが。これはもう、西村賢太という作家に対する出歯亀根性といえよう。
作中人物としての彼の姿が惨めに卑屈に映るほど、何か自分の心がひとつ慰められる気がしたのだ、ワシは。もちろん、それ自体が歪んだ心根であることは分かっているし、自らの卑小の証左だが、読んでる最中は安心してしまうのだ。
自分の中の醜いものを自覚し、安堵する。久しく忘れていたこの感覚を思い出させてくれた。
そして作中で扱われる藤澤清造、田中英光という私小説家の作も読みたくなった。
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それなりに西村節が効いていて読ませなくはないが、いかんせんなにも出来事がないので地味。ミュージシャンの話なんかは、人に読ませるために書いたのではないと著者が言うとおり、ほんとに何も出来事がなくてつまらない。会場の人に居丈高になったところと勝手にドラムを叩いてしまうところくらいしか、ああーわかるわかるつらいーというところがない。
お寺を訪れる話はそれなりによかった。亡くなったお母さんの思い出にしんみり浸る感じが、酒屋だとか花屋だとかの会話や和尚さん・その兄弟との淡々としたやり取りから伝わって来る。人間は大切な人を亡くしても明るく生きていかなければならなくて、そういうのか痛いほど伝わってきて、主人公もとても寂しく思っているのがよくわかる。
全体的に地味すぎる。西村作品はしっぱいとかしくじりがないと。
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久方振りの西村賢太である。
どのくらい久しぶりなのか、ブログで調べてみると、最後に読んだのが2016年10月。
「蠕動(ぜんどう)で渉れ、汚泥の川を」という小説を読んでいる。
それ以来のことなので、1年4ヵ月ぶりということになる。
ついでに遡って調べてみると、最初に読んだのが2013年2月。
芥川賞を受賞した「苦役列車」である。
この小説の面白さに、単行本化されているすべての著作(小説8冊と随筆集2冊および対談集1冊)を続けて読むことになった。
そして2014年には、「疒(やまいだれ)の歌」、「歪んだ忌日」、「棺に跨る」を、間を置いて2016年には「蠕動(ぜんどう)で渉れ、汚泥の川を」と続き、そして今回のこの小説となったのである。
多作の作家だとこうはいかないが、寡作である西村賢太の場合は、このように時間を置いて読むことができるので、ありがたい。
そろそろ次が読みたくなってきたなという頃合いに、いい具合に次の本が出版される。
なので気持ちがいつも新鮮なままで、余裕を持って臨むことができる。
ということで今回の小説であるが、こちらは2015年から2016年にかけて雑誌に掲載された短編を収めた作品集である。
4篇すべてがお馴染みの「北町貫多もの」。
表題作の「芝公園六角堂跡」からはじまり、掲載順に「終われなかった夜の彼方で」、「深更の巡礼」、「十二月に泣く」と続く。
「芝公園六角堂跡」は、北町貫多が没後弟子を自任する作家、藤澤清造が凍死した場所である。
謂わば北町貫多にとっては巡礼の地とも云うべき場所である。
その近くにあるホテルでミュージシャンJ・Iのライブがあり、貫多が招かれて出かけていくところから物語は始まる。
J・Iは、音楽にあまり関心を持たない貫多が唯一ファンとなったミュージシャンで、そのことを小説にしきりに書いたことから親交を得るようになった。
そのライブを聴きながら、J・Iの音楽との出会いから、親交を得た現在までの経緯が詳しく語られていく。
そしてライブの興奮とライブ後のJ・Iとの親しい交流に舞い上がったまま、近くの六角堂跡を訪れる。
しかし貫多の気持ちは複雑だ。
それというのも「彼が今佇んでいる場が、大正期の私小説作家、藤澤清造のまさに終焉の地であることは、はなから承知済みだった。尤も当初は、この事実を今日のところは完全に無視するつもりでいた。完全に無視して、ただJ・Iさんの音楽世界だけを堪能したかった。」からである。
「だが、やはり無視し去るわけにはいかなかったのである。」
そこから藤澤清造の小説と出会って以来の来し方を思い出すなかで、師への熱情が冷めかけていることを大いに反省、だらけ切った現在の自分を叱咤激励する。
A賞を受賞したことで社会的認知度が上がり(それを虚名と書く)、経済的にも余裕が出たことで、「その軌道が、おかしな方向に行ってしまっているのだ。」
「何んの為に書いているかと云う、肝心の根本的な部分を見失っていたのである。」
そして「見失っていたことをハッキリと自覚したんなら、取り戻せばいいことに違げえねえ」となるのである。
謂わば彼の原点帰りの決意を��べたような小説であり、続く3篇では、その原点帰りを果たそうとする姿が描かれていく。
相も変わらぬ藤澤清造愛であり、田中英光愛であるが、そこに表れる北町貫多の心境は、時に弱気、時に強気、そうしたアンビバレンツな心の動きもやはりこれまでどおりの西村節健在で、大いに楽しませてくれるが、それが変わりつつあるのを感じる。
それがどんなものになっていくのか、一筋縄ではいかない西村賢太だけに大いに期待が高まるところである。
これでまた楽しみがひとつ出来た。
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『どくヤン!』というヤンキービブリオ漫画(?)で紹介されていたのが本書を手にとったきっかけ(著者は1巻の帯も書いている)。
はずかしながら著者が心酔し師事している田中英光と藤澤清造を知らなかったので、いつか読んでみたい。
特段何が起きるわけでもないのに、独特の文体とテンポで不思議な魅力のある私小説だった。
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私のブログ
http://blog.livedoor.jp/funky_intelligence/archives/1995082.html
から転載しています。
西村賢太作品の時系列はこちらをご覧ください。
http://blog.livedoor.jp/funky_intelligence/archives/1998219.html
本作品も貫多を主人公とした私小説三編で構成されているが、西村賢太が敬愛する大正期の私小説家:藤澤清造への想いを淡々と綴ったものであり、面白さは全くない。まさに西村賢太が自分の為に書いたもの。以前読了した「一私小説書きの日乗」で書かれた通りの作品。西村賢太が出した藤澤清造作品を読めばまた感想も変わって来るかも知れないが、かの著者に何の興味もない読者がこれを読んでも全く響かない。まるで西村賢太の自慰行為を見せつけられているようである。
前にも書いたが、西村賢太にとっての藤澤清造は、私にとっての青木雄二。哲学も思想も何も持ち合わせていなかった20代半ばの私が「ナニワ金融道」という作品に出会い、唯物論に衝撃を受け、青木雄二関連のほとんどを読み漁った。人生に光が見えた気がした。若き日の西村賢太と同様、嫌いな人間、ことに上司や先輩などの年配者で青木雄二や唯物論を知らぬ者、理解せぬ者を卑下してきた。だから、西村賢太の気持ちは凄く分かるのだ。私も青木雄二関連の書を全て集めてみようかな。8割がたは所有しているが、まだまだ漏れはたくさんあると思う。本作品を読んで、そんな懐かしい気持ちになれた。
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別に好きじゃ無いのに何故か気になって定期的に読む西村賢太さん。
これを読んで藤澤清造さんの著作を読みました。
並んでいる二人のお墓に参りたい。
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尾道の図書館で読む。
没後弟子を自称する藤澤清造がらみの小説、と呼んでいいのだろうか。私小説を読むのはこの作家のものが初めてなので、私小説を読む作法がわからない。青年期や同棲生活を題材とする作品は時間が経っていることもあり、小説として自然に読めるが、本書に収録されている作品は単なる近況報告としか読めない。
藤澤清造への熱い想いは、現代日本語に直すと「推し」ってことでいいのだろうか。