投稿元:![ブクログ](//image.honto.jp/library/img/pc/logo_booklog.png)
レビューを見る
古典で見出しのみ習った程度の関わりだった枕草子が、本作読後は、定子が実際に平安の世を生き、人として存在した記録と色濃く思える。時政がわかり面白くはあるが、著者が後に出された、ひとり語りがあまりに読みやすかったため、こちらは参考書感が否めない。
投稿元:![ブクログ](//image.honto.jp/library/img/pc/logo_booklog.png)
レビューを見る
皇后定子が失意と悲嘆のうちに亡くなった時、まだ24歳。一条天皇は21歳だった。
悲運を描かず、もっとも華やいだ日々を書きつづり、后が存命の折りにはその悲しみを和らげ、没後には魂を鎮めたという背景を丁寧に教えてくれる本だった。
読み終えて、枕草子を読むと泣けてきた。
投稿元:![ブクログ](//image.honto.jp/library/img/pc/logo_booklog.png)
レビューを見る
遠い昔、学校で、定子と彰子2人が後宮で寵を競い、その手段の一つが文学だった、定子サロンは清少納言と枕草子、彰子サロンは紫式部と源氏物語、と教わった気がするけど、「源氏物語の世界」や「道長ものがたり」を読んで、実はこの2人、ほとんど時代が被っていないこと、定子が死ぬまで圧倒的に愛されていたことを知った。
そう知って、不遇の定子を気持ち的に支えたであろう清少納言そして枕草子、と知ると、まったく違う物語がみえてくる。
清少納言は、紫式部日記の影響もあってか、枕草子に書かれた内容がそうだからか、とかく「軽い人」と見てしまいがちだけど、この軽やかなエッセーの背景にある史実に思いを馳せながら、じんわりと読みました。
うん、興味深くて面白かった。
投稿元:![ブクログ](//image.honto.jp/library/img/pc/logo_booklog.png)
レビューを見る
学校でこんなこと教えてもらわなかった…!
自身のためではなく定子様のために。
清少納言の強い思いを感じることができた。
『枕草子』が執筆された前後の時代背景、清少納言や定子様周辺の人物紹介も詳しいので、理解が深まる。
『枕草子』を読む準備ができた。
投稿元:![ブクログ](//image.honto.jp/library/img/pc/logo_booklog.png)
レビューを見る
枕草子は悲運で救われない定子の在りし日の幸せな姿を
①本人に思い出させ②他の人に思い出させるため語り続
ける鎮魂の物語
それは中関白家の悲劇が生んだ
道隆の死が切っ掛け、道長が藤の長者となり、花山法王
を伊周が襲撃・・・中宮定子の出家・・・定子が率いて
いた知的で機知に富んだサロンは崩壊した
道長に尻尾を振る貴族(斉信)との仲を根拠に、清少納
言は主(定子)に仇成す存在と疑われて距離を置くが…
伊周が定子に紙の束(草子)を渡し「何か書けば?」と
言うのに清少納言が「枕にしたいわ」とウィット溢れる
やり取りを覚えていて、実家で籠る清少納言は華やかな
サロンで繰り広げられた幸せな日々を書き連ねて、絶望
・悲嘆にくれる定子の心を慰めるのだった
政治バランスが乱れた状況に鑑み、特定貴族を批判しない、子供(内親王・親王)の事に触れない、幸せで何気なおかしみダケを記したのである
投稿元:![ブクログ](//image.honto.jp/library/img/pc/logo_booklog.png)
レビューを見る
『枕草子』の世界を、作品が書かれた経緯に照らしつつ紹介する。『枕草子』は、個性的にして悲劇の人であった定子に清少納言が捧げた作品で、定子の生前は定子の心を慰めるために、定子の死後はその鎮魂の思いをこめて書かれた。・・そうだったのか。『枕草子』といえば、春はあけぼの~ の一文と、香炉峰の雪、のことぐらいしか頭に浮かばない。高校の古典の退屈な授業がそもそもの元凶のような気がするが、この本や大河ドラマ「光る君へ」をみていると、定子や清少納言が生き生きと動き出してきた。
体裁としては清少納言という一人の女房の個人雑記のような形を取りながらも、実は定子後宮という集団の産物であり、その意味で定子後宮の文化遺産といえる作品であることは、『枕草子』研究の基本的見解となっている、とある。
メモ
<枕草子の構成>
・類聚的断章・・「山は」「森は」など「~は」型、または「うつくしきもの」など「~もの」型でテーマを掲げ、それに沿って事物をリストアップした章段
・随想的章段・・批評や空想、日常の小さな体験などを、思いつくままに自由に書いた章段
・日記的章段・・よく知られる「香炉峰の雪」の段など、宮廷社会に起きた出来事を書き留めたもの。ほとんどは作者が見聞きした事実による。
・『枕草子』が集中的に書かれたのは長徳2(996)年頃。定子の兄弟・伊周と隆家の花山法王との事件「長徳の変」で処罰された後のことである。
・枕草子が書かれたいきさつ
巻末の跋文:内大臣の伊周が定子に白紙を贈った。正暦5(994)から長徳2(996)まで内大臣なのでその間だと思われる。伊周は同時に一条天皇にも献上していて、天皇はそれに漢籍の「史記」を書かせることにした。定子は「古今をや書きまし」と言ったが、清少納言が「枕にし侍らばや」と言うと、定子はならば受け取りなさい、と言い清少納言は白紙を自宅に持ち帰った。
<伊周>
漢文の素養があり定子とのやりとりも過去の和歌や漢詩にそって会話がされていると感激している記述(正暦4年(993)177段)
跋文を含めると9段にわたって登場。
<清少納言の孫娘と紫式部の孫息子>
・清少納言の娘・小馬命婦(こまのみょうふ):長じて彰子に仕え、歌人・藤原範永(のりなが)と贈答歌を交わす。さらにその娘も女房だったと思われ、高階為家なる人物と恋に落ち捨てられた。その為家が再び会おうと言ってくると、娘に代わって母の小馬命婦がぴしゃりとやりこめた歌が残っている(後拾遺和歌集 雑2908)
☆高階為家:なんと紫式部の孫! 紫式部の娘・賢子・大弐三位は高階成章と結婚し、その息子が為家。
<清少納言のひきこもり>
・137段「殿などのおはしまさで後」:長徳の変の後、定子が苦境に陥っているときにそばにいないとは、との女房達の言葉がある。また秋ころ、道長方内通疑惑を疑われ実家に里居した。・・その時定子の様子を清少納言に伝える役割をしたのが、源経房。清少納言は伊周や道長の姿や立ち居振る舞いがいい、と書いている。
<源経房>
・父は源高明。道長の妾明子とは同母兄弟。
<定子>
長徳3(997)、一条天皇は出家した定子を戻すべく「職(しき)の御曹司(みぞうし)」に移した。御曹司とは中宮職のための事務を行う庁舎。通りひとつ隔てて内裏の外側にある。・・「小右記」ではこれを『甘心せず』といい、世間では甘くみないよ、と記す。・・で山本氏は『源氏物語』での光源氏の母・桐壺の更衣は定子がモデルではないか、という。桐壺は父もなく実家も没落してキサキとして不適格な身分。定子も同様で、紫式部は同時代の社会が直面した問題として真正面からとらえた。だが清少納言は、『枕草子』にはそういうことは書かず、御曹司での復帰を歓迎し出家はなかったことにしよう、というスタンス。定子の第二の人生においても、定子は輝きいつも笑っていたと書き続ける。・・でも『枕草子』は清少納言が定子に捧げた作品なのでそれでよいのだ。それが、『枕草子』が『枕草子』であるということなのだ。
第74段「職の御曹司におはしますころ、木立の」
<行成>
一条期の四納言、藤原斉信・公任・源俊賢、そして行成。
斉信は貴公子ながら、定子の華やかな時は定子にすり寄り、中関白家が零落すると道長側に翻る。それに対し行成は定子の零落後に足しげくくるようになったかのように描かれる。ここには『枕草子』の意図があったとみる。狙いは二つ。一つは行成を零落した定子よりの人物として貴族社会にアピールすること。それは、行成は道長とも近く、彰子入内に骨をおったり、客観的には中間の立場だったのをはっきり定子よりとしたかった。もう一つは、そんなわかりにくい行動があり、言葉巧みでもないのでいまひとつ女性には不評だったらしい行成を、親しいものしかわからないエピソードで魅力を伝えること、だという。(第47段「職の御曹司の西面の立蔀のもとにて」では、行成が人には理解されにくいこと、しかし自分は彼のよき理解者であると記す)
2017.4.25第1刷 図書館
投稿元:![ブクログ](//image.honto.jp/library/img/pc/logo_booklog.png)
レビューを見る
大河ドラマ繋がりで読みました。「枕草子」や清少納言て、紫式部や「源氏物語」に比べると、明るくてサバサバなイメージでしたが、背景には辛い状況があったんですね。それを隠して雅な様子を書き綴った辛さと、精神的強さに感服しました。
投稿元:![ブクログ](//image.honto.jp/library/img/pc/logo_booklog.png)
レビューを見る
大河周りで友人に教えてもらった本。図書館本。
正直に言って「春はあけぼの」のくだりと「香炉峰の雪」、それから紫式部の「アイツ知識ひけらかしてる」くだり程度しか清少納言周りの知識がなかった(高校まででやってないことはないと思うのだけど、記憶が…)。そんなだから、清少納言の1番の推しは清少納言自身、その次に定子だと思っていた。清少納言<<<(越えられない壁)<<<♡定子様♡だった。とんだ強火担じゃないか。