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少し前に出た『冬の日誌』に続く自伝的な色彩の強い書物である。前作と同じように「君は」と二人称で語られる。『冬の日誌』が、小さい頃から今に至る身体の履歴について時間軸に沿って述べた物語であるのに対し、本書の体裁は少し異なっている。四部構成で、その第一部が表題作「内面からの報告書」で、主に十二歳までの自分に関する記憶を頼りに、自分というものが発生するに至る経緯をたどっている。
第二部は、やはり少年期の自分が影響を受けることになった二本の映画について語る「脳天に二発」。その映画とは『縮みゆく人間』と『仮面の米国』。前者はSF映画で、文字通り体が徐々に小さくなっていく男の恐怖を描いたもの。後者は第一次世界大戦の帰還兵が、帰国してから職を探すものの不況下に職はなく、果ては監獄に入れられてしまう。脱走に成功し、別人となった男に過去の罪が再び迫るという暗澹たるストーリーの映画である。
第三部の「タイムカプセル」は、著者の最初の妻で作家、翻訳者として知られるリディア・デイヴィス宛に書かれた手紙と、それについての作家のコメントによって再構成された、十代後半から二十四歳までの作家志望の青年の内面の赤裸々なリポート。相手と離れて暮らす若者が書いた手紙であるから、普通にはラブレターと解される類のものだが、そこは「君」らしく、今とりかかっている小説の進展具合や、友達との交友、教授に対する反目といった誰にでも覚えのある若き日の心情があふれている。
面白いのは第四部の「アルバム」だろう。「君」が心躍らせたアニメーションや、野球選手、ユダヤ人俳優からはじまって、のちに何度も悪夢となって襲い掛かるナチスの歩兵隊や、先に触れた二本の映画のスチール写真、パリ時代の街角のスナップなどが、ふんだんに配された文字通りの写真帳になっている。
「君」は、自分の内面を探ることについて、自分を特別だと思うからでなく、ごく普通の人間の代表としてとらえている。だからなのか、十二歳までの記憶に、特に印象的なものはない。地球を平面だと信じたり、コナン・ドイルやスティーヴンソンを読みふけったり、と少年期の男の子あるあるといった感じの話が続く。
一つちがうとすれば「君」ががユダヤ人であるということ。「君」の両親は、ディアスポラ以来ヨーロッパに渡ったユダヤ人の子孫で、その多くはユダヤ人に対して保護的な政策を掲げていたポーランドに住んでいた。ナチスによって迫害を受け、大量虐殺に遭う前にアメリカに渡ってきた祖父母のお陰で、この世に誕生することができた「君」は、物心ついて以来、事あるごとに自分がユダヤ人であることを思い知ることになる。
二人の親友が「君」の住んでいた地区から引っ越したのは、芝生のある家に住むために多くのユダヤ人が引っ越してきたので、元からいた人たちが出て行ったのだ、と母から聞かされる。まちがって友達に怪我を負わせたときは、「お前らのような種は」と罵声を浴びせかけられる。アメリカは素晴らしい国で、自分はアメリカ人だと信じていた「君」にとっては容易に理解しがたい事態であった。
メジャー・リーグをはじめ、ユダヤ人のスポーツ選手は稀で���ギャング映画の顔役として知られるエドワード・G・ロビンソンは本名エマヌエル・ゴールデンバーグ。あの妖艶な美人女優ヘディ・ラマーはヘートヴィヒ・キースラー。役者として売れるにはユダヤっぽい名を捨てる必要があった。近くに住んでいたので憧れの対象だったエジソンは、同じ床屋に通っていたが、自社で働いていた社員である「君」の父がユダヤ人だと分かると即刻解雇した。
そう考えると、『縮みゆく人間』や『仮面の米国』の主人公を自分だと感じる「君」の内面がどのように形成されつつあったのかも理解できる気がする。それまで、難なく同調できていた周囲から、あるとき不意にズレていく自分という存在についての自覚。どれほど努力して、周囲に溶け込もうとしても執拗に正体を暴こうと迫る者たちがいることへの恐怖心。ただ、「君」はそれに負けはしなかった。仮令孤立しようともユダヤ人として生きてきた。
個人的に懐かしかったのは、コロンビア大学における紛争に「君」も参加し、逮捕されていたことを知ったことだ。いうまでもなく映画『いちご白書』として描かれ、一躍有名になった1969年のあの紛争である。今の人たちにとってはバンバンが歌った『「いちご白書」をもう一度』の方が、まだ記憶に残っているのかもしれないが、当時大学生活を送っていた者として、ニール・ヤングやCS&Nの名曲に彩られたあの映画は忘れられない。
当時ソルボンヌに留学していた「君」は、頑迷な担当教授とぶつかり、授業をボイコットしてしまう。中途退学となれば、徴兵猶予の待遇を失うこととなり、ヴェトナム戦争が激しさを増していた当時、アメリカに帰国すれば、徴兵されるか、拒否することで逮捕されるか、またはカナダに向かうしか手段はなかった。人生最大の難問にぶつかった「君」の心の揺れを示すリディアへの手紙は読んでいても痛々しい。
「君」の内面ともいうべきものが生まれ、両親の不仲やユダヤ人という境遇を背負い、果敢に戦い、時には崩壊寸前にまで追い込まれながらも、青年期の危機を乗り越え、やがて成熟した大人となるまでを描く。大人になるということは、何かを喪失することでもある。日記を書かなかった「君」は、覚束ない記憶を手探りし、昔の写真や、妻宛の手紙を手掛かりに今はもう失われてしまったものを再現することに成功する。六十も半ばを過ぎた作家の手になる内面への遡行の旅の何というみずみずしさであることか。
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65歳のニューヨーカーとは、だいぶバックボーンが違うよう。幼少期のアニメのキャラクター・TV番組・人気の大リーガー。。。フーン。その一方で、エジソンに憧れたり、ポーやホームズに背伸びしたりって辺りは、幾分普遍性があるようで。
青春期のオースター、ビックリする程普通の小僧。自信無さの裏返しの自意識過剰で、鼻持ちならない衒学屋で、自分の事ばかり。キャンプでオネショしてたの忘れたか⁉︎。。。こんなラブレターに耐えたリディア・デイヴィスは偉い。個人的には、映画2編の筋書きと巻末のアルバムは全く不要。
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現代アメリカ文学を代表する作家の精神の回想録。子どもの頃から学生時代までの心の記憶や、元妻に書いた手紙も引用されている。
なんだかバラバラとした断片的な印象だったけど、人間の内面には、そもそも統一感などないのかもしれない。
当時のアメリカの社会的問題も興味深かった。
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「冬の日誌」と対を為す回想録。
あのとき何を感じたのか、という観点で書いてありますが、幼いまたは若い頃な考えたり感じていたことを思い出し、誰かに聞かせるのはなかなか難しいことだったり恥ずかしいことだったりすると思います。ましてや、恋人に送ったラブレターまで持ち出して。
非常に面白く読みましたが、自分はその頃何を感じ、考えていたのか、思い出しながら読んでみると、けっこう浅く薄かったなあ、と今更ながら後悔しきりです…
自分を見つめ直すときに、ぜひ。
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「冬の日誌」と対になってるけど、こっちはユダヤ系であることについてや、リディアへの手紙(!)とか、補完できる写真とか、断然読み応えがありました。
リディアへの手紙はもっと甘い言葉が綴られているのかと期待してたけど、独白のように淡々としていました。
その分、たまに出てくる「君がいなくて寂しくて堪らない」みたいな言葉にぐっときたな。
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最近のオースターは内省度合いがどんどん強まっていて、一体どこまで行くんだろうと思っていたのだけれど、本書でもって遂にその頂点まで行ってしまった。
前作『冬の日誌』と同じく、若き自分に「君」と語りかける手法は健在。二番目の章「脳天に二発」で展開されるオースター定番のストーリー内ストーリーも健在。
でも、やっぱりいちばん衝撃的なのは、後に最初の妻となる女性に宛てて若きオースターが書いた手紙と、それに関する自らのコメントから成る三番目の章「タイムカプセル」。若き自分をまるで他者のように扱って、読者と一緒に分析しているかの様相なのだけれど、いや、本当によくぞここまで。もし自分が若かりし頃に出したその類の手紙が出てきたとしても、それを誰かと一緒に分析するなんて、とてもとても。。でも、それを何だか嬉しそうにやっている感じが伝わってくるから、たまらない。
オースターの内省、ここに極まれり。
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自分が自分であること――すなわちポール・オースターがポール・オースターであること――をめぐる精神史。
これまでの作品(特に「ニューヨーク三部作」などの初期作品)においては、ポール・オースターという名前や存在を装置として活用することで新たな文学を切り拓いてきたオースター。その作者が人生の老いという冬の時代にさしかかった現在、こらまでの精神の変遷を赤裸々に語っています。たとえば、インタビューなどではこれまであまり詳しく語ってこなかったみずからのユダヤ性なども語られています。
とはいっても、単なる回顧録などではなく、みずからを「君」(you)と呼んで語りかけることで生じる自己と自己自身との距離が生み出す緊張感も伝わってきます。そして、その緊張感も含めて見事に日本語へと変換している名訳もうれしいです。