投稿元:
レビューを見る
僕もともとノレない人なんで、分かる分かるーといった感じで詰まらんかったです。コードを共有できない環境に身を置き、共有しようとする為にはメタ的な視点が必須なので、そのような物理的な環境に身を置けば、最も単純かつ原始的な実践方法を取れるかと
投稿元:
レビューを見る
知的好奇心は際限がなく拡大する一方でありキリがない。その最たる例が積読の増加である。そこで著者は勉強の「有限化」を重視し、決断主義(独我論)に対する相対主義(言語ゲーム論)の優位性を説き、アイロニー(懐疑)からユーモア(連想)への転回を提唱する。そして、結果としての享楽的こだわりがナンセンスへの中断化を促すわけだが、そこにアイロニーをかけるというアクロバティックなプロセスにより「勉強の三角形」のサイクルをまわし続け、縦横に膨張するナンセンスを回避し、「有限化」する事が重要であるとする。(尚、amazonのオススメが無限化を進めているのは言うまでもない)
現代思想を用いたこの辺の整理の仕方は唸らされるものがあるが、現実的には学問領域は専門性で細分化されタコツボ化している。よって、この「勉強の三角形」のサイクルもタコツボの中で回り続けているに過ぎない。それはそれで専門分野内では「真理が収束する」というメリットはあるのかもしれない。しかしながら、今求められているのは「ユーモアの学際性」であり「タコツボからの脱却」である。また、「勉強の三角形」のサイクルをまわすだけでは「現実社会への適用」という課題が残されたままである。昨今話題になっている学術会議の問題も「タコツボからの脱却」と「現実社会への適用」という2点が問われているのではないだろうか。
投稿元:
レビューを見る
【気鋭の哲学者が追究した本格的勉強論】勉強ができるようになるためには、変身が必要だ! なぜ人は勉強するのか。勉強の本質とは何か。勉強の概念を覆す哲学的勉強論。
投稿元:
レビューを見る
勉強とは何か、ということについて哲学的に書かれた本。途中何度か見失いそうになったけど、何とか最後まで読み終えた…。全く詳しい訳ではないけど、構造主義的な立場、なのかな。
印象に残った点は3つ。
・深く勉強するというのは、ノリが悪くなることである。
勉強によって自由になるとは、キモい人になることである。
・ツッコミ=アイロニーとボケ=ユーモアが、環境から自由になり、外部へと向かうための本質的な思考スキルである。
・信頼に値する他者は、粘り強く比較を続けている人である。
最後に結論としてまとめがあったのでだいぶ助かった。
こういう本、考えることについて考えるみたいな、ある行動や概念について構造的に多角的に見た本はなかなか難しいけど、好きだ。
投稿元:
レビューを見る
ノリの良いバカは勉強を通してノリの悪い小賢しい人間になり、またそのうちノリの良いバカになる。
ノリとはその場の環境が持っている「コード」を読むことでありその場その時で変化するし、勉強によるアイロニー、ユーモア、ナンセンスでその「コード」を乱していく。
なぜ乱すのか。より深く、より広く、根源へと向かうため。でも根源へと辿り着くことは出来ず、勉強を継続していくことが重要。
ゲンロンゼロの扱う観光客の一つの表れが本書での「勉強」であるかな、と思いつつ読みつつ、どう呼応するのか、しないのか、についてを「勉強」していこう、と思っている。
iPad proを買っていたのは良いタイミングだったけど、本はお風呂で読むことが多いから、どうやって勉強に取り入れるかも考えよう。
投稿元:
レビューを見る
身も蓋もなく「勉強」することの意味が書かれている。勉強しなくていいや、と思う人には結局届かないかもしれないが、勉強したくてモヤモヤしている人にはよいガイドブックだ。高校生とか、大学入りたてとか。
これを、そうそう、あるあると、感じながら読めたなら、「知的な相互信頼の空間」p.188 のとば口に立っているといえるだろう。
アイロニー、ユーモア、ナンセンス p.114 や
勉強の三角形のダイアグラム p.151 にある
1. 懐疑(アイロニー) →深追い
2. 連想(ユーモア)→目移り
3. 享楽 →こだわり 中断
の三角関係は、パースのアブダクションの話と重ね合わせても面白そうだ。
投稿元:
レビューを見る
ある「無根拠」ないし「有限性」(=環境への適応・没入・ノリのよさ)の外に出る方法を考察した本。
保守的な無根拠→アイロニー(その根拠を問う)→決断主義(すべての根拠を疑ってしまい、無根拠に置かれる、そこから一つの他者を盲信することになる)に陥りそうになる→拡張的ユーモア(横に広げてさまざまな選択肢を考えてみる、連想)→どれを選ぶかの根拠の不在→収縮的ユーモア(享楽的なこだわりによってさまざまな選択肢のどれかに絞ることができる)=中断→アイロニー(享楽的なこだわりを遡ってみる)→……という形で、循環に身を置くことを提唱する。
とりわけ、決断ではなく中断というところに重点。デタッチメントからのコミットメントは決断という決定的なものではなく、中断というしょせんは一時的なものである、だから勉強の継続が要請される、ということだろうか。
個人的に、第一章の「ノリ」の定義がむしろ面白かった。「ノリ」とは環境とのパターンであるが、不適応ないし苦しみに居心地がよくなるという形で、マゾヒズム的なパターンが形成されることもある、それも「ノリ」の一種である、と。
であるならば、千葉雅也が露悪的・逆説的に書くように「勉強はノリを悪くする・キモくする」(周囲から浮く)だけではなく、「ノリがよくなる」(周囲と調和する、これまでの自分からは浮く)という結果を招くことにもなるのだろう。僕はそのために勉強したいと思った。
投稿元:
レビューを見る
この春、多くの書店の「人文書」売場には、東浩紀『観光客の哲学』、國分功一郎『中動態の世界』、そして千葉雅也『勉強の哲学』が並んで置かれ、さながら春の哲学書まつりだった。東はデリディアン、國分・千葉がドゥルージアンという違いはあるものの、フランス現代思想に通じた哲学/批評の書き手による新刊が、ほぼ同時期に刊行され、注目を集めた。いずれも哲学の本としてはよく売れている。
ここ数年、日本を含む課題先進国において、これまでの経験や常識だけでは対応困難な、難しい問題を多く抱え、いよいよ哲学の出番だと言われている。その場しのぎで何とかなる事態ではなく、ここはじっくり原理的に考えなければ、次の手が打てない状況に追い込まれている。そのような認識が一般に広がっている。
千葉雅也は本書で、勉強とは同調圧力から解放され自由になるための自己破壊だと説き、勉強の原理を明らかにする。逆に言えば、勉強しないと今かかえている不自由や不幸、難しい問題は解消されないことを前提として、今ある環境(統治/権力)への抵抗を「勉強」と名付けて唱道している。
原理を明らかにしたうえで、その実践方法を案内する件は、学生やビジネスマンに向けた「勉強法」の本として読める。読むべき本の選び方やノートの使い方など、役に立つ情報がたくさん書かれている。ただ、本書の原理編を読んだあとでは、勉強の意味が変わっている。あくまでも本書において「勉強のすゝめ」は、変容と自由への行動を促すアジテーションなのだ。世が世なら、「共謀」の罪に問われるかもしれない。
現状追認的/環境依存的な思考では目の前の問題を解決できないと気付いた人に、いま哲学が求められているとして、ラディカル・ラーニング(深い勉強)の意義を再定義する本書こそ最初に読むべき本なのだろう。学問的な背景を補論として最後にまとめ、本文中には哲学の専門用語をほぼ使わない構成も、初学者にやさしい。
投稿元:
レビューを見る
私は勉強が好きなつもりだ。
その「勉強」について深く考えて見たくて読んだ。
ちょっと難しかったかな。
しかし、「勉強とは自分を破壊して、違うノリにうつることだ」という考え方は、転職を目前にしている自分としてはなんとなく共感できる部分があった。
投稿元:
レビューを見る
勉強してノリが悪くなり、さらに勉強して新たなノリへ。
序文で言っている意味がすんごくよくわかってぴかりーんと天啓を打たれた気分だった。
あらゆることに造詣が深くユーモアたっぷりなのにたまにアイロニーの渋さのある知り合いの数々が思い浮かんだ。
私の教科書となった。
投稿元:
レビューを見る
アイロニーとユーモアのくだりはよかった。
ただ、全体的に内容はうすかった。
まあ、でもよかった。
投稿元:
レビューを見る
まずノリの悪くなる学びを。
コードの逸脱。ボケとツッコミ。アイロニーとユーモア。問い立てができる力。
・入門書から専門書へ。どこまで勉強するか。
・享楽に従う勉強の有限化。視点を持つこと。
投稿元:
レビューを見る
人生は勉強だろう。人は言葉を使い、概念を持って思考する。勉強し、成長し続けるためには、アイロニーとユーモアを組み合わせ、来るべきバカとなり続けるということなのだろう。深いし、スカッとする。面白かった。
投稿元:
レビューを見る
ものすごいわかりやすい文章を追っていくうち、なんだかよくわからない混乱がやってきますが、でも、一方で感覚はわかるわかるモードに入っている、そんな読書でした。本書の中でもピエール・バイヤールの『読んでいない本について堂々と語る方法』を引き合いに、読書は完璧にはできない、と言ってくれて、その布石を打ってくれていたりします。わかる感じ、というか沁みてくる感じなのはアイローニー=ツッコミ=深追い、ユーモア=ボケ=目移り、のあたりから。正解を求めようとする完璧主義が、決断主義を生み、それが他者との共存を許さない不寛容となり、無限に多様性を追い求めるコレクションが、先延ばしを生み、それが非当事者意識となる、なんか、いまの社会の気分の見取り図として、ものすごく腹落ちしました。そのための処方箋が「仮の有限化」。アイロニーからユーモアへ。ユーモア的な有限化へ。比較を続けながら比較を中断する、ということが考え続ける、ということ。それが勉強を続けるということ。答えのない時代(答えがある時代があったか、どうかわからないけど…)の生き方としてなんかグッと来ました。
投稿元:
レビューを見る
1〜3章の文体の「キモ」さ(千葉氏の哲学的文体)と,4章の文体のギャップが面白い。勉強しろという本ではなく,勉強に対する弊害を押し出しているところがミソ。